十四人の卒業アルバム  ~君がついた優しい嘘は、七つのきら星になって~


 美術室に置かれた大きな姿見に映った自分の顔と、キャンバスに描きかけているそれを見比べる。なんて存在感のない顔なんだろう。十六年生きてきて、自分の顔なんてあんまり意識したことはなかった。コンプレックスを感じたこともなかった。

 デザインやイラストに興味があって学校の美術部に入ってみた。絵画を描くこと自体にはあまり興味はなかったけど、基礎的なデザイン力を養う場としては適していると思う。画力をつけていくための練習として、部員同士の姿を描いたり自画像を描いたりする。

「透子ちゃんの顔って、描きやすいような、描きにくいような……」
 私とペアになってお互いの顔を描いていた一つ上の先輩が、木炭画を描き終え、絵の具を用意しながらぽつりとそう言った。ひょっとしたら独り言だったのかも知れない。でも私はその言葉を拾った。
「どういうことですか?」
「あ、ごめん、別に悪い意味じゃないの……なんと言うか、目も口も鼻もすごくシンプルで、輪郭も普通。だからすごく整っている。サッと線がひけちゃうんだけどね、それだけに特徴が出しにくい……あ、ごめん、ほんと別に悪い意味じゃないの」
 ご本人が言うように、決して悪気があるわけではない。それはわかっている。でもその一言から、私の『自分の顔への疑問』が始まってしまった。私は先輩を困らす様な顔立ちをしているのだろうか。

 自画像を描いてみると、それが身に染みて実感できた。瞳も、瞼も、眉も、鼻根も、鼻筋も、鼻翼も、頬の膨らみも、唇の厚さも、口の大きさも、顎の輪郭も、下顎も。どこにも特徴を感じられない。『平均顔』という写真を見たことがあるだろうか。多くの人の顔写真をデジタル技術で合成し、平均的に作り上げられた顔。まさにそれだ。
 今、私の目の前にある鏡が映し、キャンバスに描かれた顔がまさにそれだ。決して悪い顔立ちじゃないと思う。でも、それは作り上げられたような架空な顔。自分が本当に存在しているのか、疑念を感じる顔。

 私は、自分の顔を描いたり描かれたりするのが嫌になって、美術部をやめてしまった。それだけでなく、友達と一緒にスマホで写真を撮ることもできなくなってしまった。
 一度ゲームセンターに遊びに行ったとき、一緒にいたクラスメイトに無理に勧められ、プリクラの『顔加工』をやってみたけど、出来上がった写真を見て吐き気を感じ、思わずそれを投げ捨て、本当にトイレに行って吐き、そのまま先に帰ってしまった。

 顔の悩みは人それぞれだ。客観的にみると、たいして悩む必要がない場合もある。でも人から「それほどでもないよ」とか「むしろそこが可愛いよ、魅力的だよ」とか言われても、それを聞く耳は持っていない。いつのまにか私は、度なし眼鏡とグレーのマスクが手放せないようになっていた。高校を卒業し、大学に通っている今も必需品だ。自分を隠す。まるで暗がりに身を潜めるように。

 私は、あの女子高の美術室に、自分の顔を捨ててきた。



「エミ、じゃあワタシ先に帰るね」
「うん、お疲れ様」
 二年美術部の私、白瀬 絵美(しらせ えみ)は、同級生の部員であるサトコを手を振って見送った。
帰り際に彼女は振り向き、思い出したように話し始めた。
「でもさ、あなた、静物画でこれだけたくさんのモチーフ、よく描いたよね……果物、野菜、花瓶、ワインボトル、バイオリン、食器や時計、円柱にヴィーナスにブルータス……ひょっとして、美術室や身の回りでゲットできるモチーフ、全部描いたんじゃないの」
 サトコが私の後ろのテーブルに立てかけてある十点ほどのキャンバスをパタパタとめくって呆れるように言った。
「大げさね、モノを描くの好きだし、練習になるし……それに、ときどき風景画も描いてるよ」
「そう言えばエミ、人物画は全然描かないね、せっかくモデルさんが来たときも休んじゃうし」
「……え、ええ、まあ」
「きっとさ、あんた、人を描くの、うまいと思うよ。こんだけ練習してるんだし……なんなら今度、ワタシがモデルになってあげようか?」
 そう言ってサトコは片手を頭の後ろに回し、セクシーポーズをとって笑い、じゃあねと言って今度こそ美術室を出ていこうとした。

