昼休みの委員の時間を、ちょっとだけ楽しみにしている自分がいた。
「好き」というはっきりとした確信があるわけじゃない。けれど、男の子と喋るという特別感や、教室では人を寄せ付けない佐藤くんが、私にだけは趣味を通じて自然体を見せてくれることが、たまらなく嬉しかった。
もっと喋りたい。そう願ったのは、紛れもない私の本心だった。
それと同時に、ふとした疑問が頭をかすめる。
彼はどうして私にだけ、こんな一面を見せてくれているんだろう。
クラスの誰も知らない彼の素顔。私だけが共有している、秘密のような放課後の空気。
自分がほんの少しだけ「特別」になったような気がして、私の心は静かに右隣の彼に傾いていた。
「去年、シリーズの一作目がアニメ化したじゃん? どうなんだろうなーって思ってたけど、俺が思ってたイメージといい意味で違ってさ。映像が綺麗すぎて驚いた」
「わかる! すっごい絵が綺麗だし、あの独特な空気感も小説のイメージそのままだよね」
私たちの会話の中心には、いつも『北見司』がいた。話題は作品から派生して、去年放送されたアニメの演出や主題歌にまで広がっていく。エンディング曲がお気に入りで、彼はそのアーティストのアルバムまで買ったらしい。彼の熱量に少しでも追いつきたくて、自分の感想を私も熱く語った。
「……ていうか、ずっと感じてたこと言ってもいい?」
ふいに、彼が真面目な顔をして私を見た。
「うん、なに?」
「俺も佐藤で、佐藤さんも同じ名字じゃん。……名前で呼び合わない?」
「あー……それ、私も実はずっと変な感じがしてて」
「だよな。自分の名前を呼んでるみたいで、なんか落ち着かないっていうか」
「わかるわかる。いいよ、杏奈で」
同じ「佐藤さん」。確かに違和感がありまくりで、いつか名前で呼び合えたらいいなと密かに悩んでいたから、彼の方から切り出してくれて心の底からホッとした。
彼は少し照れくさそうに頬を掻くと、丸椅子を身体ごと小さく左右に揺らす。
「……俺も、周でいいよ」
周くん。佐藤周くん。
その響きを噛みしめるように、心の中で何度も繰り返す。
お互いに少しだけ、気恥ずかしい沈黙が流れた。そこに予鈴が響き渡る。「貸出時間外です」のプレートを掛ける私の手元を、彼はじっと見つめていた。
「来週には一冊読み終わりそうだから、返すね」
「ああ、一気に纏めてでもいいよ。俺、チャリ通だし」
私たちは一緒にカウンターを抜けて、図書室を後にした。
「うん、知ってる。周くんがすごいスピードで自転車漕いでるの、校門で見かけたから」
「……え? なにそれ。俺、見られてたの?」
階段を下り、教室へと向かう途中、初めて読んだ彼の名前。彼は少しだけいつもより照れたような表情を浮かべていた気がする。
「そりゃあ、見るというか。見ちゃうよ。私のアシスト自転車より速いし」
「俺、元々は陸上部だったから。脚は結構鍛えてたんだ」
少し離れつつも、一緒に歩く。踊り場まで来ると、廊下を走っていた数人の男子たちが私たちの姿を見るなり、一斉に足を止めた。
(うわ、すっごいこっち見てる……)
嫌な予感がして、手すりを握る左手に力がこもる。私の一歩先をスタスタと降りていく周くんに向かって、野球部の男子がニヤニヤと笑い、隣友達の肩を叩いた。
「なぁ。アイツらって付き合ってんの?」
「なに? どこに居んの?」
「ほら、あそこ。四組のさ……顔にでけー痣あるやつ。隣の女子は誰か知らねえ」
囃し立てるような、不躾な声。私が思わずムッとした顔になっても、周くんは我関せずで、平然とした顔で彼らの前を通り過ぎていく。
「おい、お前らって付き合ってんの? 今、ふたりで三階から一緒に歩いてたじゃん!」
背中に投げつけられる、無遠慮な問いかけ。私たちは、彼らの名前すら知らないというのに。
周くんは、顔色ひとつ変えずに自分の席に着いた。
冷やかしの標的はそれ以上、私には向かず、「ウケるんだけど」という笑い声とともに彼らは去っていった。けれど、私は噂を立てられることへの怖さで、またしても居心地の悪さを感じる。
人気のない三階から、二人きりで降りてきたら、親密そうに見えるのかもしれない。それは分かるけれど、せっかく通じ合えた時間に泥を塗られたような気分になった私は、胸の奥がひどく重かった。
そして何より、周くんがそのからかいで私を置いて行くように足早に歩いていったこと。それが私を、どうしようもなく寂しい気持ちにさせた。
