冬の朝は、音まで白い気がした。
家を出た瞬間、吐いた息がふわりと曇って、春菜はマフラーを鼻先まで引き上げた。坂の下に立つと、空気はさらに冷たくなる。四月には長いだけだった坂道が、この季節には少し無口なものに見えた。花壇のパンジーも色を残したまま縮こまり、朝の光さえ薄い。
春菜はポケットの中で手を握りながら、いつものように坂を上りはじめた。
けれど、最近は“いつものように”が難しい。
文化祭の日からあと、早瀬と朝に会える日が少しずつ減っていた。最初はたまたまだと思った。模試の日、補習の日、部活の当番。三年生なのだから忙しいのは当たり前だと、自分に何度も言い聞かせた。実際、そのとおりなのだろう。
それでも、会えない朝が三日、四日と続くと、坂の長さそのものが変わってしまったみたいに感じる。
会えないから困ることなんて、本当は一つもない。授業に出られなくなるわけでも、学校へ行きたくなくなるわけでもない。ただ、何も起きていない朝が、何も起きなさすぎて妙にさびしいだけだ。
その日も、春菜は半分まで坂を上ってから、やっぱり今日もいないのだと思った。自分の靴音しか聞こえない。風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけがある。
校門が見えてきたころ、後ろから足音がした。
「おはよう」
ふいに声が落ちてきて、春菜は驚いて振り向いた。
早瀬だった。
少し息が上がっている。珍しく急いで来たらしい。肩にかけた鞄の紐を持ち直しながら、少しだけ照れたように笑う。
「……おはようございます」
それだけ言うのに、喉がきゅっとした。会えない朝に慣れかけていたぶん、目の前にいることが信じられない。
「久しぶりな気がする」
「はい……ちょっと」
「最近、朝練みたいなの手伝ってて。写真部じゃないんだけど、広報用の撮影頼まれて」
「そうだったんですね」
そうか、と春菜は胸の奥で小さく納得する。ちゃんと理由があるのだとわかるだけで、少し楽になる自分がいる。でも、それと同時に、理由があるなら、これからもっと会えなくなるのかもしれないとも思ってしまった。
二人は並んで歩き出した。朝の光は低く、白い息が会話のたびにこぼれる。
「寒いね」
「今年いちばんかも」
「言いすぎじゃない?」
「でも、たぶん三本指には入ります」
「それはあるかも」
そんなやりとりさえ、会えなかった日々のあとでは少しもったいなく感じる。何かもっと大事なことを話した方がいいのではないかと思うのに、いざとなると言葉はいつもどおりのところへ落ち着いてしまう。
それでも今日は、聞かなければいけない気がした。
「先輩」
「うん?」
春菜はマフラーを少し下げる。吐く息が白くほどけていく。
「卒業したら、ここを離れるんですか」
言い終わった瞬間、心臓が強く打った。こんなふうに直接聞いたのは初めてだった。
早瀬は少しだけ黙った。坂の上を見るでもなく、下を見るでもなく、前だけを見ている。
「……たぶん」
返ってきたのは、それだけだった。
たぶん。
曖昧なのに、それで十分だった。十分すぎるくらいだった。
春菜は「そうなんですね」と返したかったのに、声がうまく出なかった。ただ頷くことしかできない。早瀬も、それ以上詳しくは言わなかった。どこへ行くのか、どうしてなのか、聞けば答えてくれたかもしれない。でも、聞いたところで春菜にはどうすることもできないと、もうわかってしまったからだ。
校門の少し手前まで来たところで、早瀬がぽつりと言う。
「でも、まだ決まったわけじゃないよ」
その言い方はやさしかった。春菜を慰めようとしたのか、自分自身に言い聞かせたのかはわからない。
「はい」
今度はちゃんと返事ができた。けれど、その“まだ”が、前よりもずっと頼りなく聞こえる。
その日から、卒業式の日付が急に現実味を持ちはじめた。教室の後ろに貼られた行事予定表の文字、放課後に聞こえる三年生の話し声、廊下ですれ違うたびに感じる“もうすぐ終わる”という空気。今まで遠くにあったはずのものが、少しずつこちらへ近づいてくる。
昼休み、春菜は購買のクリームパンを半分にちぎりながら、梨央に小さく言った。
「たぶん、離れるって」
梨央は一瞬だけ表情を止め、それからゆっくり頷いた。
「そっか」
「うん」
「言うの?」
その問いに、春菜はパンを持ったまま黙る。
何を、とは聞かれなかった。好きだということを、だ。梨央の目はいつになくまっすぐで、茶化す気配がない。
「……わからない」
「言わないで終わる方が、あとでつらいかもよ」
「でも」
春菜は視線を落とした。指先についたパンくずを親指で払う。
「困らせたくない」
それがいちばん大きかった。卒業を前にして、進路のことで迷っていて、忙しくしている人に、自分の気持ちを渡すこと。それは春菜にはどうしても重たく思えた。
「好きって言われて困る人もいるけど、うれしい人もいるよ」
「それでも、私が言って楽になりたいだけだったら嫌だなって思う」
梨央は少しだけ目を細めた。やがて、はあ、と小さく息をつく。
「春菜らしいね」
「そうかな」
「うん。ちゃんと相手のこと考えすぎるとこ」
褒められたのか、あきれられたのかよくわからない。でも、そう言われてしまうと、自分でも否定できなかった。
好きだから、言いたい。
好きだから、言えない。
その二つが同時に胸の中にあって、どちらも嘘ではなかった。
放課後、窓の外を見ると、校庭の向こうの空はもう薄い橙色に変わっていた。冬は夕方が来るのが早い。春菜はその色を見ながら、ふと思う。
終わりが見えている恋は、始まりよりずっと静かに心を占めるのだと。
