昼休みの教室は、朝の坂とはまるで別の場所みたいににぎやかだった。
机を寄せてお弁当を広げるグループ、購買で買ったパンの袋を鳴らす音、窓際でスマホをのぞき込んで笑う声。春菜はいつものように自分の席で弁当箱のふたを開けたが、卵焼きをひとつ口に入れたところで、向かいの席からじっと見られていることに気づいた。
「……なに」
梨央は頬杖をついたまま、にやっと笑う。
「最近、朝だけ機嫌いいよね」
「そう?」
「そう。朝のホームルーム前、ちょっとだけ顔がやわらかい」
そんなところまで見られていたのかと思うと、春菜は箸を持つ手が止まった。梨央は昔からこういう変化に妙に敏い。
「別に、普通だよ」
「普通の人は“別に”って二回も言わないの」
言い返そうとして、ほんの少し遅れた。それだけで梨央は確信したらしい。身を乗り出してくる。
「いるんでしょ、朝だけ会う誰か」
「……どうしてそうなるの」
「勘」
「雑」
「じゃあ当てていい? 先輩」
春菜は危うく卵焼きを落としそうになった。梨央はさらに得意げになる。
「図星だ」
「声大きい」
「大丈夫、誰も聞いてないって」
聞いていないかもしれないけれど、春菜の耳には十分すぎるほど大きい。慌てて周囲を見回してから、声を潜めた。
「べつに、そういうんじゃないから」
「どういうの?」
「ただ、坂で会うだけ」
「それ、いちばん始まりそうなやつじゃん」
梨央はけろりと言う。春菜は箸で白米をつつきながら、言葉を探した。
ただ坂で会うだけ。本当に、それだけだ。名前を知って、少し話すようになって、会えた朝は少しうれしい。それだけなのに、梨央に言葉にされると、急に輪郭を持ちはじめる気がして落ち着かない。
「好きなんじゃないの」
さらりと言われて、春菜は顔を上げた。
好き。
その二文字は、教室のざわめきの中でも妙にはっきり聞こえた。春菜はすぐに首を振る。
「そんな簡単じゃないよ」
「簡単じゃない顔してるから言ってるの」
「意味わかんない」
「わかるよ。春菜、そういうときだけすごく真面目になるもん」
梨央は笑っておかずのミートボールを口に入れた。からかわれているのかと思ったけれど、目はそんなに軽くなかった。春菜は弁当箱に視線を落とす。
「相手、三年生だし」
「あ、やっぱり先輩なんだ」
「……今のはなし」
「はいはい」
もう何を言っても遅い。春菜は観念して、ぽつりぽつりと話した。毎朝、坂の途中で会うこと。雨の日に一緒に歩いたこと。定期入れを拾ってもらったこと。ミルクティーだったりコーヒーだったり、飲み物が毎日違うことまで口にしてしまってから、自分が思っている以上に早瀬のことを見ているのだと気づいてしまう。
梨央は最後まで聞いてから、うん、と一度だけ大きく頷いた。
「それ、もう好きだと思う」
「……だから、そう決めるの早いって」
「じゃあ春菜は、その先輩に会えない朝も平気?」
平気、とすぐには言えなかった。
言えないこと自体が答えみたいで、春菜は唇を閉じる。梨央はそれ以上は追い詰めなかった。ただ、小さく笑って言う。
「まあ、今決めなくてもいいけど。そういうのって、名前つけた瞬間に急にこわくなるしね」
その言い方に、春菜は少しだけ救われた。好きだと認めてしまったら、今の朝の数分まで壊れてしまいそうな気がしていたからだ。
午後の授業を終えて家に帰り、翌朝また坂を上る。梨央に言われたことが頭の隅に残っていて、春菜は自分の足音まで少し意識してしまった。
会えたら、どうしよう。
会えなくても、どうしよう。
そんなふうに考える朝に限って、早瀬はいつもどおり現れた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
少し声が上ずった気がして、春菜はすぐに前を向く。早瀬はそれに気づいた様子もなく、紙パックの野菜ジュースを軽く振った。
「今日は眠そうだね」
「昨日ちょっと、寝るの遅くて」
「課題?」
「いえ、友達と話してて」
「楽しそうでいいね」
何気ない返事なのに、春菜はなぜだか胸がきゅっとなった。昨夜話していた“友達”の内容が、目の前の人自身だったからだろうか。
二人で坂を上る。朝の光は昨日よりやわらかく、道の端に残った桜の花びらが、踏まれるたびに靴先に貼りついた。
少しして、早瀬がぽつりと言った。
「進路、決めた?」
