四月の朝は、まだ少しだけ空気が冷たい。春菜は肩から提げた鞄の紐を握り直し、家を出たときよりもひとつ深く息を吸って、学校へ続く坂道の下に立った。
見上げるたびに思う。長い。
まっすぐ上へ伸びたその坂は、朝日に照らされるとやけに白っぽく見えて、途中で何度か立ち止まりたくなる。入学したころは、この坂を毎日上るだけで高校生になった気がしたのに、二年生になった今ではただの通学路だ。急げば息が切れるし、のんびり歩けば遅刻しそうになる。春菜にとっては、少しだけ憂うつな朝のはじまりだった。
住宅街を抜けてきた風が、制服のスカートをふわりと揺らす。坂の脇の花壇には、誰かが植えたらしいパンジーが並び、色とりどりなのに、朝の光の中ではどこか眠たそうに見えた。
春菜は一歩を踏み出す。
坂の途中まで来るころには、いつも少しだけ足が重くなる。今日の一時間目は古典だった。小テストがあるかもしれない。昨夜、教科書を開いたまま寝てしまったことを思い出して、春菜は小さくため息をつく。
そのとき、上の方から足音がした。
一定の速さで下りてくる、迷いのない足音。春菜はなんとなく顔を上げた。
白いシャツの袖を少しまくった男子生徒が、片手に紙パックのミルクティーを持って坂を下りてくるところだった。ネクタイはゆるすぎず、きっちりしすぎてもいない。急いでいるようには見えないのに、歩き方には無駄がない。不思議と目に留まる人だった。
春菜はとっさに視線を逸らした。
知らない先輩だ、たぶん。
すれ違うほんの数秒、ミルクティーの甘い匂いがした気がした。相手が春菜を見たかどうかもわからない。けれど、その人が通り過ぎたあと、春菜はなぜか一度だけ振り返ってしまった。
先輩はもう坂を半分ほど下りたところにいて、朝の光の中に背中だけが浮かんで見えた。
それが最初だった。
翌朝も、その次の朝も、春菜は同じ坂の途中でその先輩とすれ違った。毎日きっちり同じ時刻ではない。春菜が少し遅く家を出た日は坂の上のほうで、少し早く出た日は真ん中より下で会う。けれど、不思議なくらい会わない日はなかった。
顔を合わせるわけでも、話すわけでもない。ただすれ違うだけ。
それなのに春菜は、坂を上りながら、今日は会うだろうかと少しだけ考えるようになっていた。会えたから何かあるわけではない。たったそれだけのことなのに、会えた朝は、なんとなく一日がちゃんと始まる気がした。
自分でも変だと思う。
でも、変だと思うことほど、誰にも言えない。
その日も、春菜はいつものように坂を上っていた。朝の光はやわらかかったが、風が少し強い。鞄の外ポケットに入れていた定期入れを出そうとして、指先がつるりと滑った。
「あっ」
青い定期入れが手から離れ、アスファルトの上に落ちる。坂道だから、そのままころころと下へ転がっていく。
春菜は慌てて追いかけようとしたが、先に伸びた手がそれを拾い上げた。
「はい」
顔を上げると、あの先輩がいた。
近くで見ると、思っていたより少しだけ大人っぽい顔をしていた。まぶしそうに目を細めながら、拾った定期入れを春菜へ差し出している。
「す、すみません。ありがとうございます」
春菜が両手で受け取ると、先輩はふっと口元をゆるめた。
「坂の下まで転がらなくてよかったね」
からかうでもなく、ただ本当にそう思ったみたいな言い方だった。
春菜は思わず笑ってしまう。
「ほんとに……危なかったです」
「この坂、容赦ないから」
そう言って、先輩は手にしたミルクティーを少し持ち直した。春菜は何かもう一言言おうとして、でも何を言えばいいのかわからず、結局ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うん。気をつけて」
それだけ言って、先輩はまた坂を下りていく。
春菜はその背中を見送ってから、胸のあたりをそっと押さえた。たった一言二言しか話していないのに、さっきまでより風景が少しだけ明るくなった気がする。
返してもらった定期入れを鞄にしまいながら、ふと視線が先輩の胸元に落ちた。離れていく背中に揺れる名札の文字が、ほんの一瞬だけ読める。
――早瀬。
心の中でその名前をそっと繰り返す。
