私は楽器を抱えたまま『泣き場所』を探して校内をさ迷った。人気(ひとけ)がない場所へ。
二階の連絡通路を渡り、音楽室がある新校舎から、旧校舎へ。木の湿った匂いとワックスの匂い。それが余計に私の涙腺を刺激する。
ある場所を思い出した。第二音楽準備室。この高校に入学して、ブラバン生活も始まったばかりのある日、練習用の譜面台が足りなくなったので、古い譜面台を探しに行った場所だ。
ガタが来ていてなかなか動かない木の引き戸をクラリネットを抱えながら力任せに開ける。入った途端、湿った木の匂いが強くなった。
もう無理だ。ホコリを被った収納棚の一段目に潜り込み、クラを脇に置くと膝を抱えた。
途端、堰を切ったように涙があふれ出る。それはトイレを無茶苦茶我慢して便座に座ったときと感覚が似ているなと、冷静に馬鹿なことを考えている自分が余計に情けない。
二週間後、吹奏楽コンクールの地区予選がある。ウチの高校のブラバン部は全部で八十名。出場するA編成の部門では、五十五名までとステージに上がれる定員が決まっている。私が吹いているクラリネットパートの部員数は二十一人。これは学校にもよるけど、全体のバランスを考えて、クラパートはファースト三名、セカンド三名、サード四名の十人と決められている。さっきまで、そのメンバーを選ぶ部内オーディションが行われていた。私は、なるべくメロディーを多く吹きたかったので、ファーストを志願してオーディションを受けた。
……で、見事に落ちた。
去年、ウチのブラバンは地区大会、ブロック大会を勝ち抜き、全国大会に出場して銀賞を獲得した。そんな強豪校だけど、中学でクラリネットパートのリーダーをやっていた私は、一年からでもレギュラーメンバーになれると思っていた。「ヒビキちゃん、ムッチャ上手いね」とパートの同級生や先輩からも褒められていたので、確かにいい気になっていたかもしれない。でも必死に練習はしたんだ。全体の練習時間のあとも居残って。
確かに二年生、三年生は上手な先輩ばかり。まあ、一年からレギュラーになった生徒は昔から少ないっていうからしょうがないよね、って自分を納得させて、練習、セッティング、楽器運び、野球の応援演奏、定期演奏会の参加など、一年間のブラバン生活を続けてきた。
そして、二年に上がった今年こそはレギュラーになってやるぞと意気込み、必死に練習した。指は回る方だ。音程も悪くない。音もレガートでムラなく出せる。音色はちょっと固いかもしれないけど、その方が大きいステージではよく聞こえるって言われている。
オーディションに選ばれた曲は、なぜか去年のコンクールの課題曲だった。
なぜ? もうコンクールも間近に迫り、みんな今年の課題曲を必死に練習している最中なのに。
曲名は、マーチ『メモリーズ・リフレイン』(伊藤士恩作曲)。その名の通り、思い出が繰り返されたり、重なったりしながら演奏が繰り広げられる。クラリネットは、どこか懐かしさが感じられるメロディーを提示し、それを展開する重要な役割も担っている。
部内のオーディションのやり方はちょっと変わっていて、指定されたフレーズをそれぞれの楽器のパートリーダーと一緒に吹く。
私が吹くのは、クラのファーストパートなので、クラリネットパート全体のリーダーで『コンサートミストレス(コンミス)』の大場弓香先輩と一緒に演奏する。ユミカ先輩、無茶苦茶うまい。音も綺麗だし、表情豊かだし。
最近知ったことだけど、去年のオーディションのときにコンミスだった先輩は『とにかく、一生ついていきます!』っていう感じで自分にピッタリと合わせてくれる生徒を選んだそうだ。ユミカ先輩の選定ポイントは教えてもらってないけど、多分同じようなことだろうなと思っていた。だって、クラリネットパートは、オーケストラでいえば、ヴァイオリンパート。『どれだけ一糸乱れずにメロディーや伴奏を吹けるか』が重要な役割だし、ユミカ先輩が吹く通りに演奏ができたら、どんなに素敵だろうと思っていたから。
「弓香先輩、一生ついていきます!」
オーディションの順番が回ってきて、譜面台の前に立ったとき、思わず勢い余ってそう言ってしまった。弓香先輩は、ちょっと困ったように笑いながら「よろしくね、じゃあ始めようか」と言ってくれた。
自分では、うまく吹けたと思う。先輩のしぐさをよく見て、音をよく聞いて、しっかり寄り添うように。自分でもうまくいったと思う。
なのに、私は選ばれなかった。先輩は私を選んでくれなかった。選ばれたのは、三年生が一人……一年生が一人⁉ その子、そんなに上手かった? 私だって先輩と吹きたかったのに。
「これはまだ地区予選のメンバーだからね。またがんばろうね」
弓香先輩はそう言ってくれた。でも、もう選ばれる気がしない。最善を尽くしたはずだ。どうやったら選ばれるのかがわからない。
で、今、第二音楽準備室のオンボロな収納棚に収まってムチャ泣きしている。もともと負けず嫌いな性格だけど、こんなに悔しかったのは、今まで生きてきて初めてかもしれない。
廊下に泣き声が聞こえてるかもしれない。それでも構うもんか! 同情も慰めもいらない。
だいたいなによ。昨日の夜、インスタのDMで知らないアカウント指令を受けて、図書室の隅っこの資料ボックスから、ピンクのノートを持ち出した。それがいけなかったんじゃないの? そのノートには、ああしてくれ、こうしてくれっていろいろ面倒なことが書いてあったし。
……多分、八つ当たりだ。でも、なにかに当たりたかったし、誰かにこの悔しさを聞いて欲しい。
♪ ~ 🎵 ~
♪~ 🎵 ~
ん! ん?