「好き」というはっきりとした確信があるわけじゃない。けれど、男の子と喋るという特別感や、教室では人を寄せ付けない佐藤くんが、私にだけは趣味を通じて自然体を見せてくれることが、たまらなく嬉しかった。
もっと喋りたい。そう願ったのは、紛れもない私の本心だった。
それと同時に、ふとした疑問が頭をかすめる。
彼はどうして私にだけ、こんな一面を見せてくれているんだろう。
クラスの誰も知らない彼の素顔。私だけが共有している、秘密のような放課後の空気。
自分がほんの少しだけ「特別」になったような気がして、私の心は静かに右隣の彼に傾いていた。
「去年、シリーズの一作目がアニメ化したじゃん? どうなんだろうなーって思ってたけど、俺が思ってたイメージといい意味で違ってさ。映像が綺麗すぎて驚いた」
「わかる! すっごい絵が綺麗だし、あの独特な空気感も小説のイメージそのままだよね」
私たちの会話の中心には、いつも『北見司』がいた。話題は作品から派生して、去年放送されたアニメの演出や主題歌にまで広がっていく。エンディング曲がお気に入りで、彼はそのアーティストのアルバムまで買ったらしい。彼の熱量に少しでも追いつきたくて、自分の感想を私も熱く語った。
「……ていうか、ずっと感じてたこと言ってもいい?」
ふいに、彼が真面目な顔をして私を見た。
「うん、なに?」
「俺も佐藤で、佐藤さんも同じ名字じゃん。……名前で呼び合わない?」
「あー……それ、私も実はずっと変な感じがしてて」
「だよな。自分の名前を呼んでるみたいで、なんか落ち着かないっていうか」
「わかるわかる。いいよ、杏奈で」
同じ「佐藤さん」。確かに違和感がありまくりで、いつか名前で呼び合えたらいいなと密かに悩んでいたから、彼の方から切り出してくれて心の底からホッとした。
彼は少し照れくさそうに頬を掻くと、丸椅子を身体ごと小さく左右に揺らす。
「……俺も、周でいいよ」
周くん。佐藤周くん。
その響きを噛みしめるように、心の中で何度も繰り返す。
お互いに少しだけ、気恥ずかしい沈黙が流れた。そこに予鈴が響き渡る。「貸出時間外です」のプレートを掛ける私の手元を、彼はじっと見つめていた。
「来週には一冊読み終わりそうだから、返すね」
「ああ、一気に纏めてでもいいよ。俺、チャリ通だし」
私たちは一緒にカウンターを抜けて、図書室を後にした。
「うん、知ってる。周くんがすごいスピードで自転車漕いでるの、校門で見かけたから」
「……え? なにそれ。俺、見られてたの?」
階段を下り、教室へと向かう途中、初めて読んだ彼の名前。彼は少しだけいつもより照れたような表情を浮かべていた気がする。
「そりゃあ、見るというか。見ちゃうよ。私のアシスト自転車より速いし」
「俺、元々は陸上部だったから。脚は結構鍛えてたんだ」
少し離れつつも、一緒に歩く。踊り場まで来ると、廊下を走っていた数人の男子たちが私たちの姿を見るなり、一斉に足を止めた。
(うわ、すっごいこっち見てる……)
嫌な予感がして、手すりを握る左手に力がこもる。私の一歩先をスタスタと降りていく周くんに向かって、野球部の男子がニヤニヤと笑い、隣友達の肩を叩いた。
「なぁ。アイツらって付き合ってんの?」
「なに? どこに居んの?」
「ほら、あそこ。四組のさ……顔にでけー痣あるやつ。隣の女子は誰か知らねえ」
囃し立てるような、不躾な声。私が思わずムッとした顔になっても、周くんは我関せずで、平然とした顔で彼らの前を通り過ぎていく。
「おい、お前らって付き合ってんの? 今、ふたりで三階から一緒に歩いてたじゃん!」
背中に投げつけられる、無遠慮な問いかけ。私たちは、彼らの名前すら知らないというのに。
周くんは、顔色ひとつ変えずに自分の席に着いた。
冷やかしの標的はそれ以上、私には向かず、「ウケるんだけど」という笑い声とともに彼らは去っていった。けれど、私は噂を立てられることへの怖さで、またしても居心地の悪さを感じる。
人気のない三階から、二人きりで降りてきたら、親密そうに見えるのかもしれない。それは分かるけれど、せっかく通じ合えた時間に泥を塗られたような気分になった私は、胸の奥がひどく重かった。
そして何より、周くんがそのからかいで私を置いて行くように足早に歩いていったこと。それが私を、どうしようもなく寂しい気持ちにさせた。



