夏休み。けたたましい蝉時雨が、容赦なく降り注ぐ太陽の熱と混ざり合って、鼓膜をジリジリと焦がす。
私は、照り返しで歪むアスファルトの坂道を登り、誰もいない学校の昇降口へと足を踏み入れた。
インターハイ・ブロック大会通過。次はいよいよ全国大会だ。その報告書を顧問(といっても、名ばかりの登録上の先生だ)のデスクに提出するために登校した。
この学校にはプールがない。だから、水泳部もない。それを承知の上でこの学校を受験し、合格した。元々私は五歳の時からスイミングクラブで練習を重ね、小・中学校でそこそこの成績を残してきた。私は学校の名前だけを借りて、一人で大会に出ている。私と同じように外部で練習をしながら競技を続ける生徒だけが登録された、「名ばかり水泳部」だ。
ふと、昨夜届いた奇妙なインスタのDMを思い出し、図書室に寄ってみた。指定された資料ボックスの中には、見慣れない薄ピンク色のキャンパスノートが入っていた。
表紙には『七つのきら星日記』と書かれている。
なんだろう?
『ルール:カッコつけないこと。ありのままに』
……なにこれ。誰かのイタズラだろうか。
……それとも、DMの送り間違い?
最初のページに名前が書いてある。
七人分。
一番目の名前は確か、隣のクラスの同学年の図書委員の子。その下に書いてある名前は、同じクラスのブラバン部の子だ。
そして、
水瀬 帆波。
これは私の名前。
不思議に思いながらペラペラとめくる。何ページかはすでに埋まっている。家に帰ってゆっくり読もう。
私はノートをスポーツバッグに突っ込み、職員室へ向かった。
無事に書類の提出を終え、壁に囲まれた自転車置き場に戻る。変わった場所だなと思う。自転車を停めるとき、急なスロープを降りて壁の内側に入る必要がある。
十六時から小学生のスイミングスクールが始まってしまうので、それまで二時間は練習時間を確保しておきたい。夏休みは子供向けの特別スクールが開かれていて、八コース中、六コースが占領されてしまう。
「あら、水瀬さん。暑いのにご苦労様、それからブロックの通過、おめでとう」
スロープを下りたところで、保健室の瀬川先生とすれ違った。
「あ、ありがとうございます。一人水泳部ですけど、なんとか……先生もチャリ通、じゃなかった自転車通勤なんですか?」
「ええ、隣の中学まで行ってきたんだけど、移動手段は全部チャリよ」
そう言って笑顔を見せハンカチで汗を拭った。
「しかし、この自転車置き場、無理矢理すぎるよね」
「?」
「そうか、最近この学校に入ってきた子は知らないよね……ここ、元々プールだったのよ。しかも五十メートルで水深二メートルの」
「え、そうだったんですか?」
それは知らなかった。確かにぐるりと囲む壁も底面も、剥げかけてはいるが、水色だ。自分にとって身近な施設のはずなのに、まったく気づかなかった。
「ここにあったんですか……確か、維持費とか、授業の手間がかかるとかで、何年か前にプールが取り壊されたって聞いてました」
「そう。あとね、プールの授業が廃止になったのには、もう一つ理由があるんだけどね」
「それは?」
「駐車場のことを関西の方ではモータープールって言うみたいだから、まあ、自転車置き場にするのは、あながち間違いでもなかったのかも知れないね」
私の質問をはぐらかすかのように謎の言葉と笑みを残して、瀬川先生はスロープを上がり、校舎の方に行ってしまった。
ずらりと並んだ自転車から自分の赤いロードバイクを見つけ、チェーンロックを外して引っ張り出す。人の気配を感じ、ふと後ろを見ると、女子生徒がポツンと立っていた。
この学校の制服ではなく、セーラー服。
背丈は私と同じくらい。髪は短く、肩幅が広い。私のように日に焼けてはいない。どちらかというと透き通るように色が白い。でも、直感的にこの子、水泳をやってるなと思った。
「水瀬さん、200と400の個人メドレー、全国出場おめでとう」
そう言ってニッコリと笑った。
「あ、ありがとう」
他の高校の水泳部の生徒だろうか?
彼女は不意にしゃがみ込んだ。
「ど、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ううん、大丈夫」
そう言って顔を上げた。酷暑だというのに汗ひとつかいていない。
「……水が、ないなと思って」
彼女は少し淋しそうにそう言った。
「え、最近雨降ってないからじゃない?」
「……昔はここ、プールだったのにね」
さっき瀬川先生から聞いたばかりの話だ。この子、なにもの? 私の名前も知ってるし。ライバル校の敵情視察?