「あ、サトコ」
「なーに?」
「あのさ、図書室のボックスからノートを持ってくるようにって、インスタに変なDMが来てたんだけど、あれ、あなたのイタズラ?」
「え、なにそれ? 知らないよ」
「ああそう、ごめん、そんなこと、できるわけないよね。じゃあまた金曜ね」

 サトコは頭上にクエスチョンマークを浮かべながら帰っていった。
 あのノート、彼女じゃないのか。それには七人の名前が書いてあった。私は六番目。その前の五人は、そのノートに日記のような、エッセイみたいな、ちょっと不思議な文章を書き綴っていた。次は私の順番で、同じように書けってことなのだろうか……でもいったいなにを書けばいい?

 作品棚から引っ張り出してきたキャンバスの点数は確かにかなりの量だ。棚の中でも自分が一番場所を取っているかもしれない。一応、どれも習作ばかりなので、いつまで未練がましく保管していないで、ジェッソ(地塗り剤)を塗るか、布地をはがすかしてリサイクルした方がいいかも知れない。

 人物画か。

 確かに描きたいのだけど、私には描けない。描いてはいけないのだ。
 人を描くことができないのなら、もう絵なんて描かなくてもいいんじゃないの? 私の中のもう一人の私が、そう問い詰める。確かにそうかも知れない。最初は、人のことをよーく見て、それを自分なりに表現するのが楽しくて絵を描き始めたのだから。

 でも。
 テレピン油や亜麻仁油の匂い……鼻の奥をツンと突くけれど、どこか甘く落ち着く匂い。木炭や濃い鉛筆の粉っぽい削りカスの匂い。作品棚の古い木の匂い。そして、それらに混ざり合う、カーテンを揺らして入って来る秋風の匂い。ほんのりと金木犀の香りが混ざっている。
匂いだけじゃない。
 美術室の奥まで差し込む、オレンジ色の夕暮れ前の淡い光。その光の筋の中で、なにやらキラキラと舞っている。この場ならではの空気感が味わえる美術室で放課後を過ごしたい。なにかをやっていたい。だから、絵を描くことをやめられずにいる。

 私はもう一度、アイボリーのクロスが敷かれたテーブルの上のモチーフ――図書館で借りた古い辞典 + 砂時計 + 枯れた花 + 素焼きのマグカップ――に集中する。
 モチーフのテーマは、『過ぎ去った過去』だ。そろそろデッサン力の向上に加え、意図の表現力を磨くことを考えていきたい。

 カタンと物音がした。キャンバスがぶつかり合う音だ。サトコが帰って、もう部員は誰も残っていないはずだ。
 振り向くと、女子生徒が一枚のキャンバスを持って立っていた。セーラー服姿で、細い銀縁メガネをかけ、グレーのマスクで顔が覆われている。確かこの制服、何年か前にウチの女子高の制服がブレザーになる前のものだったはずだ。小さい頃、そのセーラー服姿の生徒を街でよく見かけ、この学校に憧れたものだ。残念ながら今は変わってしまったけれど。でもこの生徒、なんで昔の制服を着ているの?

「あ、あの……あなたは?」
「ああ、ごめんね。せっかく集中して描いてたのに邪魔して」
「え、まあいいですけど……」
「アタシは、藍川 透子。以前この美術部で描いてたこともあったのよ」
「……そうなんですか」
 OBの人だろうか?