「え?」
「二年だとまだ先か。でも、そろそろ考えろって言われない?」
「あ……はい、言われます」
春菜は苦笑した。面談だの希望調査だの、最近そういう紙ばかり配られている気がする。
「でも、まだ全然です。なんとなく、ばっかりで」
「そっか」
早瀬は頷いて、それから少し黙った。珍しく、言葉を探している沈黙だった。
「俺も、まだ決めきれてなくて」
その横顔を、春菜はそっと見た。
「先輩でも、そういうことあるんですね」
「あるよ。むしろ三年の方があるかも」
早瀬は笑ったけれど、その笑いは少しだけ薄かった。
「県外に出たい気持ちもあるし、残った方がいいのかなって思うこともあるし」
「残った方がいいって?」
「家のこと、ちょっとね」
そこで言葉を止めたから、詳しくは聞けなかった。けれど、聞かない方がいい種類の“ちょっと”があることくらい、春菜にもわかる。
早瀬は坂の上を見ながら続けた。
「ちゃんと決めた人って、強く見えるよね」
それは誰に向けた言葉でもないようで、でもたぶん自分自身にいちばん向いていた。春菜は、初めて早瀬の中にある迷いを見た気がした。
毎朝、少し余裕があって、やわらかく笑って、何でもうまく受け流せる人だと思っていた。そういうふうに見える人にも、決めきれないことや、誰にも見せない揺れがあるのだと知った瞬間、春菜の中で何かが静かに変わった。
ただ憧れていたのとは違う。
近づきたいと思ってしまう。
「先輩は、もう十分強そうです」
気づけば、そう言っていた。早瀬が少し目を丸くする。
「そう見える?」
「見えます」
「じゃあ、得してるな」
くすっと笑うその顔に、春菜もつられて笑った。でも心の奥では、さっきの言葉がずっと残っていた。
ちゃんと決めた人って、強く見える。
自分はどうだろう。何かを決められる人間だろうか。もしこの気持ちに名前をつける日が来たら、自分はちゃんと向き合えるのだろうか。
校門の手前、いつもの“別れ道”が近づく。
「じゃ、また」
「はい、また」
それだけのやりとりで離れていくのに、その背中を見送る時間だけが少し長い。
名前を知った日より、その人が迷う人だと知った日の方が、ずっと心に残った。
机を寄せてお弁当を広げるグループ、購買で買ったパンの袋を鳴らす音、窓際でスマホをのぞき込んで笑う声。春菜はいつものように自分の席で弁当箱のふたを開けたが、卵焼きをひとつ口に入れたところで、向かいの席からじっと見られていることに気づいた。
「……なに」
梨央は頬杖をついたまま、にやっと笑う。
「最近、朝だけ機嫌いいよね」
「そう?」
「そう。朝のホームルーム前、ちょっとだけ顔がやわらかい」
そんなところまで見られていたのかと思うと、春菜は箸を持つ手が止まった。梨央は昔からこういう変化に妙に敏い。
「別に、普通だよ」
「普通の人は“別に”って二回も言わないの」
言い返そうとして、ほんの少し遅れた。それだけで梨央は確信したらしい。身を乗り出してくる。
「いるんでしょ、朝だけ会う誰か」
「……どうしてそうなるの」
「勘」
「雑」
「じゃあ当てていい? 先輩」
春菜は危うく卵焼きを落としそうになった。梨央はさらに得意げになる。
「図星だ」
「声大きい」
「大丈夫、誰も聞いてないって」
聞いていないかもしれないけれど、春菜の耳には十分すぎるほど大きい。慌てて周囲を見回してから、声を潜めた。
「べつに、そういうんじゃないから」
「どういうの?」
「ただ、坂で会うだけ」
「それ、いちばん始まりそうなやつじゃん」
梨央はけろりと言う。春菜は箸で白米をつつきながら、言葉を探した。
ただ坂で会うだけ。本当に、それだけだ。名前を知って、少し話すようになって、会えた朝は少しうれしい。それだけなのに、梨央に言葉にされると、急に輪郭を持ちはじめる気がして落ち着かない。
「好きなんじゃないの」
さらりと言われて、春菜は顔を上げた。
好き。
その二文字は、教室のざわめきの中でも妙にはっきり聞こえた。春菜はすぐに首を振る。
「そんな簡単じゃないよ」
「簡単じゃない顔してるから言ってるの」
「意味わかんない」
「わかるよ。春菜、そういうときだけすごく真面目になるもん」
梨央は笑っておかずのミートボールを口に入れた。からかわれているのかと思ったけれど、目はそんなに軽くなかった。春菜は弁当箱に視線を落とす。