「あの、あなたは?」
「あ、ごめんなさい……わたしは恩田(オンダ)。恩田泉」
恩田泉さん……どこかで聞いたことがあるような。
「ひょっとして、恩田さんも水泳やってるんですか?」
「うん……ちょっと前までね」
彼女の瞳が微かに揺れた。そして、ふわりと風が吹いた。熱い風。鼻の奥をツンと突く、強烈な塩素(カルキ)の匂いがした。
瞬きをした瞬間、恩田さんの姿は掻き消えるようになくなっていた。
〇
その日、スイミングクラブでのトレーニングを終え、家に帰ると、夕ごはんができるまでソファでウトウトする。そしていつものように不快な夢を見た。
夢の中でも私は泳いでいる。プールの底の線を見ながら。そのラインはずっと延々と続いている。いつまで泳げばいいのだろう。私が泳いでいるコースの両側で大きな波が起き、フォームが崩れる。そして、私を挟み撃ちするように、体格のいい二人の選手が瞬く間に抜き去る。取り残されてしまった。取り残されたまま、果てのない白線の上を泳ぎ続けなければいけない。いつまで? どこまで泳いだら私はゴールにたどり着けるの?
助けて!
だいたいこのパターンだ。そして、いつもなら嫌な汗をかきながら母の夕ご飯コールに起こされる。
でも、その日はまだ夢の続きがあった。
夢の中で、助けてと叫んだ瞬間。
誰かが水の中に手を差し伸べてきた。
私は無我夢中でそれにすがる。
ぐいと引き上げられ。
私はプールサイドに座り、咳込みながらハアハアと呼吸をした。
誰かが背中を軽く叩いてくれる。
振り返ると、あの子がいた。水着姿で。
彼女は私に微笑んだあと、視線をプールに移した。月明かりを小波の数だけ分割して照らす水面。その下は、濃く透明なブルー。なぜか水底から光の泡が浮かび上がっている。
今日は、ここで母の夕ご飯コールがかかり、神秘的なプールのシーンで夢は終わった。
〇
その日の夜中。
衝動を抑えきれなかった。
学校の駐輪場は今、どうなっているんだろう?
念のため、スイムウエアの入ったバッグを持って自転車に跨り、夜の学校に向かった。
そこは、昼間とは全く違う異界に変貌していた。
月明かりを反射して青々と輝く、五十メートルの水面が広がっている。夢で見たまんまだ。
チャプン、と水音がした。見れば、水面を滑るように泳ぐ影がある。しなやかで、一切の無駄がないクロールのストローク。美しい泳ぎに見惚れ、恐怖心は全くなかった。
その影は何往復かクイックターンを繰り返し、やがて私の立っているプールサイドのそばに手を伸ばし、スッと水から上がった。
身に着けているのは、プールの水色と調和する、深いブルーのワンピースのスイムウェア。キャップは被っておらず、ショートヘアから、水が滴り落ちている。
そして、透き通るような白い肌。ちょっと悪戯っぽさを感じる瞳。
昼間に出会った、恩田泉さんだ。
「やっぱり来たんだね」
彼女は嬉しそうにそう言った。
「うん、夢の中で見たプールがすごく綺麗だったから」
「どう、泳いでみない?」
臆病な私がためらう。でも、目の前にある景色。それは、私が泳ぎを始めたときから憧れていた水の世界だ。向こう見ずな私が背を押す。衝動は抑えられなかった。プールサイドの端にある更衣室の陰で水着に着替え、恩田さんの元に戻る。
青いウェアに透明な肌。片や、黒のハーフスパッツに色黒の私。
対照的。
見事に負けた!という感情も湧き起こったが、彼女はそんなことをまったく気にせず、「ホナミ、スタイルいいね」と微笑むと水の中に飛び込んだ。
私も後に続く。
真夏とは思えない冷たい水。気持ちいい。
水深二メートルどころじゃない。飛び込みやシンクロプールよりも深い。底が見えない。
でも、怖くは無かった。
私は恩田さんに追いつき、並んで泳ぐ。
彼女のクロールのストロークは大きい。余分な力はどこにも感じられない。そのフォームを真似る。撫でるような水のキャッチのしかた。プルでの、手の先から二の腕までのやわらかい動き。まるで、水と対話しながら、慈しむような優雅なしぐさ。
その後、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライと、個人メドレーと逆の順番で何往復か泳ぎ、プールサイドに上がった。
「さすが、全国出場のスイマー。いい泳ぎしているね!」彼女はそう言ってくれたけど……
「ううん、私なんか全然ダメ。あなたの泳ぎを見ていてつくづくそう思った」
「そんなことないよ」
「私、がむしゃらで、力まかせだった」
