余っていたのは、恋のほう

“コーヒーに何か入れる?”——と悠人に聞かれたのは、今朝のことだ。

 スマホで朝から上司に業務連絡をしていた私は、反射的に『え、なんで?』と聞き返してしまった。
『なんでって、なごみがブラックコーヒー派なのかそうでないのか、知らないから』
『あぁ』
 そうか、とそこで初めてスマホの画面から顔を上げた。
 悠人とは、昨日から同棲を始めたばかりだ。
 頭では分かっているはずなのに、他のことで気を取られていた私は、何気なく「なんで?」と聞いてしまった。
 だって、()と付き合っていた時間が長すぎて、そんな些細なことを聞かれるのが久しぶりだったから。
 聞かなくても、()は私のすべてを理解してくれていた。悠人とは違って、身長は169cmと男性にしては低めで、失礼だが顔も格好良いとは言いがたい。それでも私は、()のことがとても好きだった。
 二十歳から二十七歳まで、七年という年月を共に過ごした元恋人である彼——東崎碧(ひがしざきあお)が、お別れしてから三年経った今でも自分のすぐ近くにいるような感覚に陥っている。
 実際はもう、雲よりも遠い存在だというのに。
『言ってなかったね。私、朝はコーヒーに牛乳を入れるの。半分ずつぐらい』
 スマホの画面を指で閉じて、淡々と要求を言う。
 悠人はすぐに『分かった。そうするよ』と冷蔵庫から牛乳を取り出して、出来立てのコーヒーに注いでくれた。私の好みをちゃんと聞いて、カフェオレをつくってくれる悠人はやっぱり素敵だし、確実に良い男だ。
『ありがとう』
 カップを受け取った私は、まだ完全に混ざりきっていない牛乳の白を見つめなら、じわり、と胸に染みができていくのを感じた。
 明日、結婚をする私たちの間には、染み一つない純粋な愛があるはずなのに。
 私のそれは、どこか歪なかたちをしていて、色だって白くない。 
 純白のドレスなんて、きっと私には似合わないのだと思う。
 だから私は、悠人からの結婚式をするかどうかという質問に、ずっと答えられずにいた。

——俺だって頑張ったんだ……。××したいって、そういう気持ちになろうとしたのに。

 かつて恋人が放った言葉が、脳裏にこびりついている。
 どんなに年月を重ねたって、どんなに悠人への愛を育んだって、きっとそれは消えない。
 心の染みは残り続ける。
 いつしかその染みが、悠人の心まで汚してしまうような気がして怖かった。
 私は明日、本当に悠人と結婚するのだろうか。
 紙切れ一枚を役所に提出して?
 それだけで、私と悠人は家族になるの? そんな簡単なことなの、結婚って。
 七年。碧と一緒にいた時間は、そんな単純な作業で済ませるとのできるゴールに、たどり着くことができなかった。きっといつからか、七年の時間こそが、私たちの未来を阻んでいるのだということに、気づかないふりをしていたのだ。

「……さん。なごみさん」
 肩を揺さぶられて気づく。
 いつのまにか、智恵美の顔が間近にあった。
「大丈夫ですか? さっきからなんか、心ここにあらずって感じです。あ、もしかしてアレですか。マリッジブルーってやつ」
「……そうかも」
 私のこの胸のもやもやは、彼女の言う通りありふれたその現象の一つなのかもしれない。けれど、陳腐な言葉で終わらせたくない何かが、確かに胸の中で燻っていた。
「でも、いいな〜羨ましい。超優良物件ですよ、島崎さん」
 智恵美が目を細めて「うんうん」と頷きながらうっとりとしている。結婚願望が強い彼女には、確かに悠人と結婚できるということが、かなりのアドバンテージに見えるだろう。
 いや、智恵美だけじゃない。
 きっとこの先私は結婚報告をする人たちみんなに同じ反応をされる。同性からは羨ましがられる未来がはっきりと見えた。
「はは、ありがとう」
 無難な返事しかできない。
 私が悠人と結婚することに喜び以外の気持ちを抱えていたとしても、それはすべて“マリッジブルー”ということで片付けられるのだろう。
「あ、早く食べないと昼休憩終わっちゃいますね」
 智恵美がふと思い出したように時計を見つめながら言う。
「そうだね。食べよ。もりもり食べよ」
「なんですか、それ。なごみさんの表現、時々おかしいです」
 軽やかに笑いながらまた唐揚げを一つつまむ智恵美はきっと、私の心中を察してわざと明るく振る舞ってくれているのだろう。
 そんな智恵美の優しさに感謝しながら、心の中で、「あと二十一時間」とつぶやいた。 
 明日の午前中に半休をとって区役所に婚姻届を提出しにいくまでの時間。
 私が悠人と、家族なるまでの、嘘みたいな残り時間。