卒業式の朝、春菜は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄く、部屋の中には朝の冷たさが残っている。けれど今日は、寒いとか眠いとか、そういういつもの感覚より先に、胸のあたりだけが落ち着かなかった。
今日で終わる。
そう思うと、起き上がる動作ひとつまで、少しだけ慎重になる。
制服に袖を通し、髪を整え、鏡の前で一度だけ深呼吸をした。何を言うのかは、昨夜のうちに何度も考えた。好きでした、でもいい。卒業おめでとうございます、でもいい。今までありがとうございました、でも間違いではない。
けれど、どの言葉も春菜の口の中では少しだけ固かった。
たぶん、どれも本当なのに、どれか一つだけでは足りないのだ。
いつもより少し早く家を出ると、朝の空気は思ったよりやわらかかった。三月の光は、冬の名残をまだ少し持ちながら、それでも確実に春へ向かっている。坂の下に立つと、春菜は足元ではなく、まっすぐ上を見た。
この坂を上るのも、何度目だろう。
長いと思った日も、会えて短く感じた日も、ひとりで上る足音ばかりが大きかった日もある。けれど今日は、いつものどの日とも違って見えた。
春菜は坂の途中、いつも早瀬と別れる少し手前の場所で立ち止まった。
待つ、ということをこんなふうに意識したのは初めてだった。じっとしていると、風の音や遠くの車の音までよく聞こえる。通り過ぎていく生徒たちが何人かいて、そのたびに「おはよう」と交わしながらも、春菜の視線はずっと坂の下へ向いていた。
来なかったらどうしよう、と思う。
でもその不安を口にした瞬間、本当に来なくなってしまいそうで、春菜はただ鞄の紐を握って待った。
やがて、見覚えのある歩き方が坂の下に現れた。
白いシャツの上にブレザー。今日は卒業式だから、いつもより少しきちんと見える。早瀬は一度こちらに気づくと、目を細め、それから少しだけ驚いたように足をゆるめた。
「春菜ちゃん?」
名前を呼ばれたわけではない。けれど、その声はたしかに自分へ向けられていた。
「おはようございます」
春菜はそう言って笑おうとしたが、うまくできたかどうかわからなかった。
早瀬が近くまで来て、首をかしげる。
「どうしたの。こんなとこで」
「……今日は、ちょっと早く出ました」
「そうなんだ」
その返事のあと、ほんの短い沈黙が落ちる。気まずいわけではない。ただ、お互いにいつもより少しだけ言葉を選んでいるのがわかった。
「卒業式、ですね」
春菜が言うと、早瀬は小さく笑った。
「うん。ついにって感じ」
「実感ありますか」
「半分くらい」
「半分」
「朝の坂はいつもどおりだから」
その言い方が、ひどく早瀬らしかった。春菜も少しだけ笑う。
「たしかに」
「でも、終わったら急に来るのかもね」
その“終わったら”の先を想像して、春菜の胸がきゅっと縮む。明日からこの坂に早瀬はいないのかもしれない。会えるかどうかを考えながら家を出ることも、途中まで一緒に歩くことも、なくなるのだ。
二人はゆっくり坂を上りはじめた。
歩幅は自然とそろった。朝の光は少し高くなり、道の端の花壇に春の色が戻りはじめている。けれど春菜の中では、景色よりも、自分の鼓動の方がずっと鮮やかだった。
何か言わなければと思う。
今日を逃したら、もう言えない。
頭ではわかっているのに、言葉は喉のあたりでつかえてしまう。好きです、と言ってしまえば簡単かもしれない。でもその一言で、この朝の時間まで“告白のための前振り”みたいに変えてしまうのが嫌だった。
春菜にとって大事だったのは、結果よりも、あの時間そのものだったから。
早瀬が先に口を開いた。
「最近、少しあったかくなったよね」
「はい。朝の空気が前より痛くないです」
「わかる。冬の坂って、顔が負ける」
「顔が負けるって、初めて聞きました」
「負けない?」
「私は指先が負けます」
「それもあるな」
そんな会話をしながら歩いているうちに、“別れ道”が近づいてくる。春菜はその景色を見た瞬間、だめだ、と思った。このままいつもどおり別れてしまったら、たぶん一生後悔する。
足が、少しだけ止まる。
早瀬もそれに気づいて立ち止まった。
「春菜ちゃん?」
今だ、と春菜は思った。
言いたいことは山ほどあるのに、口から出てきたのは、考え抜いたきれいな言葉ではなかった。
「私……」
声が少し震える。春菜は自分の手が鞄の紐を強く握りしめているのを感じた。
「先輩と、この坂を歩く朝が、好きでした」
言い終わった瞬間、胸の奥にあったものがひとつほどけた気がした。
好き“でした”。
過去形にしたのは、今日で終わると知っているからかもしれないし、今この場で答えを迫る言い方にしたくなかったからかもしれない。自分でもどちらかわからない。ただ、それがいちばん春菜らしい言い方だと思った。
早瀬はすぐには何も言わなかった。
春菜は怖くなって、うつむきかける。けれど、その前にやわらかな声が落ちてきた。
「俺も」
顔を上げる。