「そうだね、気持ちに焦りがあるのかもね……わたしもね、そうだった」
そう呟いて彼女はプールの水面を眺めた。瞳に水面から反射した青い光が映りこんでいる。
今、なにが起きているのか正直よくわからない。ただ言えることは、この場所にいたい。それだけだ。
今日はそろそろ帰ろうね、と言った彼女に聞いてみる。
「このプール、また泳ぐことはできるのかな?」
「うん、この夏は、しばらくあるんじゃないかと思う」
「また泳ぎに来てもいい?」
「アハハ、別にわたしのものじゃないし……でもね、約束してくれないかな」
恩田さんは真顔になって私を見つめた。
「約束って?」
「このプールで泳ぐのは、三夜だけ」
「どうして?」
「うまく言えないけど、それ以上泳ぐと、プールの様子が変わってしまう。わたしの経験上」
「?」
「約束だよ」
「う、うん、わかった……私からも約束、いい?」
「なに?」
「これからもあなたに泳ぎを教わりたい……いや、一緒に泳ぎたいの。だから、このプールやなくていいから、あなたがいつも泳いでいるところ、教えて。そこに行くから」
「そう、じゃあ今度教えるね」
それから連日、夜中になると家を抜け出し、学校の謎プールに通った。恩田さんはいつも先に来ていて、私が水に入ると並んで泳いでくれる。
泳ぎ方の先生。
テクニカルな面だけじゃなくて、気の持ち方。
優雅に、水と仲良く。
彼女の泳ぎを見ていると、『水の精』という言葉が思い浮かんだ。
だから、どうしてその姿を残しておきたくて、彼女に頼み込み、月夜のプールを背景に二人並んでスマホで写真を撮った。
誰に見せるわけでもないけど、自分の水着姿はちょっと恥ずかしい。
〇
約束の三日目の晩。
「ああ、楽しかったね」
恩田さんは嬉しそうにそう言った。
「……本当に今日でおしまいにしないとダメかな?」
彼女はまた真顔になった。
「うん、こればっかりは。絶対約束守って」
「わ、わかった」
彼女と泳げなくなること、もちろんそれは悲しいけど、
彼女と会えなくなること、そっちの方がずっと淋しかった。
プールサイドで手を振る彼女に見送られ、私は涙を隠して家路についた。
〇
だめだ。
会いたい。
だいたいまだ、彼女がいつも泳いでいるというプールの場所をまだ教えてもらっていない。
会って、一緒に泳ぎたい。
たまらず、スイムバッグを持って家を抜け出す。
夜の駐輪場は、プールになって美しい青の水をたたえていた。
大丈夫だ、泳げる。
変わらない、大切な場所。
でも、そこには恩田さんの姿はなかった。だから、泳ぎながら待つことにした。
どこまでも透明で、群青色の水をたたえたプール。少し深く潜ってみる。そこには不思議な光景が広がっていた。
プールなのに、鮮やかな色の魚が泳いでいる。虹色の泡が無数に底の方から湧き上がっている。
私より少し深い所で泳ぐ人影があった。
青い水の中で、ひと際輝くライトブルーの水着。恩田さん!
私は、喜び勇んで一旦水面に出て空気を吸い、一気に潜った。
水底を泳ぐ恩田さんに近づく。
私の接近に気づいたのか、その人影が振り返った。
美しい女性。恩田さんより、もっと大人に見えた。
着ているのは、スイムウエアではなく、体にぴったりとしたドレスだった。腕とスカートにまるで熱帯魚のようなフレアがついていて、彼女の泳ぎにあわせて優雅になびいている。
彼女は驚いて大きく目を見開いた。そして、両手を振って水面に上がれと私に伝えてくる。
戸惑って、水中にとどまっていると、彼女は私に近づいてきた。
少しためらいをみせ、私を抱きかかえる。
間近で顔を見ると、やっぱり恩田さんだ。会えてよかった。
彼女はゴボゴボと空気を吐きながら、
「ニゲテ!」と言った。
そう言いながらも、彼女は私を抱く両腕に力を込めた。そしてもっと水底の方に引き込もうとする。言っていることと、やっていることが矛盾している。どうしちゃったの⁉
でも。
私はこのままでいいとも思った。このまま、蒼闇の中を落ちていく。恩田さんと一緒に。
ゴボゴボゴボ……
息が苦しい、いや、苦しくない……よくわからない。
ふいに、私の体の向きが変わった。恩田さんが私を抱えて水面に向かって泳ぎ始めたのだ。
水面越しに月明かりが見えた。そして、彼女の腕の感覚が無くなった。
下を見る。
彼女の口が動き、泡が浮き上がってきた。
その泡の一つひとつに言葉が込められていた。
さ
よ
な
ら
驚き、恩田さんを見つめる。
しかし、彼女はみるみるうちに、泡となって消えていった。
私は泣き叫ぶ。
私のせいだ。
彼女との約束を破ったから!