「は、はじめまして、二年の白瀬 絵美と言います」
「よろしくね……あ、どうぞ続けて頂戴」
 そう言われても、彼女のことが気になる。私が描いたキャンバスを手に取って凝視し始めたし。私の視線に気づき、彼女は顔を上げた。マスクで顔が覆われているから、よくわからないけど、私を見て微笑んだような気がする。

「鳥かごに鍵にドアノブに青いリボンか……ずいぶん意味深ね……コンセプトは、閉塞感からの脱出……自由かな? うんうん、そんなものを絵全体から感じ取れる」
「あ、ありがとうございます。だいたいそんなところです」
「いいね? そのテーマ。すごくわかる」
「?」

 彼女は、手に持っていたキャンバスを元に戻し、他のキャンバスも一緒に手で指し示した。
「ざっと見たところ、人物画がないね。たまたまここに静物画集めただけかしら?」
「え?」

 そこを質問してきたか。
「あの……人物画は、もう描いていません。ここにはありません」
「そうなんだ」
 彼女はそれ以上理由を聞くことはなかった。
 ただし、目を伏せた彼女の口からつぶやきが聞こえた。
「そうよね、人の姿なんか……顔なんか描く必要はないものね」

 彼女は私に向き直る。
「ねえ、よかったらでいいけど、ときどきアタシもこのくらいの時間にここに来て、エミちゃんと一緒に描いていい?」
 エミちゃん……
「え、いいですけど?」
「ありがとう! じゃあまたね」

 それだけ言い残して、彼女はそのまま足早に美術室から出ていった。



 その週の金曜日、午後五時過ぎ。美術部の独自ルールとして決められている部活終わりの時間に美術室のドアが静かに開いて、女子生徒が顔を覗かせた。トウコさんだ。

「入ってもいいかな?」
「どうぞ……もう誰もいないし」
彼女がそれを望んでいるのかどうかはわからないけど、そうつけ加えた。

「それじゃお邪魔します」
トウコさんはドアをさらに大きく開け、トートバッグを抱えて入ってきた。

「ひょっとして、絵の道具持ってきたんですか?……私のを貸してもよかったんですけど」
「ああ、いいのよ。しばらく放置してたから、ちゃんと使えるかわからないけど、やっぱり自分の道具で描きたいし」
「そうですか……それで、なにを描きます?」
 彼女は、私のイーゼルの前に置かれているテーブルを見た。

「ふーん、黒電話……よくこんなの、とってあったね、それと、カバーがはずれた読みかけの文庫本にカフェオレのボウルにコースターか。『確かになにか話していたはずなんだけど、思い出せない。なにか読んでいたんだけど、憶えていない』そんな雰囲気を感じるね」

 私は少し驚いた。だいたいそんなテーマを設定して静物画を描いていたからだ。

「じゃあ、アタシも同じものを描く」
 そう言って、トウコさんは勝手知ったるようにイーゼルと椅子を引っ張り出してきて私の隣に自分の場所を作った。彼女は自分用にF3号のキャンバスを持って来ていたけど、地塗りしてリサイクルしたばかりの6号サイズのキャンバスを使わないかと勧めたら、恐縮しながらも嬉しそうにイーゼルに置いた。

 描き始めると、二人ともずっと黙ったままだった。カサカサという木炭がこすれる音と、窓から微かに聞こえる運動部の歓声、チャイムの音が一回なっただけだ。元々私は絵を描き始めたら喋らないし、イヤホンで音楽も聴かない。だから、この静寂の時間の中で手を動かしているのが好きだけど、トウコさんはどうだろうか? チラッと横を見ると、モチーフとキャンバスをせわしなく目線を移動させているだけ。口元はマスクに隠れてわからない。

 二回目のチャイムが鳴った。
 学校から完全退出、十五分前の合図だ。

「ふう、お疲れ様」
 彼女は顔を上げ、額を手の甲で拭った。
「この時間内だと、木炭でデッサンするのが精一杯だね、どれどれ、見せて」
 そう言いながら私のキャンバスを覗き込んできた。あまりよく知らない人に、描きかけの絵を見られるのは、なんだか恥ずかしい。