「相手、三年生だし」
「あ、やっぱり先輩なんだ」
「……今のはなし」
「はいはい」
もう何を言っても遅い。春菜は観念して、ぽつりぽつりと話した。毎朝、坂の途中で会うこと。雨の日に一緒に歩いたこと。定期入れを拾ってもらったこと。ミルクティーだったりコーヒーだったり、飲み物が毎日違うことまで口にしてしまってから、自分が思っている以上に早瀬のことを見ているのだと気づいてしまう。
梨央は最後まで聞いてから、うん、と一度だけ大きく頷いた。
「それ、もう好きだと思う」
「……だから、そう決めるの早いって」
「じゃあ春菜は、その先輩に会えない朝も平気?」
平気、とすぐには言えなかった。
言えないこと自体が答えみたいで、春菜は唇を閉じる。梨央はそれ以上は追い詰めなかった。ただ、小さく笑って言う。
「まあ、今決めなくてもいいけど。そういうのって、名前つけた瞬間に急にこわくなるしね」
その言い方に、春菜は少しだけ救われた。好きだと認めてしまったら、今の朝の数分まで壊れてしまいそうな気がしていたからだ。
午後の授業を終えて家に帰り、翌朝また坂を上る。梨央に言われたことが頭の隅に残っていて、春菜は自分の足音まで少し意識してしまった。
会えたら、どうしよう。
会えなくても、どうしよう。
そんなふうに考える朝に限って、早瀬はいつもどおり現れた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
少し声が上ずった気がして、春菜はすぐに前を向く。早瀬はそれに気づいた様子もなく、紙パックの野菜ジュースを軽く振った。
「今日は眠そうだね」
「昨日ちょっと、寝るの遅くて」
「課題?」
「いえ、友達と話してて」
「楽しそうでいいね」
何気ない返事なのに、春菜はなぜだか胸がきゅっとなった。昨夜話していた“友達”の内容が、目の前の人自身だったからだろうか。
二人で坂を上る。朝の光は昨日よりやわらかく、道の端に残った桜の花びらが、踏まれるたびに靴先に貼りついた。
少しして、早瀬がぽつりと言った。
「進路、決めた?」
「え?」
「二年だとまだ先か。でも、そろそろ考えろって言われない?」
「あ……はい、言われます」
春菜は苦笑した。面談だの希望調査だの、最近そういう紙ばかり配られている気がする。
「でも、まだ全然です。なんとなく、ばっかりで」
「そっか」
早瀬は頷いて、それから少し黙った。珍しく、言葉を探している沈黙だった。
「俺も、まだ決めきれてなくて」
その横顔を、春菜はそっと見た。
「先輩でも、そういうことあるんですね」
「あるよ。むしろ三年の方があるかも」
早瀬は笑ったけれど、その笑いは少しだけ薄かった。
「県外に出たい気持ちもあるし、残った方がいいのかなって思うこともあるし」
「残った方がいいって?」
「家のこと、ちょっとね」
そこで言葉を止めたから、詳しくは聞けなかった。けれど、聞かない方がいい種類の“ちょっと”があることくらい、春菜にもわかる。
早瀬は坂の上を見ながら続けた。
「ちゃんと決めた人って、強く見えるよね」
それは誰に向けた言葉でもないようで、でもたぶん自分自身にいちばん向いていた。春菜は、初めて早瀬の中にある迷いを見た気がした。
毎朝、少し余裕があって、やわらかく笑って、何でもうまく受け流せる人だと思っていた。そういうふうに見える人にも、決めきれないことや、誰にも見せない揺れがあるのだと知った瞬間、春菜の中で何かが静かに変わった。
ただ憧れていたのとは違う。
近づきたいと思ってしまう。
「先輩は、もう十分強そうです」
気づけば、そう言っていた。早瀬が少し目を丸くする。
「そう見える?」
「見えます」
「じゃあ、得してるな」
くすっと笑うその顔に、春菜もつられて笑った。でも心の奥では、さっきの言葉がずっと残っていた。
ちゃんと決めた人って、強く見える。
自分はどうだろう。何かを決められる人間だろうか。もしこの気持ちに名前をつける日が来たら、自分はちゃんと向き合えるのだろうか。
校門の手前、いつもの“別れ道”が近づく。
「じゃ、また」
「はい、また」
それだけのやりとりで離れていくのに、その背中を見送る時間だけが少し長い。
名前を知った日より、その人が迷う人だと知った日の方が、ずっと心に残った。



