栞みたいな恋だった

 図書委員の当番が回ってきた、四月の半ばのこと。
 相変わらず私は、教室で女子に声をかけられはするものの、特定のグループには入れないまま。例の男子グループからは、先生のいないところですれ違いざまに「死ね」なんて酷い言葉をぼそっと言われることもあったけれど、淡々と授業を受けて帰るだけの日々を過ごしていた。佐藤くんとも、未だに会話を交わしてはいない。
 ただ、あの事件をきっかけに、クラスの女子たちの間では「佐藤くん、かっこよかったよね」なんて彼の株が急上昇しているようだった。
「話してるの見たことないし、ちょっと怖いけどさ。なんか大人っぽいよね」
「わかる。あの痣、ちょっともったいないなーって感じしない?」
 彼がクラスの男子とつるまないのも、かえってミステリアスな魅力に映っているみたいだった。
 勉強もスポーツも、そつなくこなす。抜きん出ているわけではないけれど、「普通にできる」ことそのものが格好よく見える。そんな感じだ。
 お昼休みになると、彼は誰に声をかけるでもなく、さっさと自分のお弁当を平らげて、図書室へと続く階段を上って行った。その後ろ姿を見送る私の足取りは、いつも少しだけ重い。
(佐藤くんは私のこと、どう思ってるんだろう。それに、三十分も図書室でふたりきりって……なにを話したらいいの?)
 そんなネガティブな考えがぐるぐると頭を占拠して、ため息が出る。
 階段を上り、三階の渡り廊下の先にある図書室のドアを静かに開けると、中では数人の生徒が静かに本を読んでいた。手前の書棚では、上級生が背を向けて本を選んでいる。音を立てないようにドアを閉めて、私は図書カウンターへと歩み寄った。

 佐藤くんはいつもの文庫本を膝に置き、丸椅子に座って俯いている。私はその隣に、そっと腰を下ろした。なんて切り出せばいいか分からなくて、とりあえずペンケースとポーチをカウンターに置く。すると、ふと顔を上げた彼が、私の苺のケーキが描かれたポーチをじっと見つめた。
「あ……」
 不意に漏れた彼の声に驚いて、顔を向ける。
 すると、彼は目尻を下げてふっと柔らかく笑い、初めて私の目をまっすぐ見て言った。
「佐藤さんも、その作者好きなの?」
「えっ?」
「ほら、それ。キーホルダー。『北見司』のでしょ?」
 まさかそんな風に会話が始まるなんて思ってもみなくて、私は彼が指さすポーチのキーホルダーと彼の顔を、何度も交互に見つめてしまった。
 初めて、真正面から見た彼の顔。カーテンの隙間から入り込む春の風に、やわらかい猫っ毛の黒髪が、小さくさわさわと揺れている。
「あっ、これ!? 佐藤くんも好きなの? 北見司」
「うん。今まさに読んでるよ」
 そう言って彼はいたずらっぽく笑うと、机の上で紺色のブックカバーをさらりと外して見せた。そこに現れたのは、私の一番のお気に入りの一冊。
 北見司の『白物語』――淡い色合いで描かれた、私の大好きなデザインの表紙だった。
 主人公が、想い人と恋人になるという選択肢を自分から捨て、一人の人間として幸せを願って身を引く。そんな、悲しい恋の話だ。
「ええーっ、うそ。見ただけで気付かれたのは、初めてだよ」
「一番好きな作家だからね。佐藤さんは、いつから好きなの?」
「中学からだよ。北見作品のオムニバスから、買い集めたんだけど――」
 私たちは出来るだけ声を潜めたけれど、お互いの顔からは笑みがこぼれ、思いがけない同志を見つけた喜びを隠しきれない。
 佐藤くんも「分かる」と深く頷き、屈託のない笑顔を浮かべて、時折ふっと視線を合わせてくれる。
 彼の左顔半分を覆うような、痣。そこに視線を吸い込まれそうになりながらも、私は、想像していたよりもずっと朗らかな彼の温もりに触れて、ガチガチに固まっていた心がゆっくりと溶けだしていくのを感じていた。
「この間発売された『花物語』ってもう読んだ?」
「ううん、まだ。佐藤くんはもう読んだの?」
「すげぇ良かったよ。初版のハードカバーで買ったんだけどさ……よかったら貸そうか?」
 初めて喋ったとは思えない、どこかふわふわとした気恥ずかしい空気。男の子とこんな風に趣味の話で盛り上がるなんて、今まで一度もなかったから――そわそわして、つい声が上擦ってしまう。
「いいの?」
 期待を込めて唇を小さく結ぶ私を見て、彼はなんてことない風に言った。
「いいよ。じゃあ明日、持ってくるから」
「うわーっ、ありがとう! なるべく早く読むね」
「ゆっくりでいいよ、気にしないで」
 そう言うと、佐藤くんはカバーをかけ直しながら、残り数ページとなった読みかけの場所に栞の紐をそっと挟んだ。
 栞を挟んで閉じられた本は、続きを読まれるのを待っている。そんな当たり前のことが、なぜかひどく羨ましかった。私たちの関係にも、続きがあればいい。あの時の私は、まだそれを願うことしかできなかったのだ。
 ちょうどその時、カウンターに返却と貸し出しに来た下級生が現れた。彼は手際よく図書カードを受け取り、今日の日付のスタンプ印を押す。
「返却期限は二週間後です」
 事務的な言葉。けれど、その横顔はさっきの余熱を含んだまま、どこか穏やかさを帯びているように見えた。