なんか、ピアノの音が聞こえた。
しかも私の泣き声に合わせて……伴奏してる?
だけど、調子っぱずれなピアノの音程。
顔を上げると、部屋の窓側で誰かがピアノの前に座り、リズミカルに両腕を上下左右に動かしている。確か、あのあたりに古いアップライトのピアノがあったはずだ。でも、窓から入り込んでくる陽射しで逆光になって顔はよく見えない。
なんだかジャズっぽい演奏。
ジャーン。
私が泣くのをやめたからか、曲はコーダー入って派手に終わった。
シルエット姿の女性は、鍵盤から手を降ろし、立ち上がって私に近づいて来た。すごく上品な歩き方。シャナリシャナリって音が聞こえてきそう。
その人は、私から一メートル位まで近づくと、立ち止まり、膝を抱えている私を見下ろした。別に威圧感とか、上から目線とかの嫌な感じはしない。
黒く長い髪に、ほっそりとした顔立ち。この学校にいるんだから、高校生かな。でも、明らかに場違いなのでは……彼女の服装。スリムなワンピース型のロングドレス。純白で、音楽準備室のあんなピアノ椅子に座っていて汚れなかっただろうか? 変な心配をしてしまう。
「なかなかいい泣きっぷりね」
静かに彼女は口を開いた。
「え? あ、ありがとうございます」
礼をいうべきかどうか迷ったけど、なんか褒められたみたいなのでそうした。
「オーディション、残念だったわね」
ズキッ! なんでそれを? だいたい初対面で、しかもそれのせいでここで泣いてる人間に向かって聞くことか⁉
「あ、ごめんなさい、ワタクシもね、よくそこでそうやって泣いてたので」
「……ひょっとして、ブラバン部のOBの方とかですか?」
あてずっぽうで聞いてみた。
「ううん、違うわ。だいたいワタクシ、年齢はだいたいあなたと同じ位よ」
謎だ。
「違うって……」
「あらごめんなさい、自己紹介してなかったわね。滝田奏(カナデ)って言います。この通り、演奏する楽器はピアノ」
そう言って彼女は、オンボロピアノを指した。
「そ、そうですか……私は、天音響(ひびき)」
なんだかよくわからないけど、一応自己紹介しておく。
「天音が響く、いい名前ね」
「ありがとうございます……ところで、滝田さんは、なんで私がオーディションに落ちたって知ってるんですか?」
彼女はフフっと笑う。
「簡単なことよ、だってさっき『オーディション、今度もダメだったあー!』って泣いてたじゃない?」
「え! それは超はずっ!」
そんなことを声に出してたとは。
彼女は笑みを消してつぶやいた。
「気にしないで。ワタクシも以前はそんな感じだったのだから……それから、ため口で『カナデ』って呼んでくれる?」
「はい……うん、わかった」
いや、よくわかっていない。つくづく謎だ。謎だからジロジロ彼女を見てしまう。
「なにか、聞きたいことでもあるの?」
「……そうですね……その……着ている服と、さっきのピアノの演奏、随分不釣り合いだなって思って」
我ながら、なんでそんなどうでもいいことを口に出したのか。
でも、彼女は私の疑問を受けとめた。彼女は再び、その場を離れ、ピアノ椅子に座った。数秒目を閉じ、彼女は鍵盤に手を置くと、ゆっくりと優雅に曲を奏で始めた。
これは確か、ショパンのノクターン第二番。
……でも。調律が合ってないピアノから生まれる音は、調子っぱずれで、演奏する姿が美しかっただけに、余計にこっけいでもあった。
最後まで弾き終わると、彼女は私に顔を向けた。
拍手をして感想を述べた。
「ノクターン、素晴らしかった」
「あら、よく知ってるわね」
「うん、私も小さいときだけど、ピアノやってたから」
彼女は微笑みながら再びこっちに歩いてきた。
「あら、正直に言っていいのよ。なんか不釣り合いだなあって思ったでしょ?」
「えっ……うん、そう思った」
なんと彼女は腰を屈め、収納棚の私の隣に腰かけた。
「ち、ちょっと、ドレスが汚れる」
「いいのよ、こんなもの」
ピアノ弾きの子は、座ったまま前を向き、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ピティナって知ってる?」
「うん……確か、ピアノのメジャーなコンクールだったと思うけど」
「そう。ワタクシはね、その全国大会で入賞することばかりを追い求めてた」
「そうだよね、さっきのノクターン、音程合ってなかったけど、メロディーの表現力がすごかった」
「ありがとう……でもね、コンクールでいい成績をとるための練習が自分には合わなかったみたい。先生もすごく厳しくて」
「なんかそれ、わかるような気がする」
そうだ。コンクールに出るための練習なんか、ブラバンなんかやめてしまえばいいんだ。ネガティブな私が心のなかでつぶやく。
