その日の帰り道。雨が降り出したからと車で迎えに来てくれたお母さんに、開口一番、図星を指された。
「何かいいことあったの?」
「……え、そう見える?」
「ニコニコしながら校門から歩いてくるから。そうとしか思えないんですけど?」
私は昔から、嬉しいことも悲しいこともすぐに顔に出てしまう。
シートベルトを締めたあと、お母さんにだけはこの「特別」を分かち合いたくて、私は鞄からそっとハンカチを取り出した。少しだけ誇らしげな気持ちを隠しきれないまま、制服のプリーツスカートの上に広げて見せる。
「見て、これ。すっごい可愛いでしょ」
「あら、どうしたの? プレゼント?」
頷く私の横顔を、ハンドルを回しながらお母さんがチラリと盗み見る。それから前を向き直し、どこか遠い記憶を辿るような、懐かしそうな声で言った。
「男の子にもらったんでしょ、それ」
母親の勘というやつだろうか。十六年も私を育てた人に、隠し事なんてできないのかもしれない。短く照れて頷き返すと、お母さんは「よかったじゃない。どんな子なの?」と、興味深そうに先を促した。
「うーんとね……」
その問いに、真っ先に浮かんだのは周くんの顔だった。正確に言えば、顔そのものというより、彼が左側に宿しているあの「痣」の印象が、何よりも強く脳裏に焼き付いていた。
言うべきか、言わざるべきか。一瞬迷ったけれど、お母さんには素直に話したくなった。どこか答えを求めるような、救いを求めるような、そんな心細さが、そっと私の背中を押したのだ。
「……同じクラスの、隣の席の男の子なんだけどね。苗字も同じ佐藤くんで、周って書いてシュウって読むの」
「へぇ、同じ佐藤さんなの」
「そうなの。それで、好きな作家さんが同じで本を貸してくれたりして……。あとね、顔の、ここのところに……大きな痣があって」
それまで穏やかに相槌を打っていたお母さんが、私の「痣」という言葉と重なるように、赤信号で車を止めた。
不自然なほどの沈黙が車内に流れる。私はその空白を埋めるように、彼の痣について、見たままを詳しく話し続けた。
「目の周りから、こう……耳のところまで。たぶん、生まれつきなんだと思う。グレーに近い色っていうか……」
仲良くなってからも、周くん本人に、直接その理由を尋ねたことは一度もなかった。聞いたら彼が嫌な気持ちになるんじゃないかとか、あるいは「痣を気にしている一人」として彼に自分をカウントされてしまうのが怖かった。
私はあなたの痣なんてこれっぽっちも気にしていませんよという、物分かりの良い女子としての対応をして見せたい。そんな子供じみたプライドが自分の中にあることに気づいて、ときどき自分がひどく嫌な人間に思えることもあった。
――雨粒が窓を叩く音だけが響く車内。母ゆっくりとウィンカーを出し、慎重にハンドルを切る。ワイパーが雨を払う規則的な音が続いて、母は前を見据えたまま、私に教えを説くように言葉を繋いだ。
「そういうものを持って生まれてきた子はね、普通に生きているだけで、きっと人の何倍も傷ついてきている。私たちが想像もできないような視線を浴びて、そのたびに心にバリアを張るって、本当に大変なことだと、お母さんは思うのよ」
ふっと、母の横顔が柔らかくなった。
「だからね、彼があなたにそんな風に素敵な贈り物をくれたっていうのは、本当にすごいことじゃない? 彼なりの理由があって、あなたを心の内側に入れることに決めたのよ」
母の言葉の一つひとつが、雨粒のように私の心に染み込んでいく。彼は私が思うよりも、もっと深いところで、私という人間を真っ直ぐに見つめてくれていたのかもしれない。
ハンカチをもらって浮かれきっていた私は、彼の好意のさらに奥底にある覚悟にまで思い至らなかった。その浅はかさが、猛烈に恥ずかしくなった。
「杏奈。彼がどんな思いでその手を伸ばしてくれたのか。それをちゃんと考えられる女の子でいなさいね」
母に諭され、私は膝の上のハンカチをそっと畳み直した。
これを手渡してくれた彼に、私は何を「お返し」できるんだろう。彼は、私の何をみて、どう思って、これを選んだんだろう。またしても、答えの出ない問いが、静かに胸の底へ沈んでいく。
ただ舞い上がるだけではいけない、と思った。
好きだという気持ちよりも先に、もっと大切に扱わなければならないものが、この手の中にある気がした。かすみ草の刺繍に指先でそっと触れながら、私はそれが何なのか、まだうまく言葉にできないままでいた。