「ほんと、時間が止まったよう。モノクロなのに、なんかセピアな色合いを感じる」
「そ、そうかな……トウコさんのも見せて」
 彼女もちょっと恥ずかしそうにしていたけど、椅子を少し寄せて私が見やすくしてくれた。

「す、すごい」
 そんな月並みな言葉しか出なかった。
 確かに、それは静物画で、キャンバス上にはテーブルに並んだものが描いてあるだけなんだけど、なんていうか、『確かにそこには人がいた気配』が感じられるのだ。それは五分前なのか、一日前なのか、それとも一年前なのか、定かではないけれど。一時間くらい木炭をキャンバス上で走らせただけなのに。

「人がいた気配……どうやってこの雰囲気を表現しているんですか?」
「えっ、そういうの、感じてくれるんだ、ありがとう。……でも、技術的にどうとか、説明できないわ」
「じゃあ、どういうことを考えて描いているんですか?」
「そうねえ……この状態の前後にあるストーリーを考えているくらいかな」
「ストーリー?」
「うん、この主人公の中年の男性は、文庫本を読んでいて、その一節から、大事な人に伝えていないことを思い出した。それで、電話をしてみたけど、つながらない。そこで慌てて支度をして旅に出た……とか」
「物語のワンシーンとして捉えている、ということでしょうか?」
「そういうことになるのかな」

 あの静かな時間、トウコさんは頭の中で物語を創っていたんだ。
「ありがとうございます。すごく勉強になります……私なんかまだまだ……」
「そんなことないよ、エミちゃんのデッサンからは、なんていうか、静物画なんだけど、そこに描かれているモチーフが、今はそこにじっとしているしかなくて、それを悲しんでいるっていうのか……『静物』なんかじゃないんだよって心の声が聞こえるっていうか」

「そうなんですか?」
「うん、それはあなたの絵の不思議な魅力」
「あ、ありがとうございます」

「こうやって二人で絵を描くって、楽しいね」
 そう言ってトウコさんは銀縁メガネの奥の目を細めた。

 そして少し間を置いて彼女はこうつぶやいた。
「あなたとアタシは、寂しさを共有している」

 椅子や画材道具を片づけると、初めてここに来たときのように彼女はトートバッグを抱えて足早に美術室から出ていった。

 木炭のデッサン画は、私のイーゼルの隣に並んだままだ。



 それから数回に分けて、私たちは黒電話と読みかけの文庫本とカフェオレボウルの静物画を仕上げていった。絵を描いている間、美術室の中は相変わらず無言の時間が続いたけど、それでも一言二言、会話をするようになった。

 そして、今まで描いていた静物画を仕上げる日。不意にトウコさんが聞いてきた。

「エミちゃん……やっぱり人物画は描かないの? 描いたらうまいと思うんだけど」

 それに答えるべきか一瞬迷った。
「あ、ごめん……答えたくなかったら、無理しないで」

 あなたとアタシは、寂しさを共有している――トウコさんのその言葉を思い出した。だから話してもいいと思った。

「私が人物画を描かない理由……それは、呪いにかかっているからなんです」
「呪い?」
「はい。私が書いた人は、みんないなくなってしまう」
「え? ……やっぱり聞かない方がいいかな」
「いえ、いいんです」

 私は絵筆とパレットを脇のテーブルに置く。
「最初は、母でした……小学生のときに、学校の宿題で画用紙に水彩絵の具で描きました。お母さん、きれいに描いてくれたって喜んでくれた……でも、半年もしないうちに病気で亡くなりました」

