余っていたのは、恋のほう

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「はい、これ。ホワイトデーの」
 手のひらサイズのオーガンジーの袋には、愛らしいピンク色のリボンが掛けられていた。
 中に入っているものが、女子に人気のハレルヤのサクラクリームだと知って、私は思わず「わ、可愛い」と声を上げていた。
 嬉しい、と言おうとしたけれど、咄嗟に出た言葉は「可愛い」。
「女子ってなんでも可愛いって言うよな」
「うん、可愛いっていうのが最上の褒め言葉だから」
「じゃあ、俺のことも可愛いって思う?」
「思う、思う」
 二十歳。大学二年生だった私は、ちょうどその年のバレンタインの日から碧と付き合っていた。
 バレンタインに本命チョコをあげると、碧が「ちょっと待って」と手で制してきたから、受け取ってもらえないのかとひやひやした。
 でも、実際は私の心配をよそに、彼は「先に言う。茅野さんのことが好きだ。付き合ってください」と私に告白をしてくれたのだ。
 嬉しかったし、幸せだった。幸せという言葉じゃ足りないぐらい、気分が高揚して、泣きそうになった。
 碧は同じ大学の、同じ学部の同級生だった。
 一年生の頃、たまたま講義で近くの席に座っていたことがあり、講義の一環で近くの席の人と意見交換をする時間があった。その時、仲良くなったのだ。
 正直、第一印象的には、まさかこの人が恋愛対象になるなんて思ってもみなかった。
 失礼だが顔がそこまで格好良いというわけではなく、いわゆる塩顔で中高でも似たような顔の人がいたな、と感じるような男だった。
 でも、ひとたび彼が口を開けば、その明るくポジティブな空気感に、誰もが彼のほうに注目してくれる——そんな不思議な“主人公”的なオーラがあった。
 私も、もともと自分が口数の多い人間ではなかったので、意見交換の場では彼のひょうきんな明るさに救われた。私が考えに詰まっているところを、フォローしてくれるように「他のみんなはどう思う?」と口を開くのだ。
『さっきはありがとう。助けてくれて』
 講義が終わった後、教室の出入り口のところで初めて碧に話しかけた。
『助けたというか、茅野さん、あの時真剣に意見をまとめてたでしょ。もう少し時間が必要かと思って』
 私は、その場で息をのんだ。
 ひょうきんな明るさの裏に窺える思慮深さ。この人の隣にいることができれば、息がしやすくなると感じた。
 それからというもの、私はその講義の時間が来るたび、碧の近くの席に座った。碧に、鬱陶しいと思われているかもしれないと、正直不安だった。でも碧が、三回目の講義の後に、「今日の夜ご飯、一緒に食べない?」と誘ってくれて、不安は吹き飛んだ。
 私たちの時間は、ゆっくりと過ぎ去っていった。
 一年生から二年生になり、同じ講義をとることも多く、二人で教授の話を聞き、学期末テストの前には一緒にテスト勉強をした。レポート課題も、互いに意見交換をしながら作成した。
 いつからかお互いに両想いだと感じていたような気はするけれど、結局交際を始めたのは二年生の冬だった。
「私、すごく乾燥しいなんだよね。ハンドクリーム、いいの探してたから本当にありがとう。大切に使うね」
「そうか。良かった。ハンドクリームなんて、たくさんもらいすぎて余ってるかもってちょっと心配だったからさ」
「ううん。全然。それに、余ってたとしても、碧にもらったこれは、特別だから」
 私はその場でオーガンジーの袋を開けて、サクラクリームを両手のひらと甲に塗った。さらさらとした使用感で、ほんのりと甘すぎない桜の香りが鼻腔をくすぐった。
 それからだ。
 私が碧に、毎年同じハンドクリームをホワイトデーのプレゼントでもらうようになったのは。
 碧のチョイスではない。私が毎年リクエストをしたのだ。その間に、女友達からもいくつかハンドクリームをもらう機会があった。 私の部屋には色とりどりのハンドクリームが溜まっていった。
 だけど、碧がくれるハレルヤのサクラクリームだけは、特別だった。
 やっぱりものが良いから使いたくなるのかと考えたけど、そうじゃない。
 友達からもらったハンドクリームだって、良いものはたくさんあった。
 それでも碧のハンドクリームを使い続けていたのは、その晴れやかな香りをかげば、碧の一番近くにいられる気がしたから。