あおむけになって、泣きながら、プールに浮かぶ。
月明かりが涙で滲む。
そうやっていたら、私の体が誰かの手で掴まれ、ぐいとプールサイドに引き寄せられた。
意識が遠のく。
〇
光が眩しい。
ハッと目を開けると、それは蛍光灯の光だった。私は保健室のベッドで寝ていた。
傍らには、丸椅子に座って私を見つめる瀬川先生。
「先生が助けてくれたんですか?」
「そうね。助けてくれたって大げさなもんじゃないけど」
「だって、プールから引き上げてくれて……」
「プール? この学校にはそんなもの、ないでしょう。今日は研修会の資料を作成するので学校に居残ってたんだけど、玄関のあたりでなにか物音がしたので行ってみたら、あなたが倒れてたの……パジャマのまんま」
「パ、パジャマ⁉」
布団をどけてみると、確かに自分のパジャマを着ている。
「だって私、プールで泳いで、そこがあまりにも綺麗だったから潜ってみたんです。そこに……水の精がいて、私を水底に……」
「それは恐い夢だったね。さしずめ、ダークファンタジーというところかしら」
「夢なんかじゃありません!」
「そう。……そうかも知れないね」
「それに恐くもありませんでした……どっちかというと幸せでした」
「うん、わかった。さっき脈とか診てみたけど、特に問題はなさそうなので、もう少し休んだら、家まで送ってあげる。チャリじゃなくてタクシーでね」
そう言って瀬川先生は、ベッドと事務スペースを仕切っているカーテンの向こうに消えた。
しばらく沈黙の時間が流れたが、先生の声が聞こえた。
「そういえばね、だいぶ前になるけど、水瀬さんみたいなことを言っていた生徒がいたわ」
私は布団から上体を起こす。
「本当ですか?」
「ええ、その頃はまだプールがあってね、水泳部もちゃんとあってね。その部員の一人の女の子」
「え?」
瀬川先生が再びベッドの横の椅子に腰かけた。
「すごく練習熱心でね、学校の記録もどんどん塗り替えてたんだけど、ちょっと頑張りすぎちゃったのかな」
「頑張りすぎた?」
「溺れかけて、幸い救助されたんだけど、プールの底が美しい世界になっていて、そこで水の精霊に会ったって」
「本当ですか?」
「うん……彼女、それ以来競泳は辞めてしまってね。期待されていたからみんな残念がっていたけど、彼女にとってはそれがよかったのかもしれない。その後、他のプールや海で楽しそうに泳いでいるのを見たっていう生徒もいたし」
「あの……その生徒の名前を憶えていますか?」
「えーっと、あだ名があったな。『水の精を見た』っていう噂が広まったから、確か名前をもじって、『オンディーヌ』って呼ばれてた。本人はそう呼ばれるのがちょっと恥ずかしかったみたいだけど……なんて名前だったかな?」
「名前をもじったって……」
「あー、思い出した。『オンディーヌ』だから、オンダ……そう、恩田さん」
私は布団を被って涙を隠した。
「恩田さん……いつか、どこかで会えますか?」
保健室の先生は、布団の上に手を置いた。
「そうね、多分……この学校ではちょっとした奇跡みたいなことが起きるからね」
〇
インターハイの200メートル、400メートル個人メドレーの両方で入賞を果たし、賞状が学校の玄関の奥の壁に掲出された。ここにはスポーツなどで優秀な成績を修めた生徒の賞状が壁に貼られ、ショウケースにトロフィーや盾が飾られている。
よくよく見ると、その中に『恩田 泉』というスイマーのものがたくさん並んでいた。
セミの声は消えたものの、蒸し暑さが残る教室で、ピンクのキャンパスノートを開き、新しいページにペンを走らせていた。インターハイが終わるまで、すっかりその存在を忘れていた。
一番目から三番目の子が書いた日記?物語?を読む。
「この学校ではちょっとした奇跡みたいなことが起きるからね」そんな瀬川先生の言葉を思い出した。
私もその子らが書いた文章を参考に書いてみた。
ノートに書かれていた指令?に従い、秘密のインスタアカウント『十四人の卒業アルバム』に、奇跡的に写っていた恩田さんとのツーショット写真をアップした。
書いた最後のページにこうつけ加える。
『私はずっと、たった一人で泳いでいると思っていた。
でも、一人じゃなかった。幻のプールで、蒼色の君が隣を泳いでくれたから。
だから私はもう、底に潜む魔物を恐れない』
ペンを置き、私はノートを元の場所――図書室の周年誌コーナーの資料ボックス――にそっと戻した。外に出ると、あの自転車置き場の青ペンキが剥げたコンクリートが、夏の太陽を照り返して眩しく光っていた。
そこはもう、姿形が変わってしまったけれど、目を閉じればカルキの匂いがする。
ここはこれからもずっと、私と蒼色の彼女が泳ぎ続ける秘密のプールだ。
私は、照り返しで歪むアスファルトの坂道を登り、誰もいない学校の昇降口へと足を踏み入れた。
インターハイ・ブロック大会通過。次はいよいよ全国大会だ。その報告書を顧問(といっても、名ばかりの登録上の先生だ)のデスクに提出するために登校した。
この学校にはプールがない。だから、水泳部もない。それを承知の上でこの学校を受験し、合格した。元々私は五歳の時からスイミングクラブで練習を重ね、小・中学校でそこそこの成績を残してきた。私は学校の名前だけを借りて、一人で大会に出ている。私と同じように外部で練習をしながら競技を続ける生徒だけが登録された、「名ばかり水泳部」だ。
ふと、昨夜届いた奇妙なインスタのDMを思い出し、図書室に寄ってみた。指定された資料ボックスの中には、見慣れない薄ピンク色のキャンパスノートが入っていた。
表紙には『七つのきら星日記』と書かれている。
なんだろう?