 トウコさんはすまなそうに答えた。
「ごめんなさい。そうだったの。それは辛かったね……でも絵を描いたから亡くなった訳ではなくて、ただの偶然だったんじゃ……」
「それから中学生になって、仲がよかった同級生の女の子を美術の時間に描いたら、その子、急に引っ越してしまって連絡もとれなくなりました」
 そのまま私は続ける。
「中三のとき、当時つき合っていた男子がいて、ノートに彼の似顔絵を描いて見せたら、そんんなにイケメンじゃないよって照れてた。それでも嬉しそうだったので、私も嬉しかった。なのに、卒業間際に別れようって言い出して、高校も別々になったので、それっきりです」

 私は、初めて他人に『人物画を描かない理由』を話した。
 話したからといって、どうなるものではない。きっと、この先も私は人の顔も姿も描けないままだ。

 その話を聞いて、トウコさんも絵筆とパレットを脇のテーブルに置いて、ほぼ仕上がった静物画を見つめ、しばらく黙っていた。

 私は再び筆を持とうとした。すると、彼女は急に顔を私に向けた。
「口にするのが辛いことを話してくれてありがとう。お詫びにってわけじゃないけど私もエミちゃんに伝えてなかったことをちゃんと話しておく」
「え! お詫びだなんて……別にいいですよ」
「でも、聞いて欲しいの。あと、それに関してお願いしたいこともあるし」
「?」

 トウコさんは立ち上がると、静物画のモチーフが載っていたテーブルの脇に椅子を置き、
 ゆっくりと座った。

 数秒、彼女の動作が止まったけど、なにか意を決したように、メガネとマスクをはずした。彼女の素顔を初めて見た。

「私の顔を見てどう思った?」

「え?……お世辞とかなしで、整っていて綺麗な顔だと思う」
「他になにか、言葉で表現できる?」

 彼女は真剣に私を見つめていた。だから、思ったことをそのまま伝える。
「静かで……存在を消している」
「やっぱりそうか……正直に話してくれてありがとう」

 私は慌ててつけ加える。
「ううん、それだけじゃないの……トウコさん、あなたの顔は確かに静かだけど、なにかを伝えたがっている、隠れた気持ちを表現したがっている!」

 本当にそう思えた。だから率直に言った。
 トウコさんは驚いたように目を見開いた。そして、唇を震わせた。

「やっぱりね、エミちゃん。あなたすごいよ」
 彼女の瞳から涙が流れ出し、整っていた顔が少し歪み、透き通っていた肌が少し赤くなった。
 私は慌ててハンカチを取り出し、彼女に渡す。ありがとうと言ってそれを受け取ると、涙に詰まりながらもトウコさんは話を続けた。

「そんな風にアタシのことを見てくれるあなただから、お願いがあるの……これはあなたにしか頼めない」
「お願い? 頼み?」

「うん。アタシの顔……肖像画を描いて欲しいの」

「え!」

 私は絶句した。ついさっき、私が人の絵を描かない理由を伝えたばかりなのに。
「それは無理です! さっきも話した通り、私が人の絵を描くと、その人は消えてしまう。トウコさんに消えて欲しくなんかない!」
つい声が大きくなってしまったけど、これで諦めてくれるだろう。

 それに対し、トウコさんは静かに話し始めた。
「なぜこんなことを頼むかっていうとね、それはあなたのためでもあるし、アタシのためでもあるの」

「?」

「エミちゃんが描いた人がいなくなってしまうっていう話、それが呪いなのか、ただのあなたの思い込みなのか、私にはわからない。でも、このままだといつまで経ってもあなたは『人を描く』ことができない。ほんとはエミちゃん、人をいっぱい描きたいんでしょう?」

「……いや、そんなことは……ごめんなさい、やっぱり描きたいです」

「それからもうひとつ、『アタシのため』っていう話。アタシはある人に、『透子ちゃんの顔って、描きやすいような、描きにくいような』って言われたの。整ってはいるけど、特徴が無いって……存在感が無いって」
「いや、そんなことはないと思いますけど」
 私は懸命に否定する。
「それ以来、自分の顔に自信が持てなくなって、そしたら、自分に自信が持てなくなって……もともと存在感が無いのなら、ずっと存在を消していたいって」
 それで、メガネとマスクで顔を覆っていたのか。