「で、コンクールに出るの、やめちゃったの?」
「ううん、すぐにはなかなか。親は期待してたし、同じピアノ教室の他の生徒の視線もあったし……お金もかかってるしね」
「難しいね、決心することって」
「そう。なにか次に進めるものが見つからないね」
「次に進めるもの?」
カナデは右手を上げた。
「うん。私の場合、あのピアノだった」
「あのオンボロが?」
彼女は手を下ろし、私と同じように膝小僧を抱える。
「もう無理、レッスンなんて行きたくないって、授業が終わっても学校から帰らないで、この部屋に逃げ込んだ。ここは誰も来ないしね。そのとき出会ったのが、あのピアノ」
「あのオンボロが?」私は同じ言葉を繰り返した。
「ワタクシも最初はそう思ったけど、ヒマだから、試しに弾いて見た。そしたら、あの通りひどい音」
「そうだよね。余計にピアノなんか弾きたくなくなったでしょ?」
「ところがね、なんか面白いなって感じたのよ」
「?」
「このピアノ、なんか抜けてるけど、憎めないやつってね。それでコイツに合う曲ってなんだろうって考えたの」
「ひょっとして、さっき私が泣いてたときに弾いてたみたいな曲……ジャズっぽいの」
「そう、ジャズ! まさにその通り……それでね、ネットでジャズのコード進行なんかを調べたり、楽譜屋さんに行って面白そうな曲を買ってきて弾いてたんだ」
なるほど、と思ったけど、疑問が残っている。
「あの、話戻るけど、どうしてドレスを着てジャズを弾いてるんだっけ?」
「ああ、そうそう、そうだったね……ちぐはぐなことやってたんだなって思えた。本当は違うことやりたかったくせに、かしこまったドレスなんか着てた、最初はそのギャップが面白いと思ってたんだけど、なんか変だなって思って、結局それを脱いだ」
脱いだって、今でも着てるじゃない? って言おうとして横を向いたら……
あれ⁉ カナデ、さっきと違う恰好している! ライトブルーのデニムのパンツに黒いTシャツ、その上にパンツと同じ色のデニムジャケット? でも彼女の上品で落ち着いた雰囲気は変わらない。
なんだかよくわからないけど、その横顔は楽しそうで、真っ直ぐ前を見つめるその瞳は、文字通り前向きに見えた。
「なんかカナデが羨ましい。私もちょっとジャズとかやってみたいかも」
「じゃあ、少しの間、息抜きにやってみない? 楽譜を用意しておくから」
「うん、ぜひ!」
「実を言うとワタクシもね、誰かと一緒に音楽をしてみたかったんだ。ずっと独りでピアノを弾いてきたし」
一応、一週間だけと約束して、第二音楽準備室に通うことにした。なぜか彼女からは、ブラバンの先生には休むことをちゃんと連絡して欲しいと強く言われた。でも、このまま部活をやめてしまってもいいと思った。コンクールのために、答えのない苦しい練習をするくらいなら。
〇
カナデが弾くオンボロピアノ――彼女に言わせると、ホンキートンクのピアノ――に乗せてクラリネットを吹くのは楽しかった。ジャズなんて、最初はよくわからなかったけど、カナデがアレンジしてくれた楽譜をそのまま吹いたり、自分でちょっとアレンジしたり。やっていてワクワクした。
枯葉
オール・オブ・ミー
星に願いを
セントルイス・ブルース
カナデとアイコンタクトをとりながら、スタンダードナンバーを吹く。彼女が私に合わせてくれる。
そのうち、「いち、にの、さん」と自分でもリードをとってみると、彼女の音楽と私の音楽がますますシンクロしてくるのがわかった。
これ、ほんとに楽しい。
メトロノーム通りにしか吹けなかった私のクラリネットが、カナデの揺れるようなリズムに引っ張られていく。リードから「キュゥ」っと変な音が出たとき、私は思わず演奏を止めそうになった。でもカナデは「今の悲鳴、最高! グルーヴィーじゃん」と笑ってピアノを叩く。
クラリネットが、まるで自分の声帯になったみたいに笑って、泣いて、歌い始めた。
約束した、一週間の最後の日。セッションを終え、ああ、楽しかったね。と笑いあった。
スマホで写真を撮らせてと言ったら、カナデは最初ためらっていたけど、オンボロピアノをバックに二人でスマホのレンズに収まった。
その勢いで私は言った。
「あのね、カナデとジャズをやるの、これからも続けられないかな? なんならブラバンはやめるし」
彼女は急に笑みを消した。
「それはダメ……約束したでしょう?」
「なんで? 私は全然その方がいい」
「ワタクシはしばらくここには来れないし……だいたい、あなたのために、はならない」
彼女のその言葉は、嘘のようにも、とってつけたようにも聞こえたけど、なにか切実な思いがこもっているようにも感じた。
カナデは、つけ加えた。