家を出た瞬間、吐いた息がふわりと曇って、春菜はマフラーを鼻先まで引き上げた。坂の下に立つと、空気はさらに冷たくなる。四月には長いだけだった坂道が、この季節には少し無口なものに見えた。花壇のパンジーも色を残したまま縮こまり、朝の光さえ薄い。
春菜はポケットの中で手を握りながら、いつものように坂を上りはじめた。
けれど、最近は“いつものように”が難しい。
文化祭の日からあと、早瀬と朝に会える日が少しずつ減っていた。最初はたまたまだと思った。模試の日、補習の日、部活の当番。三年生なのだから忙しいのは当たり前だと、自分に何度も言い聞かせた。実際、そのとおりなのだろう。
それでも、会えない朝が三日、四日と続くと、坂の長さそのものが変わってしまったみたいに感じる。
会えないから困ることなんて、本当は一つもない。授業に出られなくなるわけでも、学校へ行きたくなくなるわけでもない。ただ、何も起きていない朝が、何も起きなさすぎて妙にさびしいだけだ。
その日も、春菜は半分まで坂を上ってから、やっぱり今日もいないのだと思った。自分の靴音しか聞こえない。風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけがある。
校門が見えてきたころ、後ろから足音がした。
「おはよう」
ふいに声が落ちてきて、春菜は驚いて振り向いた。
早瀬だった。
少し息が上がっている。珍しく急いで来たらしい。肩にかけた鞄の紐を持ち直しながら、少しだけ照れたように笑う。
「……おはようございます」
それだけ言うのに、喉がきゅっとした。会えない朝に慣れかけていたぶん、目の前にいることが信じられない。
「久しぶりな気がする」
「はい……ちょっと」
「最近、朝練みたいなの手伝ってて。写真部じゃないんだけど、広報用の撮影頼まれて」
「そうだったんですね」
そうか、と春菜は胸の奥で小さく納得する。ちゃんと理由があるのだとわかるだけで、少し楽になる自分がいる。でも、それと同時に、理由があるなら、これからもっと会えなくなるのかもしれないとも思ってしまった。
二人は並んで歩き出した。朝の光は低く、白い息が会話のたびにこぼれる。
「寒いね」
「今年いちばんかも」
「言いすぎじゃない?」
「でも、たぶん三本指には入ります」
「それはあるかも」
そんなやりとりさえ、会えなかった日々のあとでは少しもったいなく感じる。何かもっと大事なことを話した方がいいのではないかと思うのに、いざとなると言葉はいつもどおりのところへ落ち着いてしまう。
それでも今日は、聞かなければいけない気がした。
「先輩」
「うん?」
春菜はマフラーを少し下げる。吐く息が白くほどけていく。
「卒業したら、ここを離れるんですか」
言い終わった瞬間、心臓が強く打った。こんなふうに直接聞いたのは初めてだった。
早瀬は少しだけ黙った。坂の上を見るでもなく、下を見るでもなく、前だけを見ている。
「……たぶん」
返ってきたのは、それだけだった。
たぶん。
曖昧なのに、それで十分だった。十分すぎるくらいだった。
春菜は「そうなんですね」と返したかったのに、声がうまく出なかった。ただ頷くことしかできない。早瀬も、それ以上詳しくは言わなかった。どこへ行くのか、どうしてなのか、聞けば答えてくれたかもしれない。でも、聞いたところで春菜にはどうすることもできないと、もうわかってしまったからだ。
校門の少し手前まで来たところで、早瀬がぽつりと言う。
「でも、まだ決まったわけじゃないよ」
その言い方はやさしかった。春菜を慰めようとしたのか、自分自身に言い聞かせたのかはわからない。
「はい」
今度はちゃんと返事ができた。けれど、その“まだ”が、前よりもずっと頼りなく聞こえる。
その日から、卒業式の日付が急に現実味を持ちはじめた。教室の後ろに貼られた行事予定表の文字、放課後に聞こえる三年生の話し声、廊下ですれ違うたびに感じる“もうすぐ終わる”という空気。今まで遠くにあったはずのものが、少しずつこちらへ近づいてくる。
昼休み、春菜は購買のクリームパンを半分にちぎりながら、梨央に小さく言った。
「たぶん、離れるって」
梨央は一瞬だけ表情を止め、それからゆっくり頷いた。
「そっか」
「うん」
「言うの?」
その問いに、春菜はパンを持ったまま黙る。
何を、とは聞かれなかった。好きだということを、だ。梨央の目はいつになくまっすぐで、茶化す気配がない。
「……わからない」
「言わないで終わる方が、あとでつらいかもよ」
「でも」
春菜は視線を落とした。指先についたパンくずを親指で払う。
「困らせたくない」
それがいちばん大きかった。卒業を前にして、進路のことで迷っていて、忙しくしている人に、自分の気持ちを渡すこと。それは春菜にはどうしても重たく思えた。
「好きって言われて困る人もいるけど、うれしい人もいるよ」
「それでも、私が言って楽になりたいだけだったら嫌だなって思う」
梨央は少しだけ目を細めた。やがて、はあ、と小さく息をつく。
「春菜らしいね」
「そうかな」
「うん。ちゃんと相手のこと考えすぎるとこ」
褒められたのか、あきれられたのかよくわからない。でも、そう言われてしまうと、自分でも否定できなかった。
好きだから、言いたい。
好きだから、言えない。
その二つが同時に胸の中にあって、どちらも嘘ではなかった。
放課後、窓の外を見ると、校庭の向こうの空はもう薄い橙色に変わっていた。冬は夕方が来るのが早い。春菜はその色を見ながら、ふと思う。
終わりが見えている恋は、始まりよりずっと静かに心を占めるのだと。



