栞みたいな恋だった

 周くんからもらったハンカチを、私は毎日ブレザーのポケットに忍ばせるようになった。
 「ちゃんと使っていますよ」という、私なりの小さなアピールのつもりだった。彼だって、贈ったものがどうなったかくらいは気にかけてくれているはずだ。それは同時に、私の内に芽生えた淡い気持ちに気づいてほしいという、精いっぱいのサインでもあった。
「杏奈ー。佐藤くんと、その後どう。進展あった?」
「いや……ないよ。っていうか、向こうがどう思ってるか分かんないし。もう、変なこと言うのやめて」
 周くんを戸惑わせたくない、嫌な思いをさせたくない。それが一番の願いだった。
 ハンカチをもらって浮かれすぎないように自分を戒める一方で、本を返すやり取りを、何度も頭の中でシミュレーションしては一喜一憂する。
 その瞬間だけは、一番可愛い自分でいたかった。ボブの毛先が綺麗に内側に巻いているか、変な寝癖はないか。
 周くんがそんな細かいところまで見ていないことは分かっていたけれど、リップは色つきに変えたし、ドラッグストアで「男ウケ抜群」と宣伝されていたせっけんの香りのフレグランススプレーを買って、手首につけて登校していた。
「えー、なんで? 杏奈、佐藤くんのこと好きなんでしょ」
 女子トイレで二人にからかわれ、赤くなった顔を隠すように俯く。ハンカチで手を拭いて、教室に戻ろうとドアを開けた。
 「もうやめてよ」とヘラヘラしながら二人に挟まれていた、まさにその時。角を曲がったすぐ先で、周くんと思い切りすれ違った。
 あまりにも最悪なタイミングに、私たち三人はその場に凍りつく。
 彼はちらりと私を一瞥したけれど、何事もなかったかのような足取りで、そのまま静かに通り過ぎていった。
(……今の、聞こえてた?)
 いや、絶対に聞こえていた。この距離と、あの声の大きさなら。苗字で呼んでいたとしても、状況的に自分のことだと気づかないはずがない。
 羞恥心と不安が一気にこみ上げ、私は両腕に顔を埋めるようにして、その場に崩れ落ちそうになった。
「ねぇ、絶対いまの聞こえてたよね!? 待って、やばい、無理なんだけど!」
「ど、どうだろう。でも、あんまりびっくりしてなかったし、ノーリアクションだったじゃん」
「聞こえてなかったかもしれないよ。大丈夫だって」
 二人は必死にフォローして謝ってくれるけれど、私は唸り声を漏らしてしゃがみ込むしかなかった。
 ノーリアクションなんじゃない。彼はただ、ポーカーフェイスなだけだ。少しずつ距離を縮めてきた私だからこそ、彼が内側に感情を押し込んだのが分かった。
 今のいま、彼は「杏奈って俺のことが好きなんだ」と確信したに違いない。前から、薄々気付いてたとしたら「やっぱり」くらいに思われていそうだ。
 これまでは、なんとなくお互いに感じ取っていたけれど、第三者の口から事実として突きつけられるのは、わけが違う。
 これからどんな顔をして隣に座ればいいのか。私はもう半分開き直って、「あなたのことなんて話してませんよ」という鉄の仮面を被って教室に戻るしかなかった。そして彼もまた、「俺も気にしてないから」という顔を崩さない。それが余計に突き刺さる。話題にしない方が、明らかに不自然だ。
 消えたい。よりによって、なんであのタイミングであそこに出てくるかなぁ。
 ペンダコのある中指の痛みを堪えながらシャープペンを握りしめ、ノートに板書をいつもより丁寧に書き込んでいく。
 昼休みになれば、きっと彼のことだから聞こえなかったふりをしてくれる。そうすれば大丈夫。また私たちは、北見司の話で盛り上がれる「ちょっと仲のいい友達」に戻れるはず。
 ――そう期待して、図書室へ向かったのに。
「杏奈って、俺のことが好きなの?」
 図書カウンターの仕切りを腰で押し開け、いつもの丸椅子に座ろうとした瞬間だった。
 周くんは頬杖をついたまま、逃げ場を塞ぐような真っ直ぐな視線で私を見て言った。
「えっ……」
「さっき、女子トイレの出口で。友達と話してたでしょ、俺のこと」
 言い逃れできない状況を、淡々と突きつけられる。
(いくら誰もいない図書室だとしても……そんな直球で聞く?)