「アマネに私からお願いよ。吹奏楽コンクールの地区予選を通過したら――間違いなく通過できると思うけど――あなたもちゃんとブロック大会のオーディションを受けて」
「え?……でもしばらくブラバンの方はサボっちゃったから、確実に落ちると思うんだけど」
「大丈夫。オーディションのとき、ここでワタクシと一緒に演奏したことを思い出してみて」
「ええ?……ここで吹いたことと、オーディションで吹くことは、真逆のような気がするけど」
「お願い……忘れないで」
「わかった。でも、これだけは約束してくれる? オーディションに受かったら、また一緒にジャズを演奏してくれるって」
「……うん、わかったわ」
彼女が『忘れないで』と言ったものがなんなのか、いまいちよくわからなかった。
〇
地区予選は無事に通過し、ブロック大会のためのオーディションが行われた。
すでに、コンクール本番で今年の課題曲は演奏しているのに、オーディションに使用された曲は、相変わらず去年の課題曲、マーチ『メモリーズ・リフレイン』だ。その理由はよくわからない。わからないことだらけだ。
そして、オーディション、私の順番。
「ヒビキちゃん、久しぶりね」
結局一週間以上休んだのでコンミスの弓香先輩にそう言われたけど、嫌みっぽさは感じられなかった。どちらかと言えば、「おかえりなさい」という温かさがその言葉には感じられた。まるで私がどこかに旅に出かけ、修行して帰ってきたのをねぎらうかのように。
「よろしくお願いします」
「あら、今度は『一生ついていきます』って言わないのね?」
先輩、覚えてた! はずぅ……
リラックスしているのに、なぜかソワソワする。なぜだろう?
そう、カナデが「ここでワタクシと一緒に演奏したことを思い出してみて」と言ってくれたけど、それがなんなのか、思いつかないからだ。スイングすること? いや、スイングなんかしちゃだめだ。でも気持ち的には……
目をつぶって悪あがきをしていたら、顧問の先生に促された。
閃いた!
ギリギリで思い出したことがあった。
そうか。
『一生ついていきます』じゃないんだ。
私は、また恥ずかしげもなく弓香先輩に声をかける。
「先輩、一緒に楽しみましょう!」
コンミスは微笑み、大きくうなずいてくれた。
弓香先輩の音楽を想い。
私の想いを先輩に届ける。
そうしたら、神経質に合わせようとしなくっても、
息が合う。表現が揃う。
確か、カナデはそれを『グルーブ』と言ってたな。
自分の演奏を終え、不意にあの存在を思い出した。
私はカバンからピンクのノートを取り出し、ペンを走らせた。
『音を合わせるだけじゃダメだ。一緒に音楽を楽しむんだって、彼女が教えてくれた』
〇
カナデにオーディション合格を真っ先に知らせたかった。
走って第二音楽準備室に飛び込んだ。
そこは、前と変わらず、窓から陽射しが射し込んでいたけど、彼女の姿は無かった。
彼女は「しばらくここには来れない」って言っていたけど、元々彼女はここにはいなかったような錯覚を感じる。
オンボロアップライトのピアノのふたは開きっぱなしで、ところどころ木目がむき出しになっている鍵盤もある。
試しに弾いてみた。
スカ
スカ スカ。
音なんか鳴りもしない。
鍵盤にポツリポツリと落ちる涙。
それは私のだ。
「カナデの嘘つき……また一緒にジャズをやってくれるって言ったじゃない!」
鍵盤をボンボン殴る。やっぱり、音は出ない。
「……でも……ありがとう」
そう言うのが精いっぱいだった。
ようやく涙が止まり、ふと目を上げると、ピアノの譜面台に茶色い封筒が置いてあるのに気づいた。表には『天音 響様へ』と書いてある。
開けると、便箋が一枚。
そこには、きれいな筆記体で、
Memories Refrain
と書かれていた。
封筒には別に、チケットとリーフレットらしきものが入っていた。
ジャズトリオのライブコンサートのチケット。
場所は、この街の駅前にあるライブハウス。
日時は、今週末の十九時。
〇
私はその日のその時間。
ライブハウスのドアを押していた。
二階の連絡通路を渡り、音楽室がある新校舎から、旧校舎へ。木の湿った匂いとワックスの匂い。それが余計に私の涙腺を刺激する。
ある場所を思い出した。第二音楽準備室。この高校に入学して、ブラバン生活も始まったばかりのある日、練習用の譜面台が足りなくなったので、古い譜面台を探しに行った場所だ。
ガタが来ていてなかなか動かない木の引き戸をクラリネットを抱えながら力任せに開ける。入った途端、湿った木の匂いが強くなった。
もう無理だ。ホコリを被った収納棚の一段目に潜り込み、クラを脇に置くと膝を抱えた。
途端、堰を切ったように涙があふれ出る。それはトイレを無茶苦茶我慢して便座に座ったときと感覚が似ているなと、冷静に馬鹿なことを考えている自分が余計に情けない。