早瀬はまっすぐ春菜を見ていた。いつもの、少し力の抜けた笑い方ではなく、ちゃんと届くように言葉を置こうとしている顔だった。
「あの時間に、助けられてた」
それは、春菜が想像していたどんな答えとも少し違っていた。
両想いだと告げる言葉ではない。けれど、ただの気まぐれでもなかった。春菜が大切にしていた朝の数分を、早瀬も同じように覚えていてくれたのだとわかる言葉だった。
それだけで、十分だった。
十分すぎるくらいだった。
春菜は泣きそうになるのをこらえて、なんとか笑う。
「よかったです」
声は少しかすれていたけれど、早瀬は何も言わずにそのまま笑い返してくれた。
いつもの場所。校門の少し手前。毎朝、ここで「じゃ、また」と別れていた場所に、二人は並んで立っている。
早瀬がふと、少しだけ視線を遠くに向けてから言った。
「春菜ちゃんは、ちゃんと上まで行ける人だよ」
名前を呼ばれたことより、その言葉の方が、春菜には強く刺さった。
自分ではずっと、途中で立ち止まる方の人間だと思っていた。迷って、考えすぎて、言えなくて、引いてしまう。そういう自分しか知らなかったのに、早瀬の目には違うふうに映っていたのだ。
「……そうでしょうか」
「うん」
ためらいのない返事だった。
「少なくとも、俺はそう思ってる」
春菜はとうとう視線を落とした。泣きたくないのに、目の奥が熱い。今日が卒業式でよかったと思う。そうでなければ、この顔のまま教室に行くことなんてできなかった。
早瀬が一歩、校門の方へ向き直る。
「そろそろ行かないと」
「はい」
「卒業式終わったら、もう会わないみたいな顔しないで」
そう言って笑うから、春菜もつられて笑ってしまう。
「してました?」
「ちょっと」
「気をつけます」
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
言葉を足せば足すほど、今のきれいな形がくずれてしまう気がしたからだろう。春菜も同じだった。
「卒業、おめでとうございます」
最後にそう言うと、早瀬は少し照れたように「ありがとう」と返した。
それから背を向けて歩きだす。
春菜は、その背中が見えなくなるまで見送った。いつもより少しきれいに見える制服の背中が、人の流れの中へ自然にまぎれていく。坂の向こうに消えてしまうわけではないのに、もう同じ朝は戻らないことだけは、はっきりわかった。
見送った背中が校門の先に吸い込まれてからも、春菜はしばらく、そこがまだ途中であるみたいに立ち尽くしていた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄く、部屋の中には朝の冷たさが残っている。けれど今日は、寒いとか眠いとか、そういういつもの感覚より先に、胸のあたりだけが落ち着かなかった。
今日で終わる。
そう思うと、起き上がる動作ひとつまで、少しだけ慎重になる。
制服に袖を通し、髪を整え、鏡の前で一度だけ深呼吸をした。何を言うのかは、昨夜のうちに何度も考えた。好きでした、でもいい。卒業おめでとうございます、でもいい。今までありがとうございました、でも間違いではない。
けれど、どの言葉も春菜の口の中では少しだけ固かった。
たぶん、どれも本当なのに、どれか一つだけでは足りないのだ。
いつもより少し早く家を出ると、朝の空気は思ったよりやわらかかった。三月の光は、冬の名残をまだ少し持ちながら、それでも確実に春へ向かっている。坂の下に立つと、春菜は足元ではなく、まっすぐ上を見た。
この坂を上るのも、何度目だろう。
長いと思った日も、会えて短く感じた日も、ひとりで上る足音ばかりが大きかった日もある。けれど今日は、いつものどの日とも違って見えた。
春菜は坂の途中、いつも早瀬と別れる少し手前の場所で立ち止まった。
待つ、ということをこんなふうに意識したのは初めてだった。じっとしていると、風の音や遠くの車の音までよく聞こえる。通り過ぎていく生徒たちが何人かいて、そのたびに「おはよう」と交わしながらも、春菜の視線はずっと坂の下へ向いていた。
来なかったらどうしよう、と思う。
でもその不安を口にした瞬間、本当に来なくなってしまいそうで、春菜はただ鞄の紐を握って待った。
やがて、見覚えのある歩き方が坂の下に現れた。
白いシャツの上にブレザー。今日は卒業式だから、いつもより少しきちんと見える。早瀬は一度こちらに気づくと、目を細め、それから少しだけ驚いたように足をゆるめた。
「春菜ちゃん?」
名前を呼ばれたわけではない。けれど、その声はたしかに自分へ向けられていた。
「おはようございます」
春菜はそう言って笑おうとしたが、うまくできたかどうかわからなかった。
早瀬が近くまで来て、首をかしげる。
「どうしたの。こんなとこで」
「……今日は、ちょっと早く出ました」
「そうなんだ」
その返事のあと、ほんの短い沈黙が落ちる。気まずいわけではない。ただ、お互いにいつもより少しだけ言葉を選んでいるのがわかった。
「卒業式、ですね」
