余っていたのは、恋のほう

***

 気がつけば朝になっていた。
 朝日がカーテンの隙間からわずかに差し込む。光の筋が、悠人の頬を照らしていた。
 私はまだ彼が起きないうちにベッドから降りて、机の抽斗の奥のほうにしまったハンドクリームを取り出す。
 結局、同棲先にまで持ってきてしまった。
 碧にもらった最後のハンドクリーム。余って使えなくなっていたもの。使用期限が目前に迫っていた。
 あの頃の恋心は、このハンドクリームみたいに持て余していた。
 私はその恋心を、墓場まで抱いていくかもしれない。
 悠人の隣で、素知らぬ顔をして。
 悠人を好きだという気持ちに、もちろん嘘はない。だけど、あの時のように焦がれるほど、恋していないというのは間違いなかった。
 それでも私は悠人と一緒にいることを選んだ。彼の優しさが嬉しかった。彼の笑顔が好きだった。私は悠人と結ばれる人生を、手放したくないと思う。
「悠人」
 悠人の、日の光に照らされた頬を撫でた。彼が「ん……」と小さく声を出す。言葉にならない。その声を、どこまでも愛しいと思った。

「それじゃ、行こうか」
 十時前。区役所へと出発した私は、鞄にハレルヤのサクラクリームをしのばせた。 
 きっと今日で最後だ。
「ねえ、区役所に行く前にちょっと寄りたいところがあるの」
「寄りたいとこ? どこ?」
「駅前のモール」
「何か買うの?」
「うん。ハンドクリームを買おうと思って」
 私は悠人に、荒れた手を見せた。薬指にはしっかりと婚約指輪がはまっている。悠人は今まで私の手荒れに気づかなかったんだろう。「うわ、痛そう」と眉をしかめた。
「すぐに買いに行こう。好きなの買ってあげるよ」
 私ははっと悠人の顔を見やる。
 好きなの買ってあげる。
 やっぱり悠人は優しい。世界一優しい。
 でもその優しさが、今はちょっとだけ痛かった。
「……ありがとう。でも、自分で買いたい」
「そっか。じゃあ俺はまた別のものをプレゼントするわ」
「プレゼント? なんで?」
「だって今日は、俺たちの結婚記念日だろ。プレゼントぐらいさせて」
「そっか。嬉しい」
 悠人はいつだって完璧で、あまりにも良い男すぎる。
 私って男運が良いな。
 かつて、碧と別れた後は男運が悪かったと思うことで、ささくれだった気持ちを慰めようとしていた。でも、碧は間違いなく良い男だったから、余計に心のざわつきが止まらなかった。碧と別れてから三年ほど、私は新しい恋に踏み切れなかった。いっそのこと、碧がクズでどうしようもない男だったら良かったのに、とさえ思った。
 でも……碧が良い男で良かったと今なら思える。
 ちゃんと愛されることを知って、愛し愛されたまま、お別れできて良かった。
 碧との記憶があるから、私はこうしてまた恋愛することに前向きになれて、悠人と出会えたのだ。
 その持て余した愛を、私は悠人に注ぐことができる。
 
——俺だって頑張ったんだ……。結婚したいって、そういう気持ちになろうとしたのに。

 かつて私を縛った言葉。今も脳裏にこびりつく、ある種の呪いのようなもの。
 でもこの言葉は、私が一人の男に全身全霊をかけて愛されたという大切な証拠でもあるのだ。

 悠人と並んで、駅までの道を歩く。駅前の商業施設にたどり着くと、真っ先に目的の店に向かった。
 一階のコスメブランドが立ち並んだエリア。『ハレルヤ』の看板を見つけると、私はそこで智恵美が持っていた新作のハンドクリームを買った。
「ありがとうございました。またぜひお越しください」
 にこやかに頭を下げる店員さんに、私は思わず「あの」と声を上げる。
「ハレルヤのサクラクリーム……すごく大好きでした。製造終了になって悲しいですが、新作も使うのを楽しみにしています」
 店員さんが驚きに目を丸くする。それからすぐにはにかんで、「それは、嬉しいです」と言った。
「ハレルヤでは毎年お客様のニーズにお応えできるような商品をつくっていきますので、ぜひいろんな商品をお試しくださいね」
「はい! ありがとうございます」
 朝起きた時に胸に滲んでいた淋しさが、ほのかな希望で塗り替えられていく。
 お店を出ると、悠人が「優しい店員さんだね」と目を細めた。
「あっちに花屋さんがあるから、花束を買おう」
「お花? いいの?」
「もちろん。今のなごみにぴったりの花を選んでもらおう」
 悠人が優しく私の右手を握る。私は、「ちょっと待って」とその手を一度離した。
「先にハンドクリーム、塗らせて」
 私は先ほど買ったハンドクリームの蓋を開け、それを塗ろうとした。
 でも、少し迷って再び蓋を閉じる。
 代わりに鞄から余っていたサクラクリームを取り出して、それを手に塗り込んだ。
 懐かしい匂いがして、泣きそうになった。
 でも、悲しい気持ちも淋しい気持ちも湧いてこない。
 ただ余ったハンドクリームを処理するために、私はそれを塗った。
「よし。これで明日からこっちを使える」
「そういうことね」
 悠人は何かを悟ったように、けれどきっと私の胸の内なんて全然知らない様子で微笑んだ。
 これでいいのだ。悠人は何も知らなくていい。だって私たちの未来の記憶は、私たちがこれからたくさんつくっていくから。
 過去は知らなくていいんだ。
 
 色とりどりの花をぎゅっと結んだ花束を買ってもらった私は、“島崎”になるために悠人と並んでまた、歩き出した。
 かつて、碧と結婚したらもらうはずだった苗字と、一字違い。その一文字の違いが、私を碧からこれから少しずつ、遠くに運んでくれるはずだ。
 商業施設を出ると、真上の空は曇っていて、でも遠くを見れば白く輝いていた。
「これから晴れるな」と、悠人が笑った。
 私は、ハンドクリームのおかげで一時的に滑らかになった手で「うん」と彼の左手を握り直した。



<了>