「でもね、エミちゃん、あなたがアタシのことをちゃんと見てくれていることがわかり、あなたが描いている絵のことがわかり、強く思うの。あなたなら、『本当のアタシを引き出してくれる』って……だからお願い。私のことを描いて」

 私は迷う。また自分の前から人が去ってしまうんじゃないか、トウコさんはただ私のことを買い被っていて、思うように彼女らしさを引き出すことができないんじゃないかって。

 秋の風が吹き、金木犀の香りともに優しくオレンジに輝く夕陽がたなびくカーテンの隙間から射し込んできた。目を細め、二人でそれを見つめる。

「きっとその先に、未来がある。二人とも輝ける未来が」
 セーラー服の女子がつぶやいた。それを聞いて私は決心する。

「はい、わかりました……でも約束してください。絶対に私の前からいなくならないって」
「うん。約束する。ずっと一緒にいる」



「だめ……手が動かない」
 私は木炭を持つ右手を左手で押さえた。

 トウコさんは椅子から立ち上がり、私に近寄ると、彼女の両手でそれを包みこんだ。なにか、金色の粒々をイメ―ジさせる熱が伝わって来て、そうやって私の気持ちを落ち着かせてくれた。

 木炭を持つ手がキャンバスの上で動き出した。
 彼女は椅子に座り直し、微笑んだ。

 次の部活の日から、私はトウコさんの肖像画の制作に取り組んでいた。
 服装や、背景はどうするかとか、アトリビュート(絵に入る小道具)はとか、彼女にリクエストを聞いたけど、いつものセーラー服姿で、バストアップで、この美術室の壁が背景でいいとのこと。もっとも、私もずっと肖像画を描いていなかったので、内心ほっとした。

 木炭に始まり、彼女の顔や姿を描いていく、どのプロセスでも、小さな驚きと発見があった。彼女は自分の顔について、どのパーツも全体的にも平均的と言うけれど、それだからこその変化がよくわかる。
 真剣な眼差し、遠くを見つめる憧れと期待を抱いた瞳の輝き、いたずらっぽさを強調するまつ毛。
 ほどよい口の大きさと唇。前よりもその形状が変化するようになった気がする。特に笑う表情が豊かになったのではないだろうか。白い歯がきれいな笑顔。すぼめた唇。ときどきふざけて口元を尖がらせた。

 透き通った頬は上気して赤みがかったり、物思いにふけっているときのそれは白さが強調され、選ぶ絵の具に苦労した。

 彼女は、プライベートのことはあまり話してくれなかったけど、好きな画家や、風景画を描くために訪れた街のこと、そこで食べた美味しいものなどをたくさん教えてくれた。

 自分が描く人物画のジンクスのことなんかすっかり忘れて筆を動かした。



「これで完成……かな?」

 秋も深まったある日。完全下校を知らせる二回目のチャイムが鳴る前の夕方に、私は自分の作品の出来にちょっぴり不安を感じながらも、筆を置いた。

 トウコさんは私の完成宣言とともに椅子から立ちあがり、キャンバスの前に急いだ。
 そして、自分自身の肖像画と向き合う。そんなシーンを目にするのも私にとっては貴重な体験だった。
 しばらくキャンバスの中の自分を見つめていた彼女。そして口元から笑みが漏れた。
 その笑顔のまま、セーラー服姿の女の子は私を見つめる。

「ありがとう! これが、『ほんとうのアタシ』なんだ……心からそう思えるよ」
 そう言って彼女は私に抱きついてきた。
 私もしっかり抱き締め返す……約束してくれたけど、彼女がどこにも行ってしまわないように。