春菜が言うと、早瀬は小さく笑った。
「うん。ついにって感じ」
「実感ありますか」
「半分くらい」
「半分」
「朝の坂はいつもどおりだから」
その言い方が、ひどく早瀬らしかった。春菜も少しだけ笑う。
「たしかに」
「でも、終わったら急に来るのかもね」
その“終わったら”の先を想像して、春菜の胸がきゅっと縮む。明日からこの坂に早瀬はいないのかもしれない。会えるかどうかを考えながら家を出ることも、途中まで一緒に歩くことも、なくなるのだ。
二人はゆっくり坂を上りはじめた。
歩幅は自然とそろった。朝の光は少し高くなり、道の端の花壇に春の色が戻りはじめている。けれど春菜の中では、景色よりも、自分の鼓動の方がずっと鮮やかだった。
何か言わなければと思う。
今日を逃したら、もう言えない。
頭ではわかっているのに、言葉は喉のあたりでつかえてしまう。好きです、と言ってしまえば簡単かもしれない。でもその一言で、この朝の時間まで“告白のための前振り”みたいに変えてしまうのが嫌だった。
春菜にとって大事だったのは、結果よりも、あの時間そのものだったから。
早瀬が先に口を開いた。
「最近、少しあったかくなったよね」
「はい。朝の空気が前より痛くないです」
「わかる。冬の坂って、顔が負ける」
「顔が負けるって、初めて聞きました」
「負けない?」
「私は指先が負けます」
「それもあるな」
そんな会話をしながら歩いているうちに、“別れ道”が近づいてくる。春菜はその景色を見た瞬間、だめだ、と思った。このままいつもどおり別れてしまったら、たぶん一生後悔する。
足が、少しだけ止まる。
早瀬もそれに気づいて立ち止まった。
「春菜ちゃん?」
今だ、と春菜は思った。
言いたいことは山ほどあるのに、口から出てきたのは、考え抜いたきれいな言葉ではなかった。
「私……」
声が少し震える。春菜は自分の手が鞄の紐を強く握りしめているのを感じた。
「先輩と、この坂を歩く朝が、好きでした」
言い終わった瞬間、胸の奥にあったものがひとつほどけた気がした。
好き“でした”。
過去形にしたのは、今日で終わると知っているからかもしれないし、今この場で答えを迫る言い方にしたくなかったからかもしれない。自分でもどちらかわからない。ただ、それがいちばん春菜らしい言い方だと思った。
早瀬はすぐには何も言わなかった。
春菜は怖くなって、うつむきかける。けれど、その前にやわらかな声が落ちてきた。
「俺も」
顔を上げる。
早瀬はまっすぐ春菜を見ていた。いつもの、少し力の抜けた笑い方ではなく、ちゃんと届くように言葉を置こうとしている顔だった。
「あの時間に、助けられてた」
それは、春菜が想像していたどんな答えとも少し違っていた。
両想いだと告げる言葉ではない。けれど、ただの気まぐれでもなかった。春菜が大切にしていた朝の数分を、早瀬も同じように覚えていてくれたのだとわかる言葉だった。
それだけで、十分だった。
十分すぎるくらいだった。
春菜は泣きそうになるのをこらえて、なんとか笑う。
「よかったです」
声は少しかすれていたけれど、早瀬は何も言わずにそのまま笑い返してくれた。
いつもの場所。校門の少し手前。毎朝、ここで「じゃ、また」と別れていた場所に、二人は並んで立っている。
早瀬がふと、少しだけ視線を遠くに向けてから言った。
「春菜ちゃんは、ちゃんと上まで行ける人だよ」
名前を呼ばれたことより、その言葉の方が、春菜には強く刺さった。
自分ではずっと、途中で立ち止まる方の人間だと思っていた。迷って、考えすぎて、言えなくて、引いてしまう。そういう自分しか知らなかったのに、早瀬の目には違うふうに映っていたのだ。
「……そうでしょうか」
「うん」
ためらいのない返事だった。
「少なくとも、俺はそう思ってる」
春菜はとうとう視線を落とした。泣きたくないのに、目の奥が熱い。今日が卒業式でよかったと思う。そうでなければ、この顔のまま教室に行くことなんてできなかった。
早瀬が一歩、校門の方へ向き直る。
「そろそろ行かないと」
「はい」
「卒業式終わったら、もう会わないみたいな顔しないで」
そう言って笑うから、春菜もつられて笑ってしまう。
「してました?」
「ちょっと」
「気をつけます」
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
言葉を足せば足すほど、今のきれいな形がくずれてしまう気がしたからだろう。春菜も同じだった。
「卒業、おめでとうございます」
最後にそう言うと、早瀬は少し照れたように「ありがとう」と返した。
それから背を向けて歩きだす。
春菜は、その背中が見えなくなるまで見送った。いつもより少しきれいに見える制服の背中が、人の流れの中へ自然にまぎれていく。坂の向こうに消えてしまうわけではないのに、もう同じ朝は戻らないことだけは、はっきりわかった。
見送った背中が校門の先に吸い込まれてからも、春菜はしばらく、そこがまだ途中であるみたいに立ち尽くしていた。