二週間後、吹奏楽コンクールの地区予選がある。ウチの高校のブラバン部は全部で八十名。出場するA編成の部門では、五十五名までとステージに上がれる定員が決まっている。私が吹いているクラリネットパートの部員数は二十一人。これは学校にもよるけど、全体のバランスを考えて、クラパートはファースト三名、セカンド三名、サード四名の十人と決められている。さっきまで、そのメンバーを選ぶ部内オーディションが行われていた。私は、なるべくメロディーを多く吹きたかったので、ファーストを志願してオーディションを受けた。
……で、見事に落ちた。
去年、ウチのブラバンは地区大会、ブロック大会を勝ち抜き、全国大会に出場して銀賞を獲得した。そんな強豪校だけど、中学でクラリネットパートのリーダーをやっていた私は、一年からでもレギュラーメンバーになれると思っていた。「ヒビキちゃん、ムッチャ上手いね」とパートの同級生や先輩からも褒められていたので、確かにいい気になっていたかもしれない。でも必死に練習はしたんだ。全体の練習時間のあとも居残って。
確かに二年生、三年生は上手な先輩ばかり。まあ、一年からレギュラーになった生徒は昔から少ないっていうからしょうがないよね、って自分を納得させて、練習、セッティング、楽器運び、野球の応援演奏、定期演奏会の参加など、一年間のブラバン生活を続けてきた。
そして、二年に上がった今年こそはレギュラーになってやるぞと意気込み、必死に練習した。指は回る方だ。音程も悪くない。音もレガートでムラなく出せる。音色はちょっと固いかもしれないけど、その方が大きいステージではよく聞こえるって言われている。
オーディションに選ばれた曲は、なぜか去年のコンクールの課題曲だった。
なぜ? もうコンクールも間近に迫り、みんな今年の課題曲を必死に練習している最中なのに。
曲名は、マーチ『メモリーズ・リフレイン』(伊藤士恩作曲)。その名の通り、思い出が繰り返されたり、重なったりしながら演奏が繰り広げられる。クラリネットは、どこか懐かしさが感じられるメロディーを提示し、それを展開する重要な役割も担っている。
部内のオーディションのやり方はちょっと変わっていて、指定されたフレーズをそれぞれの楽器のパートリーダーと一緒に吹く。
私が吹くのは、クラのファーストパートなので、クラリネットパート全体のリーダーで『コンサートミストレス(コンミス)』の大場弓香先輩と一緒に演奏する。ユミカ先輩、無茶苦茶うまい。音も綺麗だし、表情豊かだし。
最近知ったことだけど、去年のオーディションのときにコンミスだった先輩は『とにかく、一生ついていきます!』っていう感じで自分にピッタリと合わせてくれる生徒を選んだそうだ。ユミカ先輩の選定ポイントは教えてもらってないけど、多分同じようなことだろうなと思っていた。だって、クラリネットパートは、オーケストラでいえば、ヴァイオリンパート。『どれだけ一糸乱れずにメロディーや伴奏を吹けるか』が重要な役割だし、ユミカ先輩が吹く通りに演奏ができたら、どんなに素敵だろうと思っていたから。
「弓香先輩、一生ついていきます!」
オーディションの順番が回ってきて、譜面台の前に立ったとき、思わず勢い余ってそう言ってしまった。弓香先輩は、ちょっと困ったように笑いながら「よろしくね、じゃあ始めようか」と言ってくれた。
自分では、うまく吹けたと思う。先輩のしぐさをよく見て、音をよく聞いて、しっかり寄り添うように。自分でもうまくいったと思う。
なのに、私は選ばれなかった。先輩は私を選んでくれなかった。選ばれたのは、三年生が一人……一年生が一人⁉ その子、そんなに上手かった? 私だって先輩と吹きたかったのに。
「これはまだ地区予選のメンバーだからね。またがんばろうね」
弓香先輩はそう言ってくれた。でも、もう選ばれる気がしない。最善を尽くしたはずだ。どうやったら選ばれるのかがわからない。
で、今、第二音楽準備室のオンボロな収納棚に収まってムチャ泣きしている。もともと負けず嫌いな性格だけど、こんなに悔しかったのは、今まで生きてきて初めてかもしれない。
廊下に泣き声が聞こえてるかもしれない。それでも構うもんか! 同情も慰めもいらない。
だいたいなによ。昨日の夜、インスタのDMで知らないアカウント指令を受けて、図書室の隅っこの資料ボックスから、ピンクのノートを持ち出した。それがいけなかったんじゃないの? そのノートには、ああしてくれ、こうしてくれっていろいろ面倒なことが書いてあったし。
……多分、八つ当たりだ。でも、なにかに当たりたかったし、誰かにこの悔しさを聞いて欲しい。
♪ ~ 🎵 ~
♪~ 🎵 ~
ん! ん?