「何かいいことあったの?」
「……え、そう見える?」
「ニコニコしながら校門から歩いてくるから。そうとしか思えないんですけど?」
私は昔から、嬉しいことも悲しいこともすぐに顔に出てしまう。
シートベルトを締めたあと、お母さんにだけはこの「特別」を分かち合いたくて、私は鞄からそっとハンカチを取り出した。少しだけ誇らしげな気持ちを隠しきれないまま、制服のプリーツスカートの上に広げて見せる。
「見て、これ。すっごい可愛いでしょ」
「あら、どうしたの? プレゼント?」
頷く私の横顔を、ハンドルを回しながらお母さんがチラリと盗み見る。それから前を向き直し、どこか遠い記憶を辿るような、懐かしそうな声で言った。
「男の子にもらったんでしょ、それ」
母親の勘というやつだろうか。十六年も私を育てた人に、隠し事なんてできないのかもしれない。短く照れて頷き返すと、お母さんは「よかったじゃない。どんな子なの?」と、興味深そうに先を促した。
「うーんとね……」
その問いに、真っ先に浮かんだのは周くんの顔だった。正確に言えば、顔そのものというより、彼が左側に宿しているあの「痣」の印象が、何よりも強く脳裏に焼き付いていた。
言うべきか、言わざるべきか。一瞬迷ったけれど、お母さんには素直に話したくなった。どこか答えを求めるような、救いを求めるような、そんな心細さが、そっと私の背中を押したのだ。
「……同じクラスの、隣の席の男の子なんだけどね。苗字も同じ佐藤くんで、周って書いてシュウって読むの」
「へぇ、同じ佐藤さんなの」
「そうなの。それで、好きな作家さんが同じで本を貸してくれたりして……。あとね、顔の、ここのところに……大きな痣があって」
それまで穏やかに相槌を打っていたお母さんが、私の「痣」という言葉と重なるように、赤信号で車を止めた。
不自然なほどの沈黙が車内に流れる。私はその空白を埋めるように、彼の痣について、見たままを詳しく話し続けた。
「目の周りから、こう……耳のところまで。たぶん、生まれつきなんだと思う。グレーに近い色っていうか……」
仲良くなってからも、周くん本人に、直接その理由を尋ねたことは一度もなかった。聞いたら彼が嫌な気持ちになるんじゃないかとか、あるいは「痣を気にしている一人」として彼に自分をカウントされてしまうのが怖かった。
私はあなたの痣なんてこれっぽっちも気にしていませんよという、物分かりの良い女子としての対応をして見せたい。そんな子供じみたプライドが自分の中にあることに気づいて、ときどき自分がひどく嫌な人間に思えることもあった。
――雨粒が窓を叩く音だけが響く車内。母ゆっくりとウィンカーを出し、慎重にハンドルを切る。ワイパーが雨を払う規則的な音が続いて、母は前を見据えたまま、私に教えを説くように言葉を繋いだ。
「そういうものを持って生まれてきた子はね、普通に生きているだけで、きっと人の何倍も傷ついてきている。私たちが想像もできないような視線を浴びて、そのたびに心にバリアを張るって、本当に大変なことだと、お母さんは思うのよ」
ふっと、母の横顔が柔らかくなった。
「だからね、彼があなたにそんな風に素敵な贈り物をくれたっていうのは、本当にすごいことじゃない? 彼なりの理由があって、あなたを心の内側に入れることに決めたのよ」
母の言葉の一つひとつが、雨粒のように私の心に染み込んでいく。彼は私が思うよりも、もっと深いところで、私という人間を真っ直ぐに見つめてくれていたのかもしれない。
ハンカチをもらって浮かれきっていた私は、彼の好意のさらに奥底にある覚悟にまで思い至らなかった。その浅はかさが、猛烈に恥ずかしくなった。
「杏奈。彼がどんな思いでその手を伸ばしてくれたのか。それをちゃんと考えられる女の子でいなさいね」
母に諭され、私は膝の上のハンカチをそっと畳み直した。
これを手渡してくれた彼に、私は何を「お返し」できるんだろう。彼は、私の何をみて、どう思って、これを選んだんだろう。またしても、答えの出ない問いが、静かに胸の底へ沈んでいく。
ただ舞い上がるだけではいけない、と思った。
好きだという気持ちよりも先に、もっと大切に扱わなければならないものが、この手の中にある気がした。かすみ草の刺繍に指先でそっと触れながら、私はそれが何なのか、まだうまく言葉にできないままでいた。