『ルール:カッコつけないこと。ありのままに』
……なにこれ。誰かのイタズラだろうか。
……それとも、DMの送り間違い?
最初のページに名前が書いてある。
七人分。
一番目の名前は確か、隣のクラスの同学年の図書委員の子。その下に書いてある名前は、同じクラスのブラバン部の子だ。
そして、
水瀬 帆波。
これは私の名前。
不思議に思いながらペラペラとめくる。何ページかはすでに埋まっている。家に帰ってゆっくり読もう。
私はノートをスポーツバッグに突っ込み、職員室へ向かった。
無事に書類の提出を終え、壁に囲まれた自転車置き場に戻る。変わった場所だなと思う。自転車を停めるとき、急なスロープを降りて壁の内側に入る必要がある。
十六時から小学生のスイミングスクールが始まってしまうので、それまで二時間は練習時間を確保しておきたい。夏休みは子供向けの特別スクールが開かれていて、八コース中、六コースが占領されてしまう。
「あら、水瀬さん。暑いのにご苦労様、それからブロックの通過、おめでとう」
スロープを下りたところで、保健室の瀬川先生とすれ違った。
「あ、ありがとうございます。一人水泳部ですけど、なんとか……先生もチャリ通、じゃなかった自転車通勤なんですか?」
「ええ、隣の中学まで行ってきたんだけど、移動手段は全部チャリよ」
そう言って笑顔を見せハンカチで汗を拭った。
「しかし、この自転車置き場、無理矢理すぎるよね」
「?」
「そうか、最近この学校に入ってきた子は知らないよね……ここ、元々プールだったのよ。しかも五十メートルで水深二メートルの」
「え、そうだったんですか?」
それは知らなかった。確かにぐるりと囲む壁も底面も、剥げかけてはいるが、水色だ。自分にとって身近な施設のはずなのに、まったく気づかなかった。
「ここにあったんですか……確か、維持費とか、授業の手間がかかるとかで、何年か前にプールが取り壊されたって聞いてました」
「そう。あとね、プールの授業が廃止になったのには、もう一つ理由があるんだけどね」
「それは?」
「駐車場のことを関西の方ではモータープールって言うみたいだから、まあ、自転車置き場にするのは、あながち間違いでもなかったのかも知れないね」
私の質問をはぐらかすかのように謎の言葉と笑みを残して、瀬川先生はスロープを上がり、校舎の方に行ってしまった。
ずらりと並んだ自転車から自分の赤いロードバイクを見つけ、チェーンロックを外して引っ張り出す。人の気配を感じ、ふと後ろを見ると、女子生徒がポツンと立っていた。
この学校の制服ではなく、セーラー服。
背丈は私と同じくらい。髪は短く、肩幅が広い。私のように日に焼けてはいない。どちらかというと透き通るように色が白い。でも、直感的にこの子、水泳をやってるなと思った。
「水瀬さん、200と400の個人メドレー、全国出場おめでとう」
そう言ってニッコリと笑った。
「あ、ありがとう」
他の高校の水泳部の生徒だろうか?
彼女は不意にしゃがみ込んだ。
「ど、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ううん、大丈夫」
そう言って顔を上げた。酷暑だというのに汗ひとつかいていない。
「……水が、ないなと思って」
彼女は少し淋しそうにそう言った。
「え、最近雨降ってないからじゃない?」
「……昔はここ、プールだったのにね」
さっき瀬川先生から聞いたばかりの話だ。この子、なにもの? 私の名前も知ってるし。ライバル校の敵情視察?
