坂の途中の春みたいな恋だった

 雨上がりの朝だった。

 夜のうちに降った雨はもう止んでいたが、坂道にはまだ細い水の筋が残っていて、アスファルトの色だけがところどころ濃い。空は明るいのに、風は少し湿っていた。春菜は足元を見ながら、いつもより慎重に坂を上っていた。

 濡れた道は苦手だ。急げば滑りそうだし、ゆっくり歩けば靴下の中までじめっとしてくる。しかも今日は一時間目から移動教室で、遅れたくない。そんなことを考えながら歩いていたせいか、坂の途中の少し傾いた場所で、ローファーの底がつるりと滑った。

「わっ」

 声が漏れたときには、体が前に倒れかけていた。

「大丈夫?」

 すぐ近くから声がして、春菜はとっさに顔を上げた。

 早瀬がいた。今日は紙パックではなく、コンビニの小さなコーヒーカップを持っている。片手を伸ばしかけて、それでも触れるほどではない距離で止めているところが、かえってこの人らしいと思った。

「だ、大丈夫です」

 そう答えたものの、少し恥ずかしくて耳が熱い。転ばなかったのはよかったけれど、たぶんかなり情けない顔をしていた。

 早瀬は坂道を見下ろして、少し眉を寄せた。

「今日、危ないよね。このへん、特に滑る」

「はい……朝から試されてる気分です」

 言ってから、変なことを言ったかもしれないと思った。けれど、早瀬は吹き出すように笑った。

「わかる。雨の日だけ難易度上がるんだよ、この坂」

 春菜もつられて笑う。たったそれだけで、足元の気まずさが少しほどけた。

「先輩は慣れてるんですか」

「いや、三年間で慣れたと思ってたけど、今日みたいな日は普通に嫌だな」

 そう言って、早瀬は持っていたコーヒーのふたを指で軽く押した。白いシャツの袖口が少しだけ湿っている。春菜は、先輩も自分と同じように、ただ朝の坂を面倒だと思うことがあるのだと知って、少しだけうれしくなった。

 二人は自然に並んで歩き出した。

 とはいっても、ぴったり横に並ぶというほど近くはない。傘がいらない日の余白みたいな距離を空けて、それでも一緒に歩いているとわかるくらいの近さだった。

 坂の上から、自転車を押した生徒が一人下りてくる。春菜たちは少し端に寄って道をあけた。そういう小さな間をはさみながらも、会話は途切れなかった。

「春菜ちゃん、一年?」

 不意にそう聞かれて、春菜は目を瞬いた。名前を呼ばれたわけではない。たぶん、定期入れを拾ってくれたときに見えたのだろう。それでも、自分の名字ではなく下の名前の響きだけを心の中で意識してしまう。

「二年です」

「そっか。落ち着いてるから、そうかなとは思った」

「落ち着いてる、ですか」

 たぶん初めて言われた。地味とか、まじめそうとか、おとなしい、なら言われたことがある。でも、落ち着いている、は少し違う。

 早瀬は「うん」と頷いた。

「朝、いつも急いでない感じがする」

 その言葉に春菜は苦笑した。

「本当は毎日ぎりぎりです」

「見えない」

「心の中では走ってます」

 また笑われる。笑われているのに、嫌ではなかった。むしろ、笑ってもらえることがうれしいなんて、自分でも少し不思議だった。

 しばらくして、早瀬が空を見上げる。

「でも、今日は晴れてよかった」

 つられて春菜も見上げた。雲はまだ薄く残っていたけれど、切れ間から朝の青がのぞいている。

「先輩、雨あんまり好きじゃないんですか」

「嫌いってほどじゃないけど、朝の雨はね。出るまでが面倒」

「わかります」

「それに坂もあるし」

「結局、そこなんですね」

「結局そこ」

 短いやりとりが、妙に楽しい。

 春菜は、早瀬が特別おしゃべりな人ではないと気づきはじめていた。自分から話をどんどん広げるわけではない。でも、相手が投げた言葉をちゃんと受け取って、それを少しやわらかく返してくれる。だから話しやすいのだ。

 校門が見えてくる。いつもなら、ここから少し気持ちを切り替えなければならない場所だ。けれど今日は、その手前までの道のりがあっという間だった。

 早瀬は校門より少し前で足を止めた。

「じゃ、俺こっちだから」

 言われて春菜ははっとする。校舎は同じでも、昇降口へ向かう流れが少し違うのだろう。今までただすれ違うだけだったから、その先のことを考えたことがなかった。

「あ、はい」

 もっと何か言いたかったのに、うまく見つからない。

 早瀬はコーヒーカップを持ち直して、軽く顎を上げた。

「今日も合格ってことで」

「え?」

「坂。転ばなかったし」

 春菜は一拍遅れて意味を理解し、思わず笑った。

「じゃあ、先輩も合格ですね」

「ぎりぎりで」

 それだけ言って、早瀬は人の流れの中へ自然にまぎれていった。

 春菜はその背中を見送ってから、自分も校門へ向かう。さっきまで濡れて重たく見えた坂道が、今は少しだけ明るいものに思えた。

 その日以来、会えた朝には、ほんの少しだけ話すようになった。

 昨日の小テストが難しかったこと。購買の焼きそばパンはすぐなくなること。眠くて一時間目がつらいこと。会話はどれも小さくて、放っておけば昼には忘れてしまいそうなものばかりだった。

 それでも春菜にとっては、その数分が少しずつ一日の真ん中になっていった。

 会えない朝もあった。そういう日は、何も起きていないはずなのに、坂を上る時間だけがやけに長く感じた。逆に会えた朝は、校門までが近い。どうしてだろうと思う。

 早瀬は、ときどき歩幅をゆるめる。春菜が急いで歩かなくてもいい速さに、さりげなく合わせてくれているのだと気づいたのは、何日か経ってからだった。

 でも、どんな朝でも一緒に歩けるのは途中までだ。

 校門が見える少し手前、春菜の中で勝手に“別れ道”と呼びはじめた場所まで来ると、早瀬はいつも「じゃ、また」と言って離れていく。

 朝の数分だけ近くて、その先では別々になる。

 それが当たり前のことなのに、春菜はそのたび、残りの坂をひとりで上る足取りが少しだけ重くなるのを知ってしまった。

 一緒に歩いたのはほんの数分なのに、そのあとの坂は、ひとりで上る方がずっと長かった。