栞みたいな恋だった

 夏休みの間、私は周くんとメールでやりとりを続けていた。返信の文面はいつも通りの周くんだったけれど、一度だけ「最近、少し考えてることがある」という言葉があった。
 私はそれに「どんなこと?」と返したけれど、彼はその話題にはそれ以上触れなかった。
 その後、打ち消すみたいに、彼がくれた言葉は「そういえば、今度の日曜日って、暇?」だった。
 デート、という言葉は、お互い恥ずかしくて出したくても出せない。言いたくても、言えない。
 次の日曜日に待ち合わせをして、私たちは高校の近くにあるモールへ、映画を観に行くことになった。

 お母さんに、周くんと出掛けることを正直に告げたら、地元のアウトレットへ連れて行ってくれた。
 最近みたドラマで、ヒロインが着ていたものにそっくりな、シフォン素材のキャミソール型のロングワンピース。しかも、大人っぽいロングブーツまで買ってくれて、お母さんは私の初めての男の子とのデートを全力で応援してくれた。
 値札を見てしまった私が申し訳なさそうにすると、「来月もバリバリ稼ぐわよ」と笑って言ってくれた。そうやって気負わせないように笑ってくれるお母さんのことが、大好きだと、改めて思った。

 当日の朝、私は鏡の前で何度も自分の姿を確かめた。
 ワンピースの裾が風に揺れるたびに、コツコツと少し低めのヒールが鳴るたびに、私はいつもとは違う誰かになったような、不思議な気持ちがした。
「杏奈」
 モールの入り口で声をかけられた瞬間、脈が一拍飛んだような気がした。
「周くん、お待たせ」
 彼の私服を見るのは初めてだった。決して派手じゃない、白いシャツにネイビーの羽織を合わせた黒いパンツスタイル。いつもの教室で隣にいる周くんより、どこか大人びて見えた。
 映画館へと続くエスカレーターに乗って、下から彼を見上げていると、学校の外でふたりきりでいるということが、あらためて実感として込み上げてくる。胸のどこかがきゅうっと締め付けられるような、甘いじれったさを感じた。
「……服、可愛いね」
 不意打ちだった。
「えっ……あ、ありがとう。あのね、普段から着てるわけじゃないの。その……お母さんに買ってもらったんだ。周くんと出かける、って言って……」
 動揺のあまり、言わなくてもいい裏事情まで話してしまった。言い終えてから、今の、言わなくてよかったかも、と俯く。でも、とにかく何か話していないと、緊張やら恥ずかしさやらでどうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ、行こう。さっき、チケット発券しておいたから」
「ありがとう! あとでお金渡すね」
「いいよ、俺が映画にしようって言ったんだし」
「いや、でもそれはさすがに……」
「大丈夫。叔父さんところでバイトもたまにさせて貰ってるから」
 そう言って、周くんは私の手をそっと握った。それから、薄暗い劇場へと、迷わずに手を引いてくれる。
(バイトなんて、いつ始めたんだろう。知らなかった……)
 なんだか、急に周くんが知らない男の人みたいに、大人びて見えた。

