余っていたのは、恋のほう

「ありがとう。これでなんとかなる気がする」
「なんとかって、あかぎれが、ですか?」
「それもあるけど……。まあ、いろいろとさ」
「もしかして、結婚のことですか? そういえばなごみさん、もうすぐ結婚するって言ってましたよね。具体的にいつするんですか?」
 結婚の話を自らぶちこんで、目をきらきらと輝かせる智恵美。結婚に対する憧れが滲んでいて、やっぱり可愛らしい子だな、と思う。
「えっとね、実は明日」
「え!?」
 漫画みたいにぴょんっと身体を跳ねさせる智恵美がおかしくて、私は思わず笑みがこぼれた。
「あ、明日って、明日ですよね?」
 おかしな日本語を発する智恵美に、私は「うん」と頷く。
「ひょえ〜……そうなんですね。知らなかった」
「職場の人にはほとんど伝えてないからね」
「なるほど。少し早いですが、ご結婚おめでとうございます。末長くお幸せに、です」
 智恵美がしおらしくお祝いの言葉を言ってくれるのを聞いて、「ありがとう」と答えつつ、心の中ではそうか、とはっとした。
 私はこれから、何度もいろんな人とこういうやりとりをするのか。
“結婚しました”
“おめでとう”
“幸せになって”
“はい、ありがとうございます”
 なんでもない事務的なやりとり。
「結婚」なんていう非日常なイベントは、こうして簡素な言葉のやりとりだけで片付けられていく。でも別に、それが不満なわけじゃない。むしろ、それ以上大袈裟にお祝いをされるのは私の性格に合っていないし、これぐらい気軽に言われるほうが気が楽だ。
 学生時代の友人の中には、インスタで友達から盛大に結婚を祝ってもらっている人もちらほら見かけるが、私にはそれが重いと感じてしまった。
 どうしてだろう。
 結婚したいとずっと思っていたはずなのに。
 三十歳で結婚できることが、幸せだと感じているはずなのに。
 幸せな人生の出来事を、大切な友達や家族、同僚たちに祝ってもらうことを、どうして少し鬱陶しいと思ってしまうのだろう——。
「なごみさんの旦那さんになる人って、N飲料の営業の方ですよね」
「ええ。智恵美、見たことあるっけ?」
 私は目をすっと細くしながら尋ねる。
「前にうちに商談に来てる時に、見かけました。なんならご挨拶もしました。すらっと背が高くて、挨拶も朗らかで、格好良いなと思ってたんです。別に狙ってたわけじゃないですよ?」
「言われなくても分かってるよ」
「ふふ、そうですか。確かお名前は——島崎(しまざき)さん、ですよね」
 私はこっくりと頷く。
 島崎悠人(ゆうと)
 それが私の恋人で、明日から夫になる予定の人の名前だった。
「しっかり名前まで覚えてるじゃん」
「だって、それぐらい印象的な方だったんですよ! まさに、大企業の営業マンって感じで、爽やかで素敵な人だなって思いました。未婚なのが信じられないぐらい」
「それはまあ、確かにそうだね」
 私も、初めて悠人に出会った時、智恵美と同じことを思った。
 新商品の営業をしに来たというN飲料の商談に初めて立ち会ったのは、今から九ヶ月前のことだ。
 私の会社の営業の男と私と、二人で商談に入ることになった。
 そこにやって来たのが、悠人だった。
 初めて彼を見た瞬間、「これはだめだな」と心にスイッチが入らないように、まずシャッターを閉じた。一つ前の恋が終わってから、同年代ぐらいの男性と会うたびに、こうして心のシャッターをまず下ろすということが度々あった。
 恋をしないための、心のシャッター。
 だって、アラサーの私が出会う“良い男”は、すでに恋人持ちか、既婚者であることがほとんど。恋をしてしまったら、苦しくなる未来が容易に予想できた。だから最初から心に蓋をして、「この人とは恋をしてはいけない」と自分の中で線引きをするのだ。
 心を閉じてようやく、ニュートラルに接することができる。
 恋をしたっていいことなんて一つもない。
 そう何度も自分に言い聞かせた。
 それなのに、彼は。 
 島崎悠人という人間は、簡単に私の心の扉をこじ開けた。
『連絡先、教えてもらえませんか?』
『それなら、名刺にアドレス載ってます』
『そうじゃなくて。茅野(かやの)さんの——プライベートのほうの連絡先』
 ちょっとだけ控えめな声量で、でも瞳はまっすぐにこちらに向けて、エレベーターの前で彼はそう言った。こちらの営業の男は、スケジュールが詰まっているからと早々に姿を消した後だった。
 まんまとしてやられた気分だった。
 プライベートの連絡先なんて教えまい——そう固く決意ができたら良かった。
 でも、相手のほうからそんなことを聞いてくるということは、少なくとも特定の交際相手や配偶者はいないのだと瞬時に理解した。
 理解した途端、しっかりと閉じたはずの心のシャッターがすっと開いてしまったのだ。
『分かりました。交換しましょう』
 私が頷いた瞬間、悠人は「やった」と少年のようにはにかんだ。 
 その笑顔を、この先何度も見たいと思ってしまった。
「いいなぁ、島崎さん! めっちゃ素敵な人じゃないですか。親に紹介する時も、何も気にすることないですよね」
「それは、ぶっちゃけ、そうだね」
 出会って三ヶ月目に悠人からの告白で交際をスタートさせ、付き合って半年でゴールイン。
 まさか自分でもこんなにとんとん拍子に結婚まで漕ぎ着けるとは思ってもみなかった。
 それもこれも、悠人が“良い男”だからだ。
 両親に彼を紹介すると、二人は手放しで喜んだ。
『素敵な人を見つけたじゃない』
『なんで今まで言わなかったんだ』
 有名国立大学を卒業して、大手飲料メーカーで働く悠人。営業マンゆえ会話もしっかりとしていて、時折ユーモアさえ混ぜて話してくれる。
 そんな悠人が娘の結婚相手だと知った二人は上機嫌で、踊り出しそうな雰囲気だった。
『なごみ、悠人くんを手放すんじゃないぞ』
『そんなの分かってるって』
 そういうセリフ、大抵は男の親のほうが言うもんじゃないの?
 と、心の中でつっこみながら、でも二人の言うことは間違っていないのだと思う。
 私は悠人を手放してはいけない。
 こんなに素敵な人が夫になる人生なんて、そうそう手に入らないんだから。
 ……と、頭では分かっているはずなのに、どういうわけか、心の底から幸せだと思えない自分がいることに気づく。
 いや、違う。
 幸せなのは間違いない。
 でも、この人といる時が人生で一番幸せ(・・・・・・・・・・・・・・・)とは思えなかった。