その日から春菜は、坂を上る前に、少しだけ上を見上げるようになった。
見上げるたびに思う。長い。
まっすぐ上へ伸びたその坂は、朝日に照らされるとやけに白っぽく見えて、途中で何度か立ち止まりたくなる。入学したころは、この坂を毎日上るだけで高校生になった気がしたのに、二年生になった今ではただの通学路だ。急げば息が切れるし、のんびり歩けば遅刻しそうになる。春菜にとっては、少しだけ憂うつな朝のはじまりだった。
住宅街を抜けてきた風が、制服のスカートをふわりと揺らす。坂の脇の花壇には、誰かが植えたらしいパンジーが並び、色とりどりなのに、朝の光の中ではどこか眠たそうに見えた。
春菜は一歩を踏み出す。
坂の途中まで来るころには、いつも少しだけ足が重くなる。今日の一時間目は古典だった。小テストがあるかもしれない。昨夜、教科書を開いたまま寝てしまったことを思い出して、春菜は小さくため息をつく。
そのとき、上の方から足音がした。
一定の速さで下りてくる、迷いのない足音。春菜はなんとなく顔を上げた。
白いシャツの袖を少しまくった男子生徒が、片手に紙パックのミルクティーを持って坂を下りてくるところだった。ネクタイはゆるすぎず、きっちりしすぎてもいない。急いでいるようには見えないのに、歩き方には無駄がない。不思議と目に留まる人だった。
春菜はとっさに視線を逸らした。
知らない先輩だ、たぶん。
すれ違うほんの数秒、ミルクティーの甘い匂いがした気がした。相手が春菜を見たかどうかもわからない。けれど、その人が通り過ぎたあと、春菜はなぜか一度だけ振り返ってしまった。
先輩はもう坂を半分ほど下りたところにいて、朝の光の中に背中だけが浮かんで見えた。
それが最初だった。
翌朝も、その次の朝も、春菜は同じ坂の途中でその先輩とすれ違った。毎日きっちり同じ時刻ではない。春菜が少し遅く家を出た日は坂の上のほうで、少し早く出た日は真ん中より下で会う。けれど、不思議なくらい会わない日はなかった。
顔を合わせるわけでも、話すわけでもない。ただすれ違うだけ。
それなのに春菜は、坂を上りながら、今日は会うだろうかと少しだけ考えるようになっていた。会えたから何かあるわけではない。たったそれだけのことなのに、会えた朝は、なんとなく一日がちゃんと始まる気がした。
自分でも変だと思う。
でも、変だと思うことほど、誰にも言えない。
その日も、春菜はいつものように坂を上っていた。朝の光はやわらかかったが、風が少し強い。鞄の外ポケットに入れていた定期入れを出そうとして、指先がつるりと滑った。
「あっ」
青い定期入れが手から離れ、アスファルトの上に落ちる。坂道だから、そのままころころと下へ転がっていく。
春菜は慌てて追いかけようとしたが、先に伸びた手がそれを拾い上げた。
「はい」
顔を上げると、あの先輩がいた。
近くで見ると、思っていたより少しだけ大人っぽい顔をしていた。まぶしそうに目を細めながら、拾った定期入れを春菜へ差し出している。
「す、すみません。ありがとうございます」
春菜が両手で受け取ると、先輩はふっと口元をゆるめた。
「坂の下まで転がらなくてよかったね」
からかうでもなく、ただ本当にそう思ったみたいな言い方だった。
春菜は思わず笑ってしまう。
「ほんとに……危なかったです」
「この坂、容赦ないから」
そう言って、先輩は手にしたミルクティーを少し持ち直した。春菜は何かもう一言言おうとして、でも何を言えばいいのかわからず、結局ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うん。気をつけて」
それだけ言って、先輩はまた坂を下りていく。
春菜はその背中を見送ってから、胸のあたりをそっと押さえた。たった一言二言しか話していないのに、さっきまでより風景が少しだけ明るくなった気がする。
返してもらった定期入れを鞄にしまいながら、ふと視線が先輩の胸元に落ちた。離れていく背中に揺れる名札の文字が、ほんの一瞬だけ読める。
――早瀬。
心の中でその名前をそっと繰り返す。
その日から春菜は、坂を上る前に、少しだけ上を見上げるようになった。