「あの、あなたは?」
「あ、ごめんなさい……わたしは恩田(オンダ)。恩田泉」
恩田泉さん……どこかで聞いたことがあるような。
「ひょっとして、恩田さんも水泳やってるんですか?」
「うん……ちょっと前までね」
彼女の瞳が微かに揺れた。そして、ふわりと風が吹いた。熱い風。鼻の奥をツンと突く、強烈な塩素(カルキ)の匂いがした。
瞬きをした瞬間、恩田さんの姿は掻き消えるようになくなっていた。
〇
その日、スイミングクラブでのトレーニングを終え、家に帰ると、夕ごはんができるまでソファでウトウトする。そしていつものように不快な夢を見た。
夢の中でも私は泳いでいる。プールの底の線を見ながら。そのラインはずっと延々と続いている。いつまで泳げばいいのだろう。私が泳いでいるコースの両側で大きな波が起き、フォームが崩れる。そして、私を挟み撃ちするように、体格のいい二人の選手が瞬く間に抜き去る。取り残されてしまった。取り残されたまま、果てのない白線の上を泳ぎ続けなければいけない。いつまで? どこまで泳いだら私はゴールにたどり着けるの?
助けて!
だいたいこのパターンだ。そして、いつもなら嫌な汗をかきながら母の夕ご飯コールに起こされる。
でも、その日はまだ夢の続きがあった。
夢の中で、助けてと叫んだ瞬間。
誰かが水の中に手を差し伸べてきた。
私は無我夢中でそれにすがる。
ぐいと引き上げられ。
私はプールサイドに座り、咳込みながらハアハアと呼吸をした。
誰かが背中を軽く叩いてくれる。
振り返ると、あの子がいた。水着姿で。
彼女は私に微笑んだあと、視線をプールに移した。月明かりを小波の数だけ分割して照らす水面。その下は、濃く透明なブルー。なぜか水底から光の泡が浮かび上がっている。
今日は、ここで母の夕ご飯コールがかかり、神秘的なプールのシーンで夢は終わった。
〇
その日の夜中。
衝動を抑えきれなかった。
学校の駐輪場は今、どうなっているんだろう?
念のため、スイムウエアの入ったバッグを持って自転車に跨り、夜の学校に向かった。
そこは、昼間とは全く違う異界に変貌していた。
月明かりを反射して青々と輝く、五十メートルの水面が広がっている。夢で見たまんまだ。
チャプン、と水音がした。見れば、水面を滑るように泳ぐ影がある。しなやかで、一切の無駄がないクロールのストローク。美しい泳ぎに見惚れ、恐怖心は全くなかった。
その影は何往復かクイックターンを繰り返し、やがて私の立っているプールサイドのそばに手を伸ばし、スッと水から上がった。
身に着けているのは、プールの水色と調和する、深いブルーのワンピースのスイムウェア。キャップは被っておらず、ショートヘアから、水が滴り落ちている。
そして、透き通るような白い肌。ちょっと悪戯っぽさを感じる瞳。
昼間に出会った、恩田泉さんだ。
「やっぱり来たんだね」
彼女は嬉しそうにそう言った。
「うん、夢の中で見たプールがすごく綺麗だったから」
「どう、泳いでみない?」
臆病な私がためらう。でも、目の前にある景色。それは、私が泳ぎを始めたときから憧れていた水の世界だ。向こう見ずな私が背を押す。衝動は抑えられなかった。プールサイドの端にある更衣室の陰で水着に着替え、恩田さんの元に戻る。
青いウェアに透明な肌。片や、黒のハーフスパッツに色黒の私。
対照的。
見事に負けた!という感情も湧き起こったが、彼女はそんなことをまったく気にせず、「ホナミ、スタイルいいね」と微笑むと水の中に飛び込んだ。
私も後に続く。
真夏とは思えない冷たい水。気持ちいい。
水深二メートルどころじゃない。飛び込みやシンクロプールよりも深い。底が見えない。
でも、怖くは無かった。
私は恩田さんに追いつき、並んで泳ぐ。
彼女のクロールのストロークは大きい。余分な力はどこにも感じられない。そのフォームを真似る。撫でるような水のキャッチのしかた。プルでの、手の先から二の腕までのやわらかい動き。まるで、水と対話しながら、慈しむような優雅なしぐさ。
その後、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライと、個人メドレーと逆の順番で何往復か泳ぎ、プールサイドに上がった。
「さすが、全国出場のスイマー。いい泳ぎしているね!」彼女はそう言ってくれたけど……
「ううん、私なんか全然ダメ。あなたの泳ぎを見ていてつくづくそう思った」
「そんなことないよ」
「私、がむしゃらで、力まかせだった」
