大学三年生になると、私が碧の一人暮らしの家に住むようになった。いわゆる同棲だ。実家暮らしでシングル家庭だった私は、母親が寂しがるというのを分かっていながら、それでも碧の元に行くことをやめられなかった。
碧は県外出身の人間だった。両親の仲があまりよくないらしく、大学は県外の大学を受験すると決めていたようだ。
とある金曜日の晩。二人でシングルベッドに入ってそろそろ寝ようかと思っていたタイミングで、お互いの今までの人生の話をしていた。まだ二十年と少ししか生きていない私たちの、ちっぽけな物語。
「うち、お金もないからさ、下宿なんてできないと思ってたんだけどね。奨学金でなんとかなってる。貸与型と給付型の二刀流だよ」
けろりと笑いながら、「奨学金まみれです」と自虐してみせる碧。
でも私は、“給付型の奨学金”というのが、高校での成績が良かった人しかもらえないものだということを知っていた。きっと碧は、この笑顔の裏で相当な努力をしたのだ。
周りからはおちゃらけていてちょっとおバカな人間だと思われている碧だが、見えないところで頑張っている。私はそんな碧に「頑張ったんだね」とつい声をかけた。
「え?」——と彼が目を丸くする。
私はもう一度「偉いよ」と返した。
「碧は偉いよ。自分でちゃんと、お金を用意したんでしょ。バイトだって頑張ってるし、碧は一人前の大人だ」
「ありがとう。でもそんなことないんだよー。俺はまだ半人前。いや、人間としちゃ四分の一ぐらい」
「四分の一って、なにその表現」
おかしな表現をする彼の言葉に、私は思わず笑みをこぼす。
碧もくふくふと笑ったが、「俺さ」と次の瞬間には真剣なまなざしになって言った。
「ちゃんと、頑張るから。頑張って、いつか……って思えるようにするから」
碧の声が途中、途切れた。
彼の声が掠れていたのかもしれないし、私自身がうとうととまどろんでいたせいで、聞き逃してしまったのかもしれない。
「ごめん、今なんて?」
私は何気なく聞き返す。けれど碧は少し躊躇う素ぶりを見せてから、「とにかく頑張る。なごみに見合う男になるように」と先ほどとは違う言葉を付け足した。
「私に見合うって、そんなのもうとっくに大丈夫だよ。むしろ私のほうが、あなたの隣が似合う人間になる」
本心だった。
私は、両親から離れる決意をし、お金の工面をして、一人きりで頑張ろうとする碧の努力に見合う人間になりたかった。
守られるだけじゃない。
碧ができないことを、私がしてあげる。
碧が足りないと思うものを、私があげる。
だからさ、碧。私、ずっと碧の隣にいてもいいよね。
そしていつか、碧と二人で、真っ赤なバージンロードを歩けたら——なんて妄想をして、思考を止めた。
そんなことは、いつか考えればいい。
まだ大学生の私たちには持て余す未来。
「おやすみ、碧」
いつのまにか、すぐそばで寝息を立てていた碧の唇にそっと口付けをする。
明日の朝起きたら、またあのハンドクリームを塗ろう。新しい一日の始まりにハンドクリームを塗るのが、私のルーティンになっていた。
私たちはそれから長いこと同じ時間を過ごし、大学を卒業した。
就職先は二人とも都内の会社だった。大学時代から引き続き、同棲をしていた。ただし、大学近郊から離れ、部屋は少し大きくなった。
営業職に就いた碧は、二十四歳から二十六歳までの二年間、県外の支社に出向することになった。
「離れ離れになっちゃうね」
「そうだな。まあ最初から、こうなるかもしれないことは分かってたから、大丈夫。俺はどこに行っても、なごみのことしか考えられない」
「ふふ、だめじゃん。ちゃんと仕事のこと考えなきゃ」
「それとこれとは別って話」
だめと言いつつ、本心はもちろん、嬉しかった。
彼は宣言通り、県外へ行っても毎日欠かさず連絡をくれた。忙しいはずなのに、私も仕事で疲れているはずなのに、碧との時間だけ別枠で用意されているみたいに切り取られていた。碧とLINEや電話をしている時間は、一日の中のスペシャルタイム。その時間だけはどんなに疲れていても、元気になれた。
彼は、週末に予定がない日は必ず帰ってきた。
二十六歳の誕生日には、「仕事が立て込んでいて無理かもしれない」と苦悶の滲む声で電話で言われて少しショックだったが、「全然大丈夫!」と強がって答えた。
でも、誕生日当日、彼は東京に駆けつけてくれた。
しかも、夜景の綺麗なレストランを予約して、真っ赤なバラの花束まで持って。
私は一瞬、もしかしたら今日、この場でプロポーズされるのかもと予感した。
その日も私の手にはハレルヤのサクラクリームが塗られていて、ほんのり漂う甘い香りは、もう私の身体の一部になっていた。
「なごみ、誕生日おめでとう。もう少しでこっちに戻ってこられるから、そうしたらまた一緒に暮らそう」
はにかみながら、付き合いたての頃から変わらない凛々しさで彼はそう言った。
プロポーズの言葉は出てこなくて、ちょっと残念に思ったのだけれど。
なんでもないことのように、「また一緒に暮らそう」と言ってくれる彼の言葉を信じた。
「うん! ありがとう」
ひたすら盲目だった。バラの花束の赤に、顔を埋めるようにして照れ隠しをした。
碧がこの時、どんな気持ちで私に言葉をくれたのか、想像できていなかった。
私はただ、碧の言葉の表面だけを信じて、その裏に潜む彼の葛藤に気づいてあげられなかった。



