「山村先生、ちょっといいですか?」
朝のホームルームが始まって五分くらいしたとき、教室の前の入口が十センチほど開き、そこから黒縁メガネの女性の顔がのぞいた。学校事務職員の関さんだ。
私は、今日の当番に連絡事項を読み上げるように頼み、廊下に出た。
「すみません、山村先生。欠席のFAXが届いてたもので」
「FAX? なんで今ごろ……」
用紙を受け取り、読み上げる。
"
宛先 1年4組 山村美鈴先生
件名 出欠の連絡
本文 本日、38.2度の発熱のため、お休みをいただきます。
差出人 1年4組 (21番)高峯 円花 母(印鑑)
日付 令和7年1月19日
"
私は念のため、教室を覗いて円花の席を確かめた。
もちろん、そこに座っているはずがない。
このFAXにはおかしな点が二つあった。
今日は、二月二日だ。
一月十九日、確か、この日は……
それから、手書きの文字。見慣れていた、円花(マドカ)のお母さんの筆跡じゃない。
「関さん、これ今日着信があったわけじゃないですよね?」
「ええ……はい。実は、今朝FAXを見たら、用紙切れと着信のランプが点いていまして……申し訳ありません」
この中学の事務職員として勤め始めて一年目の彼女は、泣きそうな顔になりながらそう答えて頭を下げた。
「いえ、結果的にそれが良かったかもしれないです」
「?」
私はFAXの出力用紙をそのまま預かり、関さんは職員室に戻った。
教育現場の情報化は遅れている。欠席などの家庭から学校への連絡は、所定の様式でFAXで送信してもらうことになっていた。今年、ようやく政府からの通達があって、来年度中にFAX・紙の押印を廃止せよとのこと。うちの高校も三学期から学校連絡用のアプリとメールが導入されたばかりだ。
恐らく、一月中旬ともなると間違ってFAXで連絡してくる保護者もいなくなっていたので、着信と用紙切れに気づかなかったのだろう。たまたまホームルームの後は受け持ちの授業が無かったので、教室に戻り注意事項を伝えると、私は保健室に向かった。
『九時に戻ります 瀬川』
入口にかかっている小さなホワイトボードにはそう書かれていた。
一応ノックをして入る。
微かに保健室独特の匂いがする。私はこれがちょっと苦手だ。学生時代のトラウマか、貧血で運び込まれたときの記憶が蘇る。
二つあるベッドの奥側に、高峯 円花は寝ていた。正確に言うと、本を読んでいた。
「みすず先生?」
「ああ、そのままでいいよ……それはラノベかな?」
「あ、はい。瀬川先生に勧めてもらった本です」
「ああ、それ知ってる! いいよね。調子が悪いときでも割とスルスル読めるし」
「あの、先生……授業は?」
「ああ、今の時間はなし。だからちょっと様子を見に来ただけ……じゃあまた」
と言いかけて出口に向かうとき、面談用テーブルに荷物をぶつけてしまい、出席簿やら、なにやらが床に散らばってしまった。驚いてマドカは上体を起こした。
「先生、それ……」
散らばった書類の一番上に、さっき関さんから受け取ったFAX用紙がひらりと着地していた。
「あ、ごめん。見せるつもりじゃなかったんだけど……あとマドカさんには謝らなくちゃいけないね。この日、ちゃんと欠席の連絡をもらってたのに、行き違いで受け取れなかった」
「……いえ、いいんです……それに、もしちゃんと届いていたら、みすず先生は来てくれなかった」
そう言って彼女は頭を下げ、布団の上に組んだ自分の両手に視線を下げた。
「……それは、どうかな? 多分、筆跡で気づいたと思うよ」
「え、わかるんですか?」
彼女は目を丸くして私を見つめる。
「そうねえ、いつもFAXしてくれたお母様の筆跡は覚えちゃったし、あなたの独特な書体も見慣れてるし」
いや。もしあのときFAXが届いていたら、ろくに確かめもせずにそれだけで安心してしまっていただろう。
「ごめんなさい。確かにそれ、私が書きました」
「ううん、せっかく書いてくれたんだものね。謝るのは私の方よ」
多分彼女は、FAXから連絡方法が変わったことを知らなかったのだろう。
昨年、彼女のご両親は離婚し、お母様は働き始めた。そのような家庭環境、それから学校での人間関係、将来への不安などから、彼女は学校を休むことが多くなった。まだ母親が家にいるときは、学校への連絡や彼女のケアをしてくれていたが、勤め始めて家を空けるようになると、独り、家の中に取り残される。
そして一月十九日。
休むときはいつも必ずマドカのお母様から去年まではFAXで、今年に入ってからは学校の連絡アプリでメッセージ残してくれていた。
でも、その日は連絡が来なかった。
いつものことだから、忘れてしまったのだろうかとも思ったけど、昨年からのマドカの様子を見ていて気になっていたので、念のため自宅まで様子を見に行くことにした。彼女の家は、今までに三回ほど訪問している。
高峯家の門が見えたとき、ドアが開いた。
外に出てきたのはマドカ本人。制服を着てカバンを持っている。鍵をかけ、門を出ると、彼女はなぜか学校とは反対方向に歩き始めた。
ノロノロと歩く彼女のあとに私もついて行く。このまま真っ直ぐに進むと、確か堤防に突き当たる。
「マドカさん」
私は声をかけた。
驚いて振り返る彼女。
私の顔を見てさらにびっくりした表情を見せたが、やがて口元が歪み、顔を伏せて泣き始めた。
どこに行くの? とは聞けなかった。