なんか、ピアノの音が聞こえた。
しかも私の泣き声に合わせて……伴奏してる?
だけど、調子っぱずれなピアノの音程。
顔を上げると、部屋の窓側で誰かがピアノの前に座り、リズミカルに両腕を上下左右に動かしている。確か、あのあたりに古いアップライトのピアノがあったはずだ。でも、窓から入り込んでくる陽射しで逆光になって顔はよく見えない。
なんだかジャズっぽい演奏。
ジャーン。
私が泣くのをやめたからか、曲はコーダー入って派手に終わった。
シルエット姿の女性は、鍵盤から手を降ろし、立ち上がって私に近づいて来た。すごく上品な歩き方。シャナリシャナリって音が聞こえてきそう。
その人は、私から一メートル位まで近づくと、立ち止まり、膝を抱えている私を見下ろした。別に威圧感とか、上から目線とかの嫌な感じはしない。
黒く長い髪に、ほっそりとした顔立ち。この学校にいるんだから、高校生かな。でも、明らかに場違いなのでは……彼女の服装。スリムなワンピース型のロングドレス。純白で、音楽準備室のあんなピアノ椅子に座っていて汚れなかっただろうか? 変な心配をしてしまう。
「なかなかいい泣きっぷりね」
静かに彼女は口を開いた。
「え? あ、ありがとうございます」
礼をいうべきかどうか迷ったけど、なんか褒められたみたいなのでそうした。
「オーディション、残念だったわね」
ズキッ! なんでそれを? だいたい初対面で、しかもそれのせいでここで泣いてる人間に向かって聞くことか⁉
「あ、ごめんなさい、ワタクシもね、よくそこでそうやって泣いてたので」
「……ひょっとして、ブラバン部のOBの方とかですか?」
あてずっぽうで聞いてみた。
「ううん、違うわ。だいたいワタクシ、年齢はだいたいあなたと同じ位よ」
謎だ。
「違うって……」
「あらごめんなさい、自己紹介してなかったわね。滝田奏(カナデ)って言います。この通り、演奏する楽器はピアノ」
そう言って彼女は、オンボロピアノを指した。
「そ、そうですか……私は、天音響(ひびき)」
なんだかよくわからないけど、一応自己紹介しておく。
「天音が響く、いい名前ね」
「ありがとうございます……ところで、滝田さんは、なんで私がオーディションに落ちたって知ってるんですか?」
彼女はフフっと笑う。
「簡単なことよ、だってさっき『オーディション、今度もダメだったあー!』って泣いてたじゃない?」
「え! それは超はずっ!」
そんなことを声に出してたとは。
彼女は笑みを消してつぶやいた。
「気にしないで。ワタクシも以前はそんな感じだったのだから……それから、ため口で『カナデ』って呼んでくれる?」
「はい……うん、わかった」
いや、よくわかっていない。つくづく謎だ。謎だからジロジロ彼女を見てしまう。
「なにか、聞きたいことでもあるの?」
「……そうですね……その……着ている服と、さっきのピアノの演奏、随分不釣り合いだなって思って」
我ながら、なんでそんなどうでもいいことを口に出したのか。
でも、彼女は私の疑問を受けとめた。彼女は再び、その場を離れ、ピアノ椅子に座った。数秒目を閉じ、彼女は鍵盤に手を置くと、ゆっくりと優雅に曲を奏で始めた。
これは確か、ショパンのノクターン第二番。
……でも。調律が合ってないピアノから生まれる音は、調子っぱずれで、演奏する姿が美しかっただけに、余計にこっけいでもあった。
最後まで弾き終わると、彼女は私に顔を向けた。
拍手をして感想を述べた。
「ノクターン、素晴らしかった」
「あら、よく知ってるわね」
「うん、私も小さいときだけど、ピアノやってたから」
彼女は微笑みながら再びこっちに歩いてきた。
「あら、正直に言っていいのよ。なんか不釣り合いだなあって思ったでしょ?」
「えっ……うん、そう思った」
なんと彼女は腰を屈め、収納棚の私の隣に腰かけた。
「ち、ちょっと、ドレスが汚れる」
「いいのよ、こんなもの」
ピアノ弾きの子は、座ったまま前を向き、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ピティナって知ってる?」
「うん……確か、ピアノのメジャーなコンクールだったと思うけど」
「そう。ワタクシはね、その全国大会で入賞することばかりを追い求めてた」
「そうだよね、さっきのノクターン、音程合ってなかったけど、メロディーの表現力がすごかった」
「ありがとう……でもね、コンクールでいい成績をとるための練習が自分には合わなかったみたい。先生もすごく厳しくて」