「そうだね、気持ちに焦りがあるのかもね……わたしもね、そうだった」
そう呟いて彼女はプールの水面を眺めた。瞳に水面から反射した青い光が映りこんでいる。
今、なにが起きているのか正直よくわからない。ただ言えることは、この場所にいたい。それだけだ。
今日はそろそろ帰ろうね、と言った彼女に聞いてみる。
「このプール、また泳ぐことはできるのかな?」
「うん、この夏は、しばらくあるんじゃないかと思う」
「また泳ぎに来てもいい?」
「アハハ、別にわたしのものじゃないし……でもね、約束してくれないかな」
恩田さんは真顔になって私を見つめた。
「約束って?」
「このプールで泳ぐのは、三夜だけ」
「どうして?」
「うまく言えないけど、それ以上泳ぐと、プールの様子が変わってしまう。わたしの経験上」
「?」
「約束だよ」
「う、うん、わかった……私からも約束、いい?」
「なに?」
「これからもあなたに泳ぎを教わりたい……いや、一緒に泳ぎたいの。だから、このプールやなくていいから、あなたがいつも泳いでいるところ、教えて。そこに行くから」
「そう、じゃあ今度教えるね」
それから連日、夜中になると家を抜け出し、学校の謎プールに通った。恩田さんはいつも先に来ていて、私が水に入ると並んで泳いでくれる。
泳ぎ方の先生。
テクニカルな面だけじゃなくて、気の持ち方。
優雅に、水と仲良く。
彼女の泳ぎを見ていると、『水の精』という言葉が思い浮かんだ。
だから、どうしてその姿を残しておきたくて、彼女に頼み込み、月夜のプールを背景に二人並んでスマホで写真を撮った。
誰に見せるわけでもないけど、自分の水着姿はちょっと恥ずかしい。
〇
約束の三日目の晩。
「ああ、楽しかったね」
恩田さんは嬉しそうにそう言った。
「……本当に今日でおしまいにしないとダメかな?」
彼女はまた真顔になった。
「うん、こればっかりは。絶対約束守って」
「わ、わかった」
彼女と泳げなくなること、もちろんそれは悲しいけど、
彼女と会えなくなること、そっちの方がずっと淋しかった。
プールサイドで手を振る彼女に見送られ、私は涙を隠して家路についた。
〇
だめだ。
会いたい。
だいたいまだ、彼女がいつも泳いでいるというプールの場所をまだ教えてもらっていない。
会って、一緒に泳ぎたい。
たまらず、スイムバッグを持って家を抜け出す。
夜の駐輪場は、プールになって美しい青の水をたたえていた。
大丈夫だ、泳げる。
変わらない、大切な場所。
でも、そこには恩田さんの姿はなかった。だから、泳ぎながら待つことにした。
どこまでも透明で、群青色の水をたたえたプール。少し深く潜ってみる。そこには不思議な光景が広がっていた。
プールなのに、鮮やかな色の魚が泳いでいる。虹色の泡が無数に底の方から湧き上がっている。
私より少し深い所で泳ぐ人影があった。
青い水の中で、ひと際輝くライトブルーの水着。恩田さん!
私は、喜び勇んで一旦水面に出て空気を吸い、一気に潜った。
水底を泳ぐ恩田さんに近づく。
私の接近に気づいたのか、その人影が振り返った。
美しい女性。恩田さんより、もっと大人に見えた。
着ているのは、スイムウエアではなく、体にぴったりとしたドレスだった。腕とスカートにまるで熱帯魚のようなフレアがついていて、彼女の泳ぎにあわせて優雅になびいている。
彼女は驚いて大きく目を見開いた。そして、両手を振って水面に上がれと私に伝えてくる。
戸惑って、水中にとどまっていると、彼女は私に近づいてきた。
少しためらいをみせ、私を抱きかかえる。
間近で顔を見ると、やっぱり恩田さんだ。会えてよかった。
彼女はゴボゴボと空気を吐きながら、
「ニゲテ!」と言った。
そう言いながらも、彼女は私を抱く両腕に力を込めた。そしてもっと水底の方に引き込もうとする。言っていることと、やっていることが矛盾している。どうしちゃったの⁉
でも。
私はこのままでいいとも思った。このまま、蒼闇の中を落ちていく。恩田さんと一緒に。
ゴボゴボゴボ……
息が苦しい、いや、苦しくない……よくわからない。
ふいに、私の体の向きが変わった。恩田さんが私を抱えて水面に向かって泳ぎ始めたのだ。
水面越しに月明かりが見えた。そして、彼女の腕の感覚が無くなった。
下を見る。
彼女の口が動き、泡が浮き上がってきた。
その泡の一つひとつに言葉が込められていた。
さ
よ
な
ら
驚き、恩田さんを見つめる。
しかし、彼女はみるみるうちに、泡となって消えていった。
私は泣き叫ぶ。
私のせいだ。
彼女との約束を破ったから!
