夕食を食べ終えた宏樹と紫音は、二人でお風呂に入って行く。
その間、言音は眠ったふりをしてずっと考えていた。
どうすれば二人に伝えたい言葉を伝えられるか。
言音の未練は間違いなく、愛する家族に何も言葉を残すことができず、突然死んでしまったことだ。病気や老衰ならば死を覚悟して遺書を書いたり面と向かって想いを伝えたりすることができた。でも言音はそうじゃない。突然の事故死で、心の準備なんて何もなく、日常の延長線上に死が転がっていた。
だからこそ、『言の葉書房』で目が覚めた時、もっと家族に普段から気持ちを伝えていれば、と後悔したのだ。
そんな言音に、ハルサカはチャンスをくれた。確かに、言葉を話すことのできない生き物に擬態するというのはかなり不自由な制約だとは思う。でも、何もできずに死んでしまうよりずっといい。
だって言音は今、生きているのだ。
花音として、花音の身体を借りて、生きている。
たとえ言葉を話せなくても、自分にできることはまだあるはずだ、と強く確信した。
「あー気持ち良かったな。紫音、髪がまだちゃんと乾いてないからこっちに来なさい」
「えー、ぼくもう遊びたい」
宏樹と紫音がお風呂から上がったのか、宏樹の呆れる声が言音の耳にも届いた。
遊びたい盛りの紫音は、濡れた髪もそのままにリビングへやってきて、ブロックで遊び始める。
「わがままだなぁ。まあ……でもいいか。今はわがままでも」
宏樹はため息を吐きながらも、紫音がおもちゃで楽しく遊んでいるのが嬉しいのか、ほっと安堵の表情を浮かべた。
それからすぐに、言音のほうへと視線を向ける。
目が合った言音は、どきりと心臓が跳ねた。
「そろそろミルク、だよな。お義母さんが十七時にあげてくれたって言ってたし」
宏樹の言葉に、言音はきょろきょろと視線を動かして時計を見つめる。現在二十一時。花音のミルクは大体四時間おきにあげているので、確かにそろそろミルクの時間だ。
そう言われると、言音のお腹がくぅ、と小さく鳴った。
「お腹空いたよね。今すぐつくるからね」
お風呂上がりでさっぱりとした顔の宏樹が、キッチンへと消えていく。
言音が生きていた頃は、宏樹は花音のミルクの時間なんて全然把握していなかった。言音の頭の中には常に「花音の授乳時間スケジュール」が浮かんでいるのに対し、父親である宏樹は「え、もうミルクの時間?」と行き当たりばったりで驚いた声を上げるばかり。そんな宏樹に、イライラした日も一度や二度じゃない。どうして自分ばかりが花音のことを考えているのだ——と、どうしても文句を言いたくなることもあった。
でも、宏樹は宏樹で仕事が忙しく、仕事のスケジュールで常に頭がいっぱいだったかもしれない。家にいる時ぐらいは頭を空っぽにしたかっただけなのかもしれない。
今更彼の気持ちに気づいて、さらに言音が亡き今、きちんと花音の授乳スケジュールを把握してくれている宏樹に、言音は胸がいっぱいになった。
「もしかしてずっと起きてた? 遅くなってごめんね」
ミルクをつくり終えた宏樹が戻ってきた。
言音を抱き抱え、紫音が遊んでいるそばで座って哺乳瓶を傾ける。
ミルクを飲むことにすっかり慣れてしまった言音は、こくこくと喉を鳴らしながら一気にミルクを飲み干した。
縦抱きにされて、トントンと背中を優しく叩かれる。口から「げふっ」とゲップが出ると、宏樹が「やった」と小さく笑った。
その後、おむつ替えまでしてくれて、温泉上がりのようなすっきりした気分で抱き抱えられていると、不意に宏樹が「花音」と語りかけた。いつもの「カノちゃん」ではなく「花音」。それが意味するところを考える暇もなく、宏樹は眉を下げて言音の目を見つめながら言った。
「ごめんな、花音。ママ、いなくなっちゃって。パパしかいなくて。でもな……ママは、花音を守ったヒーローなんだよ」
トクトクトクと言音の心臓が——いや、花音の心臓が宏樹の言葉に呼応するように速くなっていく。
(ヒロ……)
あなたがそんなふうに考えてくれていたなんて。
花音に、そんな温かな言葉をかけてくれるなんて。
胸が詰まって、本当ならしゃくりあげるぐらい泣きたかった。でも、どういうわけか、泣けない。その代わりに、どんどん涙が溜まっていく宏樹の瞳をじっと見つめ返した。
泣かないで、ヒロ。
……いや、泣いてもいいよ、ヒロ。
父親だけが泣けないなんて、そんなの辛すぎるから。
今だけは、そばで私が見守ってるから。
言音の心の声が聞こえたかのように、宏樹が言音を抱っこしたまま、片方の腕を顔にぎゅっと押し当てる。泣いていることを、紫音に見られまいとするように。言音はそんな格好良い夫の姿を目に焼き付けて、胸に刻みつけた。
もうあなたと、悲しみを半分にすることができない。
でも今は、あなたと同じように胸の痛みを感じられるから。
だから泣いていいよ。
いっぱい泣いて、少し休んで、それから紫音や花音と一緒に楽しい思いをたくさんして。いつか、その時の話を私に聞かせて——。