お家に帰る? と聞くと首を横に振ったので、
「保健室に行こうか?……きょうずっと、一緒にいてあげるから」
「ずっと?」
私は彼女の肩を抱いて、学校まで戻った。
教頭と養護の瀬川先生に事情を話し、その日は受け持ちの授業を副担任の先生に任せ、円花が寝ているベッドの横にパイプ椅子を置いて、ポツリポツリと会話をし、夕方家まで送り、お母様に事情を説明した。
それからは、心理療法士の資格も持っている瀬川先生に協力してもらいながら、円花は保健室に通っている。今後どうするかは瀬川先生にも相談しているが、円花はしばらく保健室通いをしたいと言う。
〇
「あー、山村先生来てくれてたんだー! 悪かったね、ちょっと用事ができちゃってさ」
九時きっかりに瀬川先生が戻ってきた。
「お帰りなさい、じゃあ私職員室に戻るから」
そう言って私は立ち上がり、養護の先生と片手を上げてタッチした。
「みすず先生、ありがとう」
振り返ると、マドカはベッドに横になったまま私に軽く手を振っている。
「どういたしまして……それはそうと、保健室の匂いってなんか緊張しない?」
私が常日頃思っていることを彼女に聞いてみた。瀬川先生はちょっと不満そうに頬を膨らます。
マドカは布団に半分隠れていた顔を出し、答える。
「ここ独特の匂いですけど、私は嫌いじゃないです。どっちかと言えば、安心できる。ここなら瀬川先生も、みすず先生もいてくれるし」
そう、瀬川先生なら。私もそう思う。同い年だけど、教員歴は私の方が長い。彼女は心理療法士の資格をとるために、大学院まで通ったからだ。そして、新任のときからここ私立琥珀ヶ丘女子高等学校で養護教諭として働き、メンタル面でのケアもしてくれる。担当のスクールカウンセラーが隔週でしか来れないので助かっている。生徒だけでなく教師のメンタル面での相談にも乗ってくれ、実は私も、彼女は忙しいのに悪いなと思いつつも、愚痴と言うか弱音と言うか、そういうものを瀬川先生にぶつけさせてもらっている。持ち前の明るさで、その『瀬川スマイル』で接してもらうだけで、気が落ち着く。
なんでも彼女自身、高校時代は心の問題を抱えていた経験もあり、それを踏まえ、自分みたいな子供たちが少しでも元気になってもらえればと、この仕事を選んだんだと本人から聞いている。他にも夢見ていた職業はあったが、学校での心と体の健康に関わる仕事を選んだ。
マドカは、この先まだまだ長いかも知れない。
でも、届かなかった一枚の紙が、彼女をここへ繋ぎ止めてくれた。その奇跡みたいな『未達の幸運』を、ゆっくりと、瀬川先生とともに大切に育てていきたいと思う。
〇
生徒たちが下校し、保健室の片づけや日誌の記入も終わるこの時間。
養護教諭である私の心の中で、張りつめていたものが、ゆるゆるとほどけてくる。
消毒液の匂いが薄れ、窓から入る夕暮れの匂いと混ざり合う、一日の終わりの気配。そういえば以前、山村先生は、この匂いを嗅ぐと、なんか緊張するって言ってたっけ。
今日も、この春入学してきた子供達が、不慣れな環境に馴染めずに数人やってきた。
一学期は、この後ゴールデンウィーク明けまでこういう日が長く続くだろう。
それは、どこの学校でも同じ。ここに来る前の女子高、私立琥珀ヶ丘高校でもそうだった。いや、むしろ、あの学校の方が難しい問題を抱えた生徒が多かったかもしれない。
でも、今日はもう店じまい。
あとは鍵を閉めて職員室に必要なものを提出すれば終わりなのだが、カーテン越しに射す琥珀色の夕陽と、遠くで響くローテンポな下校の音楽が、私をこの場に押し留める。
私はソファにややだらしなく体を沈め、白衣のポケットからスマホを取り出した。
インスタグラムのアイコンを押し、とあるページを開く。
『卒業アルバム、七つのきら星』。
この春、巣立っていった女の子の一人――高峯 円花――が、私をこのグループの仲間に入れてくれたのだ。
画面をスクロールする。映し出される場所は、図書室、音楽準備室、プール、テニスコート、天文部室、美術室、そして学生食堂。
それぞれの場にふさわしいポーズをとって、女の子が二人ずつ写っている。
十四人の女の子。みんな、いい笑顔。
……けれど最近、二人組のうち一人が消えかかっている。
それは、寂しい気もするけど、きっと『よかった』と思うべきなのだろう。そのことは私自身が身に染みてよくわかっているつもりだ。
私は彼女らがこの学校でどう過ごし、どんな会話を交わしてきたのか、すべてを知っているわけではない。でもそれを紐解く手立てはある。
それが、私の目の前、ローテーブルの上に置かれている、ピンク色のキャンパスノートと、それを元に書き起こされた分厚い原稿の束。その作者は誰だろうか。そう、あの子たち。自らの思い出をリレーのようにしてつなぎ合わせ、一つの物語を紡いでくれた。
そして、あの子……私の心の中で、「ボク自身の手で、物語を創ってみたい。友達と笑い合いながら紡ぐ、最高にハッピーな共作を」……そう言って屈託のない笑顔を見せた少女が、さらに物語性を加えてくれた。
山積みの原稿の隣にスマホを置き、背もたれに深く身を沈め、目を閉じた。
デジタルは、残るようで、消える。
アナログは、消えるようで、残る。
瞼の裏に、あの懐かしい図書室の扉が浮かぶ。
私の追想は、チャイムの響きから始まる――。