 お願いだから、そんなにじっと見つめないで欲しい。焦りと恥ずかしさで、今すぐ叫び出したいような心地だった。
「いや……えっとね……」
 いま、ここで「好きだよ」と答えたら、私たちは付き合うことになるんだろうか。
 分からない。周くんがそれを望んでいるのかも、彼も同じ気持ちでいてくれるのかも。その自信のなさが、私に身勝手な嘘をつかせた。
「好きじゃないよ。全然、そんなんじゃないから」
 彼の顔を見ることができなかった。視線を足元に落としていても、視界の端で彼がこちらを向いている気配だけが痛いほど伝わってくる。
 努めて明るく振る舞ったけれど、どんなふうに響いただろう。私は「友達」であることを強調するしかなかった。
「周くんのことは、なんていうか、男友達みたいな。男女の友情ってあるじゃん? 私、そういうのだと思ってるから」
 言葉を重ねれば重ねるほど、不自然な色が混じっていく。
 けれど、彼は少しの間をおいてから、静かに言った。
「……そうなんだ」
「なんかごめんね、嫌な気持ちにさせちゃって」
「いや、全然。俺の方こそごめん。付き合ってるって噂、立てられそうになったの、嫌だっただろ。こんな奴と」
 自嘲気味に響いたその言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
 彼はまた、自分にバリアを張り直そうとしている。私のついた嘘のせいで、彼の心の扉が閉まる音が聞こえた気がした。
 丸椅子の上で背中を丸めるようにして座る。空気が重くて、すごく気まずい。
 周くんの横顔。痣を盗み見ると、ふいに彼がこちらを向き直った。少しだけ眉を下げ、力なく苦笑いする。
「気になる? ……これ」
 とんとん、と自分の人差し指で痣に触れる周くんに、私ははっと息を呑んだ。
(痣があるから、『好きじゃない』って言ったと思われてる?)
 違う。そんなんじゃない。胸の奥から込み上げてくる感情に突き動かされるように、私は必死に、前のめりになって否定した。
「そんなことないよ! 気にしたことなんて一度もない!」
「でも、近くで見ると気持ち悪いって思わない?」
 そう問いかける彼の瞳は、真っ直ぐに私を射抜いていた。その瞳の奥にある、彼がこれまで積み重ねてきた諦めや孤独を見つめ返しているような心地になる。
「生まれつきなのかな」「どうして」「可哀想に」――自分の中にある無意識な好奇心や同情を見透かされたような気がして、私は首を振ることしかできなかった。
「……じゃあ、触れる? ここ。指で」
 試すようなその一言に、正直、激しく狼狽えた。
 本当に触れていいのかという戸惑いと、異性の顔に触れるという純粋な緊張。けれど、そうすることで周くんが安心してくれるなら。私の言葉を信じてくれるならと、私は祈るような一心で、そっと手を伸ばした。
「ほ、ほんとうに触るよ?」
「うん」
 震える人差し指の腹で、淡く熱を持った彼の皮膚に、ほんの一瞬だけ触れる。
 指先に伝わる少し硬いざらりとした感触を確かめると、私はその手を引っ込めた。
「……太田母斑(おおたぼはん)っていうんだけど。別に移ったりとかしないから安心して。生まれつきの、ただの痣だよ」
「移るなんて思ってないよ! なんでなのかな、っては思ってたけど……」
「うん、そう思ってたのは知ってた。初めて隣に座ったとき、チラチラ見てたじゃん。俺のこと」
 はっきりと言い切られて、心臓が跳ねた。見ていないふりをしていたつもりだったけれど、彼は全部気づいていたんだ。そう思い知らされた途端、また自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらなくなった。
 『嫌な思いをさせてるじゃん』と、自分を責める言葉が頭の中をぐるぐると回る。
 なにが「気にしてない」だ。一番最初に気にして、好奇心の視線を送って、そのくせ仲良くなったらあるものを無いものとして扱う。そんな風に腫れ物に触るような態度をとることこそが、一番失礼だったんじゃないか。
 そんな過去の自分の浅はかさが、今はたまらなく申し訳なかった。
 俯いて、膝の上で握りしめた手に力が入る。
「あの、ごめんね……」
 消え入りそうな声で謝る私を見て、周くんは小さく息を吐いた。そして、机に置いていた私のペンケースを、手持ち無沙汰そうに指先でツンとつつく。
「謝んなよ。別に怒ってない」
「でも、失礼だったよね。私、気にしてないふりして、心の中では……」
「いいって。そりゃ気になるだろ、こんなのあったら。俺だって逆の立場なら見るし」
 彼はそう言って、椅子を少しだけ私の方に寄せた。
 そして、さっきまでの重苦しい空気を振り払うみたいに、少しだけ口角を上げて私を覗き込む。
「それより、さっきの嘘。取り消して欲しいな」
「えっ?」
 返す言葉が見つからなかった。
 火照る頬を隠すことも出来ずに、ぽぅっと彼を見つめる私。周くんは、視線を少しだけ床に落として微笑んだ。
「……ただの友達に、あんな可愛いハンカチ選ぶわけないと思わない?」
 その笑顔が、私の残っていた嘘と言い訳を全部溶かした。
「……取り消し、ます……」
 声が震えた。顔が熱い。視線を上げられない。でも、嘘をついていた時よりずっと、息が楽だった。
 隣から、小さく息を吐く気配がした。安心したような、それでいてどこか照れたような、そんな吐息。
 私はそっと顔を上げると、少しだけ耳が赤くなっている周くんを見つけた。
「……ありがとう」
 彼はそれだけ言った。たった五文字だ。
 告白でも、告白返しでも、たぶんどちらでもない。けれど、これが私たちらしいと思った。