 映画は、周くんのおすすめだという邦画だった。
 けれど、内容がいまいち入ってこない。まるで定位置みたいに私の右隣に座る周くんの横顔が、どうしても気になる。スクリーンの光を受けた彼の輪郭を、膝の上に置かれた拳を、ちらちらとまた盗み見てしまう。
 周くんの手に、触りたい。
 そう思うのに、届きそうで届かない。そのもどかしさをずっと感じながら、気がつくと私は、少しだけ彼の左肩に頭を傾けたくなっていた。もちろん、できなかった。でも、その気持ちだけは、静かな劇場の中でそっと膨らみ続けていた。
 映画を観た後は、ショッピングモールの中にあるドーナッツ屋さんへ入った。ガラスケースの前に並んで、ふたりで選ぶ。最初に二個選んでいた周くんが、私が三つも手に取るのを見て、ふっと笑った。
「……やっぱり二個にする」
「なんで? いいじゃん、三個食べなよ」
「だって、女の子の方がいっぱい食べるのって、なんか……」
 言い訳みたいに声が小さくなる。すると、周くんは黙ってもう一つドーナッツをトレーに載せて、そのまま会計を済ませた。言葉にしなくても、伝わるものがあった。照れと嬉しさが混ざって、うまく笑えない。でもたぶん、私は笑っていた。
 けれど、どうしても気になってしまうことがあった。
(……また、見られてる)
 周りからの視線だ。
 待ち合わせ場所でも、歩いているときも、こうして座って食べている間も。周くんの痣に気づいた人たちは、みんな一様にぎょっとした顔をして、目を逸らすか、あるいはじろじろと見るかのどちらかだった。声に出して何かを言う人はいない。でも、その視線は雄弁だった。
 私は、そのたびに胸の中で何かがちりと痛むのを感じた。周くんは、もうとっくに慣れてしまったのだろうか。
 隣を歩く彼は、穏やかだった。その穏やかさは、どこか心が別の場所へ行っているような寂しげな目にも見えて、今日という日の中で、一番せつなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​
(本当は……ふたりで、プリクラも撮りに行きたかったなぁ)
 「今日、周くんとデートしたんだよ」と、友達や、家で待つお母さんに報告したかった。半分こにしたプリを見せて、自慢の彼を紹介したかった。けれど、その一言がどうしても喉の奥でつかえてしまう。もし彼が「写真」を嫌がったら。せっかくの甘い余韻が、私のわがままで濁ってしまったら――そう思うと、怖くて言い出せなかった。

 帰りの地下鉄、並んで座ったシート。
 私たちは、先ほどまで観ていた映画の感想をぽつりぽつりと交わしていた。
「また、二人で観に行きたいね」
 私が勇気を出して言うと、周くんは一瞬、何かを言いかけて飲み込んだ。窓の外の暗いトンネルをじっと見つめる横顔が、いつもより少しだけ遠くにある気がした。でも私はそれを、照れていると思った。思いたかった。
 別れの駅が近づいてくる。せめて最後にもう一度、彼の手を握りたい。
 膝の上で指をもじもじと動かし、タイミングを窺う。そんな私の挙動不審な態度を察したのだろう。周くんが、そっと私の手の甲に自分の手を重ねた。
 不意の体温に心臓が跳ねる。けれど、視線を落とした瞬間、急激に恥ずかしさが込み上げた。
 青白い蛍光灯に照らされた私の手は、塗り慣れないマニキュアが浮いていて、指先は少しカサついている。
「どうしたの?」
 覗き込むような彼の声に、私は顔を伏せたまま消え入りそうな声で返す。
「ごめん。私、手がガサガサだよね。ハンドクリーム、塗ってるんだけど」
 女の子らしくない、と思われたかもしれない。見られたくなくて手を引っ込めようとした私を、彼は逃がさなかった。
「なんで? 気にすることないじゃん。肌が弱いのは俺もだし」
「……うち、母子家庭なんだけどね。お母さんが仕事頑張ってくれてる分、私が家事をするようにしてて」
 新しい洗剤が合わなかったみたい。そう言い訳する私に、周くんは驚くほど明るいトーンで応じた。
「ああ、うちもだよ。俺と母親の二人暮らし。何かと大変だよな」
 あまりにもあっけらかんとした口調だった。
 同情を引きたかったわけじゃない。けれど、今までこの事実を伝えると、学校の先生も友達も、一様に触れてはいけないものに触れたような、気まずい沈黙を流すのが常だった。
「……何気に私たち、重大発言しちゃったね」
「いーじゃん。このくらいのが好きだよ、俺は」
「ふふ、そう言うところ好きだよ」
「なんなら、俺の父親なんて不倫して俺の学費も持ち逃げしてるし。夜逃げ同然で中二の時に、ばーちゃん家に越してんだよ」
 だから気にすることない、とでも言うかのように周くんは笑った。私はこれっぽっちも笑えなかった。何か言わなくては。そう思って顔を上げると、彼はもうとっくに冗談の顔に戻っていた。
「嘘。この前ドラマで見た話パクっただけだよ」
「えっ——なんだぁ! もう、本当に信じちゃったよ!」
 呆れたような、安心したような声が出た。笑えた。泣きそうだったのに、笑えた。
「杏奈は分かりやすいし、騙しやすい。純粋だね」
 彼はそう言って笑うと、私の手の甲から手のひらへと滑らかに指を滑らせた。
 絡められた指。初めての、恋人繋ぎ。骨張った長い指の感触が、直接心臓に触れているみたいに熱い。
 電車が駅に滑り込むたび、乗客が入れ替わった。
 目の前に座ったスーツ姿の男性も、買い物袋を提げた女性も、ふと周くんの顔を見て、二度、三度と視線を彷徨わせる。そして、見てはいけないものを見てしまったという風に、慌てて目を逸らす。
 その無遠慮な視線を見つけるたび、胸の奥で悲しみと、静かな怒りが火を灯した。
 私は繋いだ手にぐっと力を込め、彼の大きな手を握り返すと、その左肩にコトンと頭を預けた。
 タタン、タタンと、地下鉄がゆるいカーブに合わせて一定のリズムを刻む。
 肩を預けた私に、周くんは何も言わなかった。けれど、ふれあう部分から、彼が少しだけ緊張して肩を強張らせているのが伝わってくる。
 車内の無遠慮な視線は、隣に座る私にまで及んでいた。今までなら縮こまっていたかもしれない。
 けれど、今は違った。
 「そうだよ、周くんは私の彼氏なんだよ」と、心の中で全員に言い返したい。
 独占欲とも、単純な嫉妬とも違う。
 誰も知らない彼の優しさ、あたたかさ。それを自分だけが知っていて、誰にも渡したくない。それと同時に、こみ上げてきたのは鼻の奥がツンとするような、泣きたいほどの愛おしさだった。

