きめ細やかな石鹸の泡を手の甲に乗せた途端、ひりりとした細い痛みが皮膚の内側を這うように走った。
「いたっ」
痛みを感じてからやや遅れて、口から悲鳴ともつかない声が漏れる。
隣で同じように女子トイレの手洗い場で手を洗っていた後輩の星川智恵美から、「なごみさん大丈夫ですか?」と顔を覗き込まれた。
「だ、大丈夫」
智恵美の指の宝石みたいなネイルを見ながら答える。
確か、マグネットネイルというやつだっけ。
ぷっくりと立体的なフォルムに、細かいラメを散りばめたような光沢感のある輝きを放つネイル。微細な鉄粉を含んだジェルやポリッシュを塗布して、好みのデザインをつくるそうだ。
「怪我でもしたんですか」
「そうみたい。ただのあかぎれだと思うから、気にしないで」
そう言いながら、今度は自分の右手の泡を洗い流して、甲をじっと見つめた。人差し指の付け根の骨のところが、ぱっくりと割れていた。
今朝、こんなあかぎれあったっけ?
よく見れば、手の甲だけじゃなくて、指先もいくつか切れていた。
左手も同じ。いつの間に、こんなに傷ができていたんだろう。
「乾燥ひどいですからね。寒さも乾燥も、どっちも早く終わってほしいです」
「寒いのが終わったら、今度は花粉の季節になるんじゃない?」
「うわ、本当だ。サイアクです。引きこもりたいです」
うぅ、とわざとらしく呻く智恵美。彼女は今年で二十六歳という若さだが、最近よく「結婚したい」と嘆いているのを聞く。
彼女が泣き言を言うたび、私は「智恵美なら絶対すぐ結婚できるよ」と背中を押すのだ。
「本当ですか? その言葉、信じますよ?」と、彼女は常に疑り深そうに、けれどほのかな喜びを湛えながら、私を見つめ返した。
大丈夫に決まっている。
だって智恵美は可愛いもの。
ふんわりとゆるくウェーブを描く長い髪も、艶やかなネイルの施された爪も、紅すぎず上品なリップもすべて、研究し尽くされた美を纏っているとしか言いようがない。その上、話してみると素朴だし先輩を立ててくれるところもある。見た目とは裏腹に口調はさっぱりとしているところも好感を持たれるだろう。
そんな智恵美と違って、私は——。
「なごみさん、嫌なことは忘れて早くご飯食べましょうよ。私もうお腹ぺこぺこ」
「うん、そうだね。私もお腹すいた」
ハンカチでさっと手を拭くと、ひりついていた痛みはすぐに引いていった。
ランチルームで智恵美と二人でお弁当箱を開ける。外食チェーン企業の本部、マーケティング部署に所属する私と智恵美は一緒のチームで仕事をすることが多く、会社では一番仲が良い。こうして一緒にお昼ご飯を食べるのは毎日のことだった。
「ハンドクリームでも塗ったらどうですか? その手」
卵焼きを箸でつつきながら、不意に智恵美がそう言った。
私は頭の中で「ハンドクリーム」という横文字を何度か反芻する。
「よかったら私の使います? これ、ハレルヤの新作なんですよ」
“ハレルヤ”とは、二十代女子に人気のコスメブランドの名前だ。ハンドクリームの他にも、スキンケア商品やヘアケア商品を売っている。「雨の日でも気分は晴れに」というコンセプトで、女子ウケするコスメを生み出している。
智恵美がポケットから当然のようにハンドクリームを取り出したことに驚きつつ、私は「いや、大丈夫」と首を横に振った。
「ハンドクリームなら家にたくさんあった気がするから」
「そうですか。余っちゃいますよね。ハンドクリームって」
「うん、余る。人からたくさんもらうんだよね、ハンドクリーム。プレゼントにちょうどいいから、みんなよくくれるの」
「ハンドクリーム」という言葉を舌の上で久しぶりに転がしながら、自宅にあるハンドクリームを思い浮かべる。どれも智恵美が言うように人からもらったものだ。せっかくなら新しいものでも買おうかとスマホで「ハンドクリーム 人気」と検索をかけたら、先ほど智恵美が見せてきたハレルヤの公式サイトの記事が目に飛び込んできた。
「あれ……このハンドクリーム、製造終了したんだ」
それは、ハレルヤが二ヶ月前に発表した記事だった。
見慣れたサクラの香りのハンドクリームのパケージの写真と共に、「2025年12月をもちまして製造を終了いたしました」という文言が添えられていた。
「あっ、このサクラクリーム、私も好きだったんですよねー。レギュラー商品だったし、迷ったら必ずこれを買ってたんですけど終わっちゃったみたいですね」
少しだけ寂しそうに声のトーンを下げる智恵美だったが、彼女の手には新作のハンドクリームが握られている。
「これ、私もずっと使ってた」
ハレルヤのサクラクリーム。
現物が目の前になくても、香りや手触りを瞬時に思い出すことができる。
だってこのハンドクリームは、大切な人から初めてもらったプレゼントだから。
……いや、違う。
大切だった人からもらったプレゼント。
その人は私の——。
「どうかしましたか?」
スマホを見つめたまま微動だにしない私を訝しく思ったのか、智恵美が私の目の前でひらひらと手を振った。
「いや、なんでもない。ハンドクリーム、やっぱり使わせてもらってもいい?」
「え? はい、いいですよ。どうぞ」
差し出された新作のハンドクリームを手に塗り込む。傷のところは避けて、満遍なくクリームを広げていった。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、甘いチョコレートのような、それでいて爽やかさを感じる不思議な香りだった。未だかつて嗅いだことのない匂いだが、とても心地よく感じた。
「いたっ」
痛みを感じてからやや遅れて、口から悲鳴ともつかない声が漏れる。
隣で同じように女子トイレの手洗い場で手を洗っていた後輩の星川智恵美から、「なごみさん大丈夫ですか?」と顔を覗き込まれた。
「だ、大丈夫」
智恵美の指の宝石みたいなネイルを見ながら答える。
確か、マグネットネイルというやつだっけ。
ぷっくりと立体的なフォルムに、細かいラメを散りばめたような光沢感のある輝きを放つネイル。微細な鉄粉を含んだジェルやポリッシュを塗布して、好みのデザインをつくるそうだ。
「怪我でもしたんですか」
「そうみたい。ただのあかぎれだと思うから、気にしないで」
そう言いながら、今度は自分の右手の泡を洗い流して、甲をじっと見つめた。人差し指の付け根の骨のところが、ぱっくりと割れていた。
今朝、こんなあかぎれあったっけ?