その間、言音は眠ったふりをしてずっと考えていた。
どうすれば二人に伝えたい言葉を伝えられるか。
言音の未練は間違いなく、愛する家族に何も言葉を残すことができず、突然死んでしまったことだ。病気や老衰ならば死を覚悟して遺書を書いたり面と向かって想いを伝えたりすることができた。でも言音はそうじゃない。突然の事故死で、心の準備なんて何もなく、日常の延長線上に死が転がっていた。
だからこそ、『言の葉書房』で目が覚めた時、もっと家族に普段から気持ちを伝えていれば、と後悔したのだ。
そんな言音に、ハルサカはチャンスをくれた。確かに、言葉を話すことのできない生き物に擬態するというのはかなり不自由な制約だとは思う。でも、何もできずに死んでしまうよりずっといい。
だって言音は今、生きているのだ。
花音として、花音の身体を借りて、生きている。
たとえ言葉を話せなくても、自分にできることはまだあるはずだ、と強く確信した。
「あー気持ち良かったな。紫音、髪がまだちゃんと乾いてないからこっちに来なさい」
「えー、ぼくもう遊びたい」
宏樹と紫音がお風呂から上がったのか、宏樹の呆れる声が言音の耳にも届いた。
遊びたい盛りの紫音は、濡れた髪もそのままにリビングへやってきて、ブロックで遊び始める。
「わがままだなぁ。まあ……でもいいか。今はわがままでも」
宏樹はため息を吐きながらも、紫音がおもちゃで楽しく遊んでいるのが嬉しいのか、ほっと安堵の表情を浮かべた。
それからすぐに、言音のほうへと視線を向ける。
目が合った言音は、どきりと心臓が跳ねた。
「そろそろミルク、だよな。お義母さんが十七時にあげてくれたって言ってたし」
宏樹の言葉に、言音はきょろきょろと視線を動かして時計を見つめる。現在二十一時。花音のミルクは大体四時間おきにあげているので、確かにそろそろミルクの時間だ。
そう言われると、言音のお腹がくぅ、と小さく鳴った。
「お腹空いたよね。今すぐつくるからね」
お風呂上がりでさっぱりとした顔の宏樹が、キッチンへと消えていく。
言音が生きていた頃は、宏樹は花音のミルクの時間なんて全然把握していなかった。言音の頭の中には常に「花音の授乳時間スケジュール」が浮かんでいるのに対し、父親である宏樹は「え、もうミルクの時間?」と行き当たりばったりで驚いた声を上げるばかり。そんな宏樹に、イライラした日も一度や二度じゃない。どうして自分ばかりが花音のことを考えているのだ——と、どうしても文句を言いたくなることもあった。
でも、宏樹は宏樹で仕事が忙しく、仕事のスケジュールで常に頭がいっぱいだったかもしれない。家にいる時ぐらいは頭を空っぽにしたかっただけなのかもしれない。
今更彼の気持ちに気づいて、さらに言音が亡き今、きちんと花音の授乳スケジュールを把握してくれている宏樹に、言音は胸がいっぱいになった。
「もしかしてずっと起きてた? 遅くなってごめんね」
ミルクをつくり終えた宏樹が戻ってきた。
言音を抱き抱え、紫音が遊んでいるそばで座って哺乳瓶を傾ける。
ミルクを飲むことにすっかり慣れてしまった言音は、こくこくと喉を鳴らしながら一気にミルクを飲み干した。
縦抱きにされて、トントンと背中を優しく叩かれる。口から「げふっ」とゲップが出ると、宏樹が「やった」と小さく笑った。
その後、おむつ替えまでしてくれて、温泉上がりのようなすっきりした気分で抱き抱えられていると、不意に宏樹が「花音」と語りかけた。いつもの「カノちゃん」ではなく「花音」。それが意味するところを考える暇もなく、宏樹は眉を下げて言音の目を見つめながら言った。
「ごめんな、花音。ママ、いなくなっちゃって。パパしかいなくて。でもな……ママは、花音を守ったヒーローなんだよ」
トクトクトクと言音の心臓が——いや、花音の心臓が宏樹の言葉に呼応するように速くなっていく。
(ヒロ……)
あなたがそんなふうに考えてくれていたなんて。
花音に、そんな温かな言葉をかけてくれるなんて。
胸が詰まって、本当ならしゃくりあげるぐらい泣きたかった。でも、どういうわけか、泣けない。その代わりに、どんどん涙が溜まっていく宏樹の瞳をじっと見つめ返した。
泣かないで、ヒロ。
……いや、泣いてもいいよ、ヒロ。
父親だけが泣けないなんて、そんなの辛すぎるから。
今だけは、そばで私が見守ってるから。
言音の心の声が聞こえたかのように、宏樹が言音を抱っこしたまま、片方の腕を顔にぎゅっと押し当てる。泣いていることを、紫音に見られまいとするように。言音はそんな格好良い夫の姿を目に焼き付けて、胸に刻みつけた。
もうあなたと、悲しみを半分にすることができない。
でも今は、あなたと同じように胸の痛みを感じられるから。
だから泣いていいよ。
いっぱい泣いて、少し休んで、それから紫音や花音と一緒に楽しい思いをたくさんして。いつか、その時の話を私に聞かせて——。