 たった一日のデートで、私は知ってしまった。
 痣を見慣れている学校の友達とは違う、街中の見知らぬ人たちが向ける冷ややかな好奇の目。彼は毎日、この視線の嵐の中を歩いているんだ。
(私が、この人を守りたい。私が、彼の味方でいたい)
 その決意は、私の指先に力を込めさせた。
「……杏奈、気をつけて。家に着いたらメールして」
「うん、ありがとう。またね」
 駅に着き、ゆっくりと、名残惜しそうに指を解く。
 閉まるドアの向こう、地下鉄がトンネルの暗闇に消えていくまで、私はその場を動けなかった。
 独りになったホームで、携帯を開く。
 今別れたばかりなのに、伝えたい言葉が溢れて止まらない。

《今日は楽しかった! 本当にありがとう》

 一度、指が止まる。けれど、今日芽生えた強い気持ちを、どうしても形にしたかった。一段改行して、震える指で初めて綴る。

《やっぱり周くんのことが大好きです》

 送信ボタンを押した瞬間、恥ずかしさと興奮が交互にやってきた。
「送っちゃった……!」
 顔が火照り、駆け出すようにホームの階段を上がる。緩みっぱなしの口元を必死に抑えながら改札を抜けた。
 地上のロータリーに出ると、夜の冷たい空気が心地よかった。
 送迎用のパーキングには、見慣れたお母さんの車が停まっている。助手席に向かおうとしたその時、手の中で端末が震えた。

 《俺もです》

 画面に浮かんだ、たった四文字。それだけで、胸の奥がパンパンに膨らんで、世界がキラキラと輝き出した。
 私は勢いよく車のドアを開けるなり、驚くお母さんの顔を見て、自分でも抑えられないほどの声で叫んでしまった。
「お母さん、聞いて。いま、世界で一番幸せな女の子って誰だと思う!?」
「あらー、誰ですか?」
 分かりきったように、それでいてお母さんの方こそ恥ずかしそうに私を見てふってくれた。
「私でーす!」
 夜の車内に、私の浮かれた声が響く。
「まぁ~、そうですか。それはようございましたこと!」
 お母さんは口元に手を当てて笑った。
 後から思い出せば顔から火が出るほど恥ずかしいけれど、その時の私には、その言葉以外に自分を表現する方法が見つからなかった。ただただ、笑顔を止められなかった。それくらい、幸せだった。