「本当にどこにも行かないよね?」
「うん……どこにも行かないよ……でもね……ごめん、ちょっとだけ嘘ついた」
「えっ! どういうこと?」
 私は彼女の手をほどいて、問いただそうとしたが、ぎゅっと抱き締められて離してくれない。

「あのね、アタシは元々消えてしまう運命だったんだ……それをエミちゃんが救ってくれた」
 私は必死にもがいて彼女の腕を振りほどき、彼女の顔を見た。浮かんだ涙が夕陽に照らされ光っている。
「ねえ、それどういうこと? なにを言ってるのかわからない」
「アタシはね、かつてこの学校にいた、ある生徒の顔。行き場をなくして、この美術室に取り残されていたの。でもあなたがアタシの本当の顔を教えてくれたから、こうやってエミと一緒にいられるし、その生徒も自信を取り戻せるはず」
「言ってること、ますますわからない! ねえ、だからどこにも行かないでってば!」
「うん、どこにも行かないよ。あなたが私の絵をそばに置いてくれさえすれば」
「まさか……この絵をあなたの代わりにしろっていうこと? ひょっとして最初っから嘘をついていたの⁉」

 優しく金色に光る彼女の涙が私の頬に落ちる。
「ちがうの……あなたが描いてくれた『絵そのものが私』なんだよ」
「わけわかんない!」

 トウコさんは私から少しだけ離れ、両手を握った。彼女の手から金色の粒々が放たれ、私の手の中にしみ込んでくる。彼女の思いと一緒に。

「……そういうことなの?」
「うん、だから決してあなたの前からいなくならない」
「わかったよ、……でも、こうして手をつないだり、ハグしたりできないのは辛いよ」
「大丈夫。だってエミちゃんは、こんなに素晴らしい絵を描くんだもの。あなたの想像の世界で、ハグだってなんだってできる」

 少しずつ、彼女の輪郭が夕陽と同じ色に光り始めた。やがてそれは金木犀の小さな花びらのように形を変え、彼女の周りを浮遊し始める。

「じゃあ、さよならは言わないよ」
 そう言いながらも、涙がこぼれて止まらない。

「うん、じゃあ、またね」
 彼女はそう言って、涙を浮かべながら微笑んだ。

 そして、セーラー服姿だった女の子は、そのすべてを金木犀の花弁に姿を変え、その無数の光の粒々は、私が描いた肖像画の中に吸い込まれていった。

 キャンバスの中の彼女は、さっきまで目の前にいた女の子とまったく同じ笑顔を見せた。



「おはよう、トウコさん」
「おはよう、エミちゃん。今日も元気そうだね……忘れ物ない?」
「なんか、お母さんみたいだなあ」
「フフフ、確かに……でもいいなあ、私もまたあの学校に行ってみたい」
「ああ、じゃあ今度連れてってあげるよ」
「えっ、私を担いで?」
 彼女はちょっと不満そうな顔をし、私は苦笑いする。
「そうなるね……じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい!」

 トウコさんの肖像画は、私の部屋に飾ってある。
 残念ながら、彼女はそこから出てこれないけど、話し相手(≒愚痴聞き相手)になってくれたり、一緒に好きな音楽を聴いたりしている。彼女と並んでインスタグラム用の写真を撮ったときなんか、絵の中で私と同じポーズをとってくれた。

 その日の夜も、トウコさんとヨモヤマ話をしながら、ピンクのキャンパスノートを広げた。彼女と過ごした日々のこと、サトコをはじめ、美術部員の何人かをモデルにして、人物画のデッサンをしたことなどを書き綴った。トウコさんとの出会いや一緒に過ごしたことなど、『小さな物語』を思い浮かべながら、デッサンを楽しめるようになったことも。



 それからしばらく経ったある日。
通学している駅の反対側のホームで、どことなくトウコさんに似ている女性を見かけた。その人は、冬のコートを着てスケッチバッグを背負い、金木犀の夕陽の中で見た、私のモデルさんと同じ笑顔を浮かべていた。