「なんかそれ、わかるような気がする」
そうだ。コンクールに出るための練習なんか、ブラバンなんかやめてしまえばいいんだ。ネガティブな私が心のなかでつぶやく。
「で、コンクールに出るの、やめちゃったの?」
「ううん、すぐにはなかなか。親は期待してたし、同じピアノ教室の他の生徒の視線もあったし……お金もかかってるしね」
「難しいね、決心することって」
「そう。なにか次に進めるものが見つからないね」
「次に進めるもの?」
カナデは右手を上げた。
「うん。私の場合、あのピアノだった」
「あのオンボロが?」
彼女は手を下ろし、私と同じように膝小僧を抱える。
「もう無理、レッスンなんて行きたくないって、授業が終わっても学校から帰らないで、この部屋に逃げ込んだ。ここは誰も来ないしね。そのとき出会ったのが、あのピアノ」
「あのオンボロが?」私は同じ言葉を繰り返した。
「ワタクシも最初はそう思ったけど、ヒマだから、試しに弾いて見た。そしたら、あの通りひどい音」
「そうだよね。余計にピアノなんか弾きたくなくなったでしょ?」
「ところがね、なんか面白いなって感じたのよ」
「?」
「このピアノ、なんか抜けてるけど、憎めないやつってね。それでコイツに合う曲ってなんだろうって考えたの」
「ひょっとして、さっき私が泣いてたときに弾いてたみたいな曲……ジャズっぽいの」
「そう、ジャズ! まさにその通り……それでね、ネットでジャズのコード進行なんかを調べたり、楽譜屋さんに行って面白そうな曲を買ってきて弾いてたんだ」
なるほど、と思ったけど、疑問が残っている。
「あの、話戻るけど、どうしてドレスを着てジャズを弾いてるんだっけ?」
「ああ、そうそう、そうだったね……ちぐはぐなことやってたんだなって思えた。本当は違うことやりたかったくせに、かしこまったドレスなんか着てた、最初はそのギャップが面白いと思ってたんだけど、なんか変だなって思って、結局それを脱いだ」
脱いだって、今でも着てるじゃない? って言おうとして横を向いたら……
あれ⁉ カナデ、さっきと違う恰好している! ライトブルーのデニムのパンツに黒いTシャツ、その上にパンツと同じ色のデニムジャケット? でも彼女の上品で落ち着いた雰囲気は変わらない。
なんだかよくわからないけど、その横顔は楽しそうで、真っ直ぐ前を見つめるその瞳は、文字通り前向きに見えた。
「なんかカナデが羨ましい。私もちょっとジャズとかやってみたいかも」
「じゃあ、少しの間、息抜きにやってみない? 楽譜を用意しておくから」
「うん、ぜひ!」
「実を言うとワタクシもね、誰かと一緒に音楽をしてみたかったんだ。ずっと独りでピアノを弾いてきたし」
一応、一週間だけと約束して、第二音楽準備室に通うことにした。なぜか彼女からは、ブラバンの先生には休むことをちゃんと連絡して欲しいと強く言われた。でも、このまま部活をやめてしまってもいいと思った。コンクールのために、答えのない苦しい練習をするくらいなら。
〇
カナデが弾くオンボロピアノ――彼女に言わせると、ホンキートンクのピアノ――に乗せてクラリネットを吹くのは楽しかった。ジャズなんて、最初はよくわからなかったけど、カナデがアレンジしてくれた楽譜をそのまま吹いたり、自分でちょっとアレンジしたり。やっていてワクワクした。
枯葉
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カナデとアイコンタクトをとりながら、スタンダードナンバーを吹く。彼女が私に合わせてくれる。
そのうち、「いち、にの、さん」と自分でもリードをとってみると、彼女の音楽と私の音楽がますますシンクロしてくるのがわかった。
これ、ほんとに楽しい。
メトロノーム通りにしか吹けなかった私のクラリネットが、カナデの揺れるようなリズムに引っ張られていく。リードから「キュゥ」っと変な音が出たとき、私は思わず演奏を止めそうになった。でもカナデは「今の悲鳴、最高! グルーヴィーじゃん」と笑ってピアノを叩く。
クラリネットが、まるで自分の声帯になったみたいに笑って、泣いて、歌い始めた。
約束した、一週間の最後の日。セッションを終え、ああ、楽しかったね。と笑いあった。
スマホで写真を撮らせてと言ったら、カナデは最初ためらっていたけど、オンボロピアノをバックに二人でスマホのレンズに収まった。
その勢いで私は言った。
「あのね、カナデとジャズをやるの、これからも続けられないかな? なんならブラバンはやめるし」
