余っていたのは、恋のほう


「ただいまー」
 夜八時、一時間ほど前に帰宅した私が晩ご飯をつくっていたところへ、悠人が帰宅した。
 同棲二日目の夜、結婚前夜。
 それだけで心がそわそわとしてしまうのに、昼間に智恵美と話したことがいっそう私の胸をざわつかせた。
「お、今日は肉じゃがか。いいね」
 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しながら悠人が匂いだけで今日の晩ご飯を言い当てた。
「うん。一番得意だから」
「そうなんだ。知らなかった」
 ぐつぐつと鍋の中で沸騰する煮汁を見ながら、「知らなかった」という彼の言葉が頭の中で繰り返し再生される。
「そういえば、明後日は友達と飲みにいくから、夕飯はなしで大丈夫」
 肉じゃがが完成して、食卓に盛り付けた料理を並べている時に、彼が言う。
「あら、そうなんだ」
 明後日の夜の予定をちゃんと知らされる。それってだいぶありがたいことなんだろう。
 結婚をしている友人の中には、「夕飯をつくった後に会社の人と飲みにいくと言われるのが腹立つ」と嘆く人も多い。それに比べたら、悠人はとても親切だ。
「友達って、大学の?」
「そうそう。ゼミ仲間と今でも時々集まってて。男女五人なんだけど、いまだにわちゃわちゃしてる。モラトリアムの続きみたいで、バカみたいだろ」
「へえ、男女五人で。いいじゃん、楽しそう。私はそういう複数人の仲良しグループみたいなのがないから、羨ましいよ」
 本心だった。複数人のグループよりも一対一での人間関係を好む私は、悠人の話を聞いて純粋に楽しそうだなと思う。
 それと同時に、私の知らない悠人がいる、と胸にちくりとした痛みを覚えた。
 当たり前なのに。
 私と悠人は出会って九ヶ月しか経っていないのだ。お互いの人生のほとんどを知らないのだと、ふと思い知らされて、じんと耳の奥が鳴った。
 心の中で小さな泡みたいに湧き立ってくる違和感に、見て見ふりをしながら、椅子に座り「いただきます」と手を合わせた。
 合わせた両手の五本の指先が、かさかさに乾燥していることに気づく。 
 昼間に智恵美に貸してもらったハンドクリームを塗ってから、塗り直していない。水仕事のせいでとっくにハンドクリームの効果は切れてしまっていた。
 悠人といる時、多少乾燥しているなと思っても「まあいいか」と思ってしまう。
 前は……碧と付き合っていた頃は、手の乾燥も髪の毛の乾燥も、目の下のクマも体型の変化も見た目に関することはすべて気になって、お手入れを頑張っていたというのに。
 無視しようとしても、次から次へと“間違い探し”をしてしまう。
「なごみ、どうかした?」
 両手を合わせたままじっと固まっている私を見て、悠人が心配そうに眉を下げて聞いた。
「な、なんでもない。ちょっと仕事のことを考えちゃって」
「そう。なごみの会社、今繁忙期だっけ?」
「うん……というか、単に私が忙しいだけかも」
 適当な返事をして、悠人は何かを察したように瞬きを繰り返していたが、やがて「そっか。大変だね」と優しく同情してくれた。
 そのやわらかな声音に、ずきりと心臓が痛む。
「明日は十時ぐらいでいいかな? 区役所に行くの」
「うん。いいよ。私は午後から出勤にしてるから」
「俺も。婚姻届を提出するだけだけど、なんか緊張するね」
「紙一枚提出したら、自分が“島崎”になるなんて信じられない」
 本当に、信じられないよ。

——もし私が碧と結婚したらさ、“東崎”になるんだ。想像したらくすぐったいね。

 まだ「結婚」など、自分以外の誰かの特権だと思っていた、大学時代。
 付き合いたての男女だからこそ軽く笑いながらできる会話を、私は碧に振りかけた。

——そうだな。不思議だよな。

 へへ、と軽やかに笑いながら、当たり障りのない返事をしてみせた碧。 
 あの時、碧の心に何が浮かんでいたのか——いつも、何度でも考えてしまう。別れてから、その疑問は空気を取り込んだ気球みたいにどんどん大きく膨らんでいた。

「明日から、よろしくお願いします」
 悠人が、商談の時にするみたいに、恭しく頭を下げてみせた。
 私もつられて「よろしくね」と小さくお辞儀をする。二人して、顔を見合わせて笑った。なんだこの儀式、とははっと笑い飛ばした。その間は、心の中のぐちゃぐちゃを忘れられる気がした。

 夜十一時、悠人と揃ってベッドに横になる。
「俺さ、絶対なごみが心の底から結婚してよかったって思えるような男になるから」
 私の頬にキスをしながら、悠人が決意に秘めたまなざしで言う。
「なごみが死ぬ時に、俺のことしか思い出せないような人間になる」
「ふふ、なにそれ」
「そうなったらいいなって、思っただけ」
 悠人の優しい声も、男らしい決意も、すべて本物だと分かっていた。
 悠人が今、私のために苦手な料理を習得しようと頑張ってくれていることも、家事を率先してやろうとしてくれていることも知っている。苦手なことは動画で調べたり、友人に聞いたりしているらしい。その健気な努力を思うと、すんと泣けてきた。
“なごみが死ぬ時に、俺のことしか思い出せないような人間になる”
 その言葉を胸の奥のほうで反芻する。
 悠人が私の頭を撫で、優しい吐息をかける。
 私はすっと目を閉じて、おそらく死ぬ間際に思い出すであろう、あの人のことを思い返していた。
 思い返してしまっていた。