よく見れば、手の甲だけじゃなくて、指先もいくつか切れていた。
左手も同じ。いつの間に、こんなに傷ができていたんだろう。
「乾燥ひどいですからね。寒さも乾燥も、どっちも早く終わってほしいです」
「寒いのが終わったら、今度は花粉の季節になるんじゃない?」
「うわ、本当だ。サイアクです。引きこもりたいです」
うぅ、とわざとらしく呻く智恵美。彼女は今年で二十六歳という若さだが、最近よく「結婚したい」と嘆いているのを聞く。
彼女が泣き言を言うたび、私は「智恵美なら絶対すぐ結婚できるよ」と背中を押すのだ。
「本当ですか? その言葉、信じますよ?」と、彼女は常に疑り深そうに、けれどほのかな喜びを湛えながら、私を見つめ返した。
大丈夫に決まっている。
だって智恵美は可愛いもの。
ふんわりとゆるくウェーブを描く長い髪も、艶やかなネイルの施された爪も、紅すぎず上品なリップもすべて、研究し尽くされた美を纏っているとしか言いようがない。その上、話してみると素朴だし先輩を立ててくれるところもある。見た目とは裏腹に口調はさっぱりとしているところも好感を持たれるだろう。
そんな智恵美と違って、私は——。
「なごみさん、嫌なことは忘れて早くご飯食べましょうよ。私もうお腹ぺこぺこ」
「うん、そうだね。私もお腹すいた」
ハンカチでさっと手を拭くと、ひりついていた痛みはすぐに引いていった。
ランチルームで智恵美と二人でお弁当箱を開ける。外食チェーン企業の本部、マーケティング部署に所属する私と智恵美は一緒のチームで仕事をすることが多く、会社では一番仲が良い。こうして一緒にお昼ご飯を食べるのは毎日のことだった。
「ハンドクリームでも塗ったらどうですか? その手」
卵焼きを箸でつつきながら、不意に智恵美がそう言った。
私は頭の中で「ハンドクリーム」という横文字を何度か反芻する。
「よかったら私の使います? これ、ハレルヤの新作なんですよ」
“ハレルヤ”とは、二十代女子に人気のコスメブランドの名前だ。ハンドクリームの他にも、スキンケア商品やヘアケア商品を売っている。「雨の日でも気分は晴れに」というコンセプトで、女子ウケするコスメを生み出している。
智恵美がポケットから当然のようにハンドクリームを取り出したことに驚きつつ、私は「いや、大丈夫」と首を横に振った。
「ハンドクリームなら家にたくさんあった気がするから」
「そうですか。余っちゃいますよね。ハンドクリームって」
「うん、余る。人からたくさんもらうんだよね、ハンドクリーム。プレゼントにちょうどいいから、みんなよくくれるの」
「ハンドクリーム」という言葉を舌の上で久しぶりに転がしながら、自宅にあるハンドクリームを思い浮かべる。どれも智恵美が言うように人からもらったものだ。せっかくなら新しいものでも買おうかとスマホで「ハンドクリーム 人気」と検索をかけたら、先ほど智恵美が見せてきたハレルヤの公式サイトの記事が目に飛び込んできた。
「あれ……このハンドクリーム、製造終了したんだ」
それは、ハレルヤが二ヶ月前に発表した記事だった。
見慣れたサクラの香りのハンドクリームのパケージの写真と共に、「2025年12月をもちまして製造を終了いたしました」という文言が添えられていた。
「あっ、このサクラクリーム、私も好きだったんですよねー。レギュラー商品だったし、迷ったら必ずこれを買ってたんですけど終わっちゃったみたいですね」
少しだけ寂しそうに声のトーンを下げる智恵美だったが、彼女の手には新作のハンドクリームが握られている。
「これ、私もずっと使ってた」
ハレルヤのサクラクリーム。
現物が目の前になくても、香りや手触りを瞬時に思い出すことができる。
だってこのハンドクリームは、大切な人から初めてもらったプレゼントだから。
……いや、違う。
大切だった人からもらったプレゼント。
その人は私の——。
「どうかしましたか?」
スマホを見つめたまま微動だにしない私を訝しく思ったのか、智恵美が私の目の前でひらひらと手を振った。
「いや、なんでもない。ハンドクリーム、やっぱり使わせてもらってもいい?」
「え? はい、いいですよ。どうぞ」
差し出された新作のハンドクリームを手に塗り込む。傷のところは避けて、満遍なくクリームを広げていった。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、甘いチョコレートのような、それでいて爽やかさを感じる不思議な香りだった。未だかつて嗅いだことのない匂いだが、とても心地よく感じた。