彼女は急に笑みを消した。
「それはダメ……約束したでしょう?」
「なんで? 私は全然その方がいい」
「ワタクシはしばらくここには来れないし……だいたい、あなたのために、はならない」
彼女のその言葉は、嘘のようにも、とってつけたようにも聞こえたけど、なにか切実な思いがこもっているようにも感じた。
カナデは、つけ加えた。
「アマネに私からお願いよ。吹奏楽コンクールの地区予選を通過したら――間違いなく通過できると思うけど――あなたもちゃんとブロック大会のオーディションを受けて」
「え?……でもしばらくブラバンの方はサボっちゃったから、確実に落ちると思うんだけど」
「大丈夫。オーディションのとき、ここでワタクシと一緒に演奏したことを思い出してみて」
「ええ?……ここで吹いたことと、オーディションで吹くことは、真逆のような気がするけど」
「お願い……忘れないで」
「わかった。でも、これだけは約束してくれる? オーディションに受かったら、また一緒にジャズを演奏してくれるって」
「……うん、わかったわ」
彼女が『忘れないで』と言ったものがなんなのか、いまいちよくわからなかった。
〇
地区予選は無事に通過し、ブロック大会のためのオーディションが行われた。
すでに、コンクール本番で今年の課題曲は演奏しているのに、オーディションに使用された曲は、相変わらず去年の課題曲、マーチ『メモリーズ・リフレイン』だ。その理由はよくわからない。わからないことだらけだ。
そして、オーディション、私の順番。
「ヒビキちゃん、久しぶりね」
結局一週間以上休んだのでコンミスの弓香先輩にそう言われたけど、嫌みっぽさは感じられなかった。どちらかと言えば、「おかえりなさい」という温かさがその言葉には感じられた。まるで私がどこかに旅に出かけ、修行して帰ってきたのをねぎらうかのように。
「よろしくお願いします」
「あら、今度は『一生ついていきます』って言わないのね?」
先輩、覚えてた! はずぅ……
リラックスしているのに、なぜかソワソワする。なぜだろう?
そう、カナデが「ここでワタクシと一緒に演奏したことを思い出してみて」と言ってくれたけど、それがなんなのか、思いつかないからだ。スイングすること? いや、スイングなんかしちゃだめだ。でも気持ち的には……
目をつぶって悪あがきをしていたら、顧問の先生に促された。
閃いた!
ギリギリで思い出したことがあった。
そうか。
『一生ついていきます』じゃないんだ。
私は、また恥ずかしげもなく弓香先輩に声をかける。
「先輩、一緒に楽しみましょう!」
コンミスは微笑み、大きくうなずいてくれた。
弓香先輩の音楽を想い。
私の想いを先輩に届ける。
そうしたら、神経質に合わせようとしなくっても、
息が合う。表現が揃う。
確か、カナデはそれを『グルーブ』と言ってたな。
自分の演奏を終え、不意にあの存在を思い出した。
私はカバンからピンクのノートを取り出し、ペンを走らせた。
『音を合わせるだけじゃダメだ。一緒に音楽を楽しむんだって、彼女が教えてくれた』
〇
カナデにオーディション合格を真っ先に知らせたかった。
走って第二音楽準備室に飛び込んだ。
そこは、前と変わらず、窓から陽射しが射し込んでいたけど、彼女の姿は無かった。
彼女は「しばらくここには来れない」って言っていたけど、元々彼女はここにはいなかったような錯覚を感じる。
オンボロアップライトのピアノのふたは開きっぱなしで、ところどころ木目がむき出しになっている鍵盤もある。
試しに弾いてみた。
スカ
スカ スカ。
音なんか鳴りもしない。
鍵盤にポツリポツリと落ちる涙。
それは私のだ。
「カナデの嘘つき……また一緒にジャズをやってくれるって言ったじゃない!」
鍵盤をボンボン殴る。やっぱり、音は出ない。
「……でも……ありがとう」
そう言うのが精いっぱいだった。
ようやく涙が止まり、ふと目を上げると、ピアノの譜面台に茶色い封筒が置いてあるのに気づいた。表には『天音 響様へ』と書いてある。
開けると、便箋が一枚。
そこには、きれいな筆記体で、
Memories Refrain
と書かれていた。
封筒には別に、チケットとリーフレットらしきものが入っていた。
ジャズトリオのライブコンサートのチケット。
場所は、この街の駅前にあるライブハウス。
日時は、今週末の十九時。
〇
私はその日のその時間。
ライブハウスのドアを押していた。



