坂の途中の春みたいな恋だった

 文化祭の日の校舎は、ふだんの学校より少しだけ夢の中に似ていた。

 廊下には色紙の輪飾りがぶら下がり、教室の扉には手描きの看板が貼られている。いつもは無機質に見える白い壁も、今日はどこか浮き足立って見えた。呼び込みの声、焼きそばの匂い、体育館の方から漏れてくるマイクの響き。春菜は人の流れに押されるようにしながら、それでもどこか上の空で歩いていた。

「で、写真部も見るんでしょ?」

 隣で梨央が言う。

「……ついでに」

「はいはい」

 ついで、ということにしておきたかった。写真部の展示は特別棟の二階だ。わざわざ行くには少し遠い。でも、行かない理由もなかった。

 階段を上がると、人通りが急に少なくなった。遠くの教室から話し声は聞こえるのに、この廊下だけ少し静かだ。写真部の展示教室の前には、黒い画用紙で切り抜いたカメラの形が貼ってあり、その下に小さく「光を集める」と書かれていた。

 教室に入ると、窓際のカーテンが半分閉められ、白いパネルに写真が並べられていた。風景、部活中の手元、校庭の夕焼け、雨に濡れたベンチ。どれも、この学校の中にあるはずなのに、春菜の知っている景色より少しだけ遠く、美しかった。

 春菜は一枚ずつ見ていった。

 そして、教室の奥で足を止める。

 坂道の写真だった。

 朝の光が斜めに差していて、道の端の花壇が薄く光っている。まだ登校する生徒の姿はまばらで、坂の上も下も、どちらへ向かう途中なのか曖昧なまま、道だけが静かに伸びていた。見慣れているはずの通学路なのに、初めて見る場所みたいだった。

 春菜はその写真から目を離せなくなった。

 毎朝、長いと思っていた坂。雨の日は嫌で、眠い日はもっと嫌で、それでも上らなければならないただの通学路。けれどその一枚の中では、坂はどこかやさしく、何かが始まりそうな道に見えた。

「それ、俺が撮ったやつ」

 後ろから声がして、春菜は驚いて振り向いた。

 早瀬が立っていた。文化祭の腕章をつけ、首から来場者用の名札をぶら下げている。制服ではなく、写真部の黒いTシャツの上に薄手のシャツを羽織っていて、いつもの朝より少しだけよそ行きに見えた。

「あ……すみません。勝手に、ずっと見てて」

「いいよ。見てもらうために飾ってるし」

 その言い方が、朝と同じようにやわらかかったので、春菜は少しだけ肩の力を抜いた。

「すごく、きれいです」

 素直にそう言うと、早瀬は写真の方へ目をやった。

「ありがとう」

 短く返したあと、少しだけ笑う。

「坂の写真、地味かなって思ったんだけど」

「そんなことないです。……同じ道なのに、違って見える」

「それならよかった」

 春菜はもう一度、写真を見上げた。そうだ、違って見える。毎朝そこにいる自分まで、写真の中では少しだけ別の誰かになれそうな気がする。

「先輩、この坂、好きなんですか」

 口に出してから、少しだけ緊張した。変なことを聞いたかもしれないと思ったが、早瀬はすぐには答えず、パネルの端を指先で整えるように触った。

「前は、そうでもなかった」

「前は?」

「長いし。朝からしんどいし。雨の日は最悪だし」

 思わず春菜が笑うと、早瀬もつられるように笑った。

「でも最近は、ちょっと違う」

 その言い方が静かで、春菜は息を飲んだ。

 どうしてですか、と聞きかけて、やめる。

 聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。自分のことかもしれないし、まったく違う理由かもしれない。そのどちらでも、今の春菜には少しこわい。

 だから代わりに、写真の隅へ目を向ける。

「朝、こんなふうに光が入ってるんですね」

「うん。人が少ない時間の方が、坂のかたちがよく見えるから」

「かたち」

「上ってる途中なのか、下ってる途中なのか、写真だとちょっと曖昧になるでしょ」

 春菜は小さく頷いた。曖昧、という言葉が胸の奥に残る。たしかにこの写真は、どこへ向かう途中なのかを決めつけないまま、ただその途中だけを綺麗に留めている。

 教室の外から誰かが早瀬を呼ぶ声がした。部員らしい男子生徒が、入口から顔だけのぞかせる。

「早瀬、次の当番交代、五分後な」

「了解」

 そう返してから、早瀬は春菜の方へ向き直った。

「あと少しだけなら、案内できるけど」

「いえ、大丈夫です。もう十分見ました」

「そっか」

 でも二人とも、その場からすぐには動かなかった。写真と写真のあいだに流れる、短い沈黙が落ちる。教室の奥では別の来場者が小声で感想を言い合っていて、その距離感がかえって、この場所だけを静かにしていた。

 春菜は思いきって言う。

「私、この坂、前より少し好きになりました」

 早瀬が目を細める。

「俺の写真見たから?」

「それもありますけど」

「それも?」

 その先を言うのは恥ずかしかった。毎朝、誰かと数分話すようになってから、ただ長いだけだった坂道が少しずつ変わって見えるようになったなんて、まっすぐすぎて言えない。

 春菜が言葉を濁していると、早瀬はそれ以上は聞かず、代わりに少しだけ視線を窓の外へ向けた。

「上りきらなくても、途中まで一緒なら覚えてるよ」

 それは、何かの説明の続きみたいに自然に言われた。

 あまりにも自然だったから、春菜はすぐに返事ができなかった。

「……え?」

「坂のこと」

 早瀬は苦笑する。

「毎日最後まで一緒じゃなくても、途中の景色とか、話したこととかって、案外残るから」

 たぶん、深い意味なんてない。写真の話からそのまま出てきた言葉なのだろう。そうわかっているのに、春菜の胸の奥では、その一言がゆっくりと沈んでいった。沈んで、見えなくなるかわりに、ずっと底に残るみたいに。

「……はい」

 やっとそれだけ言う。

 早瀬は「じゃ、また朝に」とでも言うみたいに軽く手を上げて、入口の方へ歩いていった。

 春菜はしばらく、その坂の写真の前に立ったままだった。

 上りきらなくても、途中まで一緒なら覚えてる。

 文化祭の喧騒の中で交わされたはずの言葉が、まるで手紙みたいに春菜の中へ残っていく。返事を書けるわけでも、どこかへしまっておけるわけでもない。ただ、そのまま持って帰るしかない言葉だった。

 帰り道、特別棟の階段を下りながらも、春菜は何度もその一言を思い返した。

 あの人はたぶん忘れるように言ったのに、私は忘れないための言葉として受け取ってしまった。