坂の途中では、あんなに自然に話せるのに。
そのことに気づいたのは、火曜日の二時間目が終わって廊下に出たときだった。移動教室へ向かう生徒たちの流れの向こうに、早瀬の姿が見えた。制服の上に薄いグレーのカーディガンを羽織っていて、片手にはファイルを持っている。朝の坂で見るときと同じ人のはずなのに、校舎の中では少しだけ輪郭が違って見えた。
近くにいた男子が何か言って、早瀬が笑う。その横顔を、春菜は反射みたいに目で追ってしまう。
ふと、早瀬がこちらを見た。
一瞬だけ視線が合う。
春菜は思わず足を止めたが、早瀬は軽く目元をやわらげるだけで、すぐに友人たちとの会話へ戻っていった。朝のように立ち止まってくれるわけでも、何か話しかけてくれるわけでもない。それが当たり前だとわかっているのに、胸の奥に小さく何かが引っかかった。
「春菜、行かないの?」
後ろから梨央に肩を叩かれて、春菜ははっとする。
「あ、ごめん」
「ぼーっとしてた」
「ちょっとだけ」
梨央は、春菜の視線の先をちらりと見てから、ああ、という顔をした。けれど何も言わず、一緒に歩きだしてくれた。その気遣いがありがたい反面、見透かされたようで少し落ち着かない。
校舎の中では、朝の数分は続かない。
その事実を、春菜はその日から意識するようになった。
廊下ですれ違えば、早瀬はほんの少し笑う。会釈することもある。でも、それだけだ。友人と話しているときの早瀬は、坂道で隣を歩いてくれる人とは少し違う。別人というほどではない。ただ、春菜が入っていける場所ではないと思わされるだけだ。
自分たちのあの時間は、坂の上では終わるのだ。
そう考えると、朝に交わすたわいない会話まで、急に頼りなく思えてくる。
その日の放課後、春菜は図書室の返却棚の前で本を戻していた。静かな部屋の中では、ページをめくる音すらよく響く。返却票を挟み直していると、窓の外の中庭に見慣れた姿が見えた。
早瀬だった。
同じ三年生らしい女子生徒と、ベンチのそばで話している。相手はショートカットで、手に進路指導室の封筒を持っていた。早瀬が何か言うと、彼女は困ったように笑って、それから少し真面目な顔で頷いた。
ただ話しているだけだ。
たぶん進路のことだろう。そう思える材料はいくつもあった。それなのに春菜の胸は、理屈より先にざわついた。
自分は、あの人の何を知っているんだろう。
好きな飲み物が日によって違うこと。坂を「容赦ない」と言うこと。たまに歩幅を合わせてくれること。迷っていること。
でもそれだけだ。学校の中で誰と親しいのか、どんなふうに笑うのか、何に悩んで、誰にそれを話すのか。そういうことは、ほとんど何も知らない。
知らないのに、勝手に特別な気持ちになっていたのかもしれない。
その考えに、自分で少し傷つく。
翌朝、春菜はいつもより十五分早く家を出た。自分でも何をしているんだろうと思ったけれど、足は止まらなかった。早く出れば、坂の途中で早瀬と会わないですむかもしれない。たったそれだけのことだ。
朝の坂は、いつもより人が少なかった。空気はひんやりしていて、パンジーの花壇に落ちる影もまだ薄い。春菜はいつもより軽い足取りで上りはじめたが、半分ほどまで来たところで、胸の奥が妙にすうすうすることに気づいた。
――会わないんだ。
会わないようにしたのは自分なのに、その事実が思った以上にさびしい。
校門の前に着いても、誰かと少し笑ってから教室へ向かう朝にはならなかった。ただ時間どおりに着いただけだ。損をしたわけではないのに、何かを置いてきてしまった気がする。
その日の一時間目は英語だった。教科書の文字を追っていても、頭に入らない。ノートの端に書いた単語が少しだけゆがむ。春菜は小さく息をつき、自分に言い聞かせる。
たった朝の数分だ。
なくても困らない。なくても学校には行けるし、授業も受けられる。何も変わらない。
それなのに、変わらないはずの一日が、昨日までより少しだけ色を失って見える。
昼休み、梨央が牛乳パックを持ったまま春菜の机に腰を寄せた。
「今日、早かったね」
「うん」
「会わなかった?」
春菜は答えに詰まる。梨央はそれを見て、深くは聞かなかった。ただ、ストローをくわえたまま少しだけ目を細める。
「避けると、余計考えるやつだよ」
「……そうかも」
認めた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
避けたかったのは先輩じゃなくて、好きになってしまった自分の方だった。