あおむけになって、泣きながら、プールに浮かぶ。
月明かりが涙で滲む。
そうやっていたら、私の体が誰かの手で掴まれ、ぐいとプールサイドに引き寄せられた。
意識が遠のく。
〇
光が眩しい。
ハッと目を開けると、それは蛍光灯の光だった。私は保健室のベッドで寝ていた。
傍らには、丸椅子に座って私を見つめる瀬川先生。
「先生が助けてくれたんですか?」
「そうね。助けてくれたって大げさなもんじゃないけど」
「だって、プールから引き上げてくれて……」
「プール? この学校にはそんなもの、ないでしょう。今日は研修会の資料を作成するので学校に居残ってたんだけど、玄関のあたりでなにか物音がしたので行ってみたら、あなたが倒れてたの……パジャマのまんま」
「パ、パジャマ⁉」
布団をどけてみると、確かに自分のパジャマを着ている。
「だって私、プールで泳いで、そこがあまりにも綺麗だったから潜ってみたんです。そこに……水の精がいて、私を水底に……」
「それは恐い夢だったね。さしずめ、ダークファンタジーというところかしら」
「夢なんかじゃありません!」
「そう。……そうかも知れないね」
「それに恐くもありませんでした……どっちかというと幸せでした」
「うん、わかった。さっき脈とか診てみたけど、特に問題はなさそうなので、もう少し休んだら、家まで送ってあげる。チャリじゃなくてタクシーでね」
そう言って瀬川先生は、ベッドと事務スペースを仕切っているカーテンの向こうに消えた。
しばらく沈黙の時間が流れたが、先生の声が聞こえた。
「そういえばね、だいぶ前になるけど、水瀬さんみたいなことを言っていた生徒がいたわ」
私は布団から上体を起こす。
「本当ですか?」
「ええ、その頃はまだプールがあってね、水泳部もちゃんとあってね。その部員の一人の女の子」
「え?」
瀬川先生が再びベッドの横の椅子に腰かけた。
「すごく練習熱心でね、学校の記録もどんどん塗り替えてたんだけど、ちょっと頑張りすぎちゃったのかな」
「頑張りすぎた?」
「溺れかけて、幸い救助されたんだけど、プールの底が美しい世界になっていて、そこで水の精霊に会ったって」
「本当ですか?」
「うん……彼女、それ以来競泳は辞めてしまってね。期待されていたからみんな残念がっていたけど、彼女にとってはそれがよかったのかもしれない。その後、他のプールや海で楽しそうに泳いでいるのを見たっていう生徒もいたし」
「あの……その生徒の名前を憶えていますか?」
「えーっと、あだ名があったな。『水の精を見た』っていう噂が広まったから、確か名前をもじって、『オンディーヌ』って呼ばれてた。本人はそう呼ばれるのがちょっと恥ずかしかったみたいだけど……なんて名前だったかな?」
「名前をもじったって……」
「あー、思い出した。『オンディーヌ』だから、オンダ……そう、恩田さん」
私は布団を被って涙を隠した。
「恩田さん……いつか、どこかで会えますか?」
保健室の先生は、布団の上に手を置いた。
「そうね、多分……この学校ではちょっとした奇跡みたいなことが起きるからね」
〇
インターハイの200メートル、400メートル個人メドレーの両方で入賞を果たし、賞状が学校の玄関の奥の壁に掲出された。ここにはスポーツなどで優秀な成績を修めた生徒の賞状が壁に貼られ、ショウケースにトロフィーや盾が飾られている。
よくよく見ると、その中に『恩田 泉』というスイマーのものがたくさん並んでいた。
セミの声は消えたものの、蒸し暑さが残る教室で、ピンクのキャンパスノートを開き、新しいページにペンを走らせていた。インターハイが終わるまで、すっかりその存在を忘れていた。
一番目から三番目の子が書いた日記?物語?を読む。
「この学校ではちょっとした奇跡みたいなことが起きるからね」そんな瀬川先生の言葉を思い出した。
私もその子らが書いた文章を参考に書いてみた。
ノートに書かれていた指令?に従い、秘密のインスタアカウント『十四人の卒業アルバム』に、奇跡的に写っていた恩田さんとのツーショット写真をアップした。
書いた最後のページにこうつけ加える。
『私はずっと、たった一人で泳いでいると思っていた。
でも、一人じゃなかった。幻のプールで、蒼色の君が隣を泳いでくれたから。
だから私はもう、底に潜む魔物を恐れない』
ペンを置き、私はノートを元の場所――図書室の周年誌コーナーの資料ボックス――にそっと戻した。外に出ると、あの自転車置き場の青ペンキが剥げたコンクリートが、夏の太陽を照り返して眩しく光っていた。
そこはもう、姿形が変わってしまったけれど、目を閉じればカルキの匂いがする。
ここはこれからもずっと、私と蒼色の彼女が泳ぎ続ける秘密のプールだ。