そのことに気づいたのは、火曜日の二時間目が終わって廊下に出たときだった。移動教室へ向かう生徒たちの流れの向こうに、早瀬の姿が見えた。制服の上に薄いグレーのカーディガンを羽織っていて、片手にはファイルを持っている。朝の坂で見るときと同じ人のはずなのに、校舎の中では少しだけ輪郭が違って見えた。
近くにいた男子が何か言って、早瀬が笑う。その横顔を、春菜は反射みたいに目で追ってしまう。
ふと、早瀬がこちらを見た。
一瞬だけ視線が合う。
春菜は思わず足を止めたが、早瀬は軽く目元をやわらげるだけで、すぐに友人たちとの会話へ戻っていった。朝のように立ち止まってくれるわけでも、何か話しかけてくれるわけでもない。それが当たり前だとわかっているのに、胸の奥に小さく何かが引っかかった。
「春菜、行かないの?」
後ろから梨央に肩を叩かれて、春菜ははっとする。
「あ、ごめん」
「ぼーっとしてた」
「ちょっとだけ」
梨央は、春菜の視線の先をちらりと見てから、ああ、という顔をした。けれど何も言わず、一緒に歩きだしてくれた。その気遣いがありがたい反面、見透かされたようで少し落ち着かない。
校舎の中では、朝の数分は続かない。
その事実を、春菜はその日から意識するようになった。
廊下ですれ違えば、早瀬はほんの少し笑う。会釈することもある。でも、それだけだ。友人と話しているときの早瀬は、坂道で隣を歩いてくれる人とは少し違う。別人というほどではない。ただ、春菜が入っていける場所ではないと思わされるだけだ。
自分たちのあの時間は、坂の上では終わるのだ。
そう考えると、朝に交わすたわいない会話まで、急に頼りなく思えてくる。
その日の放課後、春菜は図書室の返却棚の前で本を戻していた。静かな部屋の中では、ページをめくる音すらよく響く。返却票を挟み直していると、窓の外の中庭に見慣れた姿が見えた。
早瀬だった。
同じ三年生らしい女子生徒と、ベンチのそばで話している。相手はショートカットで、手に進路指導室の封筒を持っていた。早瀬が何か言うと、彼女は困ったように笑って、それから少し真面目な顔で頷いた。
ただ話しているだけだ。
たぶん進路のことだろう。そう思える材料はいくつもあった。それなのに春菜の胸は、理屈より先にざわついた。
自分は、あの人の何を知っているんだろう。
好きな飲み物が日によって違うこと。坂を「容赦ない」と言うこと。たまに歩幅を合わせてくれること。迷っていること。
でもそれだけだ。学校の中で誰と親しいのか、どんなふうに笑うのか、何に悩んで、誰にそれを話すのか。そういうことは、ほとんど何も知らない。
知らないのに、勝手に特別な気持ちになっていたのかもしれない。
その考えに、自分で少し傷つく。
翌朝、春菜はいつもより十五分早く家を出た。自分でも何をしているんだろうと思ったけれど、足は止まらなかった。早く出れば、坂の途中で早瀬と会わないですむかもしれない。たったそれだけのことだ。
朝の坂は、いつもより人が少なかった。空気はひんやりしていて、パンジーの花壇に落ちる影もまだ薄い。春菜はいつもより軽い足取りで上りはじめたが、半分ほどまで来たところで、胸の奥が妙にすうすうすることに気づいた。
――会わないんだ。
会わないようにしたのは自分なのに、その事実が思った以上にさびしい。
校門の前に着いても、誰かと少し笑ってから教室へ向かう朝にはならなかった。ただ時間どおりに着いただけだ。損をしたわけではないのに、何かを置いてきてしまった気がする。
その日の一時間目は英語だった。教科書の文字を追っていても、頭に入らない。ノートの端に書いた単語が少しだけゆがむ。春菜は小さく息をつき、自分に言い聞かせる。
たった朝の数分だ。
なくても困らない。なくても学校には行けるし、授業も受けられる。何も変わらない。
それなのに、変わらないはずの一日が、昨日までより少しだけ色を失って見える。
昼休み、梨央が牛乳パックを持ったまま春菜の机に腰を寄せた。
「今日、早かったね」
「うん」
「会わなかった?」
春菜は答えに詰まる。梨央はそれを見て、深くは聞かなかった。ただ、ストローをくわえたまま少しだけ目を細める。
「避けると、余計考えるやつだよ」
「……そうかも」
認めた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
避けたかったのは先輩じゃなくて、好きになってしまった自分の方だった。



