堕ちた公主は救国の后になる

「私達のせいなのか?」
「違います。私は元々、こんな感じで……」

 懐から、ぼろの手巾を取り出して、手を拭う。
 意識が遠くなりそうなのを奮い立たせて、志遠を一瞥すると、彼は強く唇を噛みしめていた。

「李宝が貴方の力を酷使させているのか?」
「志遠様。その……お気持ちは分かりますが、今は時間がありません」

 雨露が身支度を整えながら、志遠を促した。
 二人に毒を盛ったのは、陛下だ。
 敵だらけの宮城に留まり続けるのは、自殺行為に他ならない。

「そうです。早くお逃げ下さい。外延には出られそうですか?」
「出られますよ」

 即答したのは、雨露だった。

「外延まで辿りつけたら、俺の伝手もあります。宮城の外に出ることは容易いはず。問題は、後宮からの逃走方法ですが……。抜け道については、先帝から聞いたことがあるんですよね? 志遠様」
「あ、ああ。そうだな。父から聞いたことがある」

 短く答えるものの、志遠は岩のようになって動かなかった。

「志遠様。行きますよ」
「雨露、お前が一人で行け」
「……莫迦なのですか?」

 とんでもなく不敬な物言いをした雨露は、溜息と共に叩頭した。

「主様。無礼は承知で、お伝えします。ともかく、今は生き延びることが先決です。流々様を救うのも、その後です」
「その後?」

 ぴくりと、志遠のこめかみが動いた。

「怖いな」

 慄きながらも、雨露は言葉を止めない。

「お分かりになるでしょう? 流々様だって、こんな身体で逃亡する方が、命に関わりますよ」
「そうです」

 私も慌てて立ち上がった。

「志遠様。私のことは気になさらず、行ってください」
「こんな状態の貴方を、一人残していけというのか?」
「全員、捕えられてしまっては、私が治療した意味がありません」
「私が貴方を担いで行こう」
「莫迦でしたね」

 強引に私を抱きかかえようとした志遠の腰を、雨露が両手で掴んだ。

「もう! 志遠様。流々様を困らせてはいけません」
「うるさい! 放せ!」

 ――と、その時、こちらに近づいてくる沓音がした。
 金属音はしないから、武器の携帯はしていないようだ。

「流……々?」
「お静かに」

 息を潜めて、やり過ごすことにする。
 
(やはり……)

 私の戻りが遅いから、女官たちが幻季殿の周りを探しているらしい。

「もう、あのお荷物女、何処に行ったのよ?」
「阿南宮で何かあったみたいだし、脱走でもしたんじゃ?」
「無理よ。あの身体じゃ、何処にも行けないでしょう。むしろ、その辺りで死んでるかもしれないわよ?」
「やだ。誰が死体の始末をするのよ」

 特徴のある鼻にかかった声だったから、誰なのか、すぐに分かった。
 普段から、過度に私を虐げる二人組が、捜索を頼まれたようだ。

「何だ。あいつらは? 流々、なぜ名乗……」

 ……とまで、口にして、志遠が押し黙った。
 身分を明らかにしたところで、正妃が主導しているのなら、意味なんてない。
 かえって、苛めが過酷になることに、彼は気付いたのだ。 

「いいのです。志遠様」
「よくない。私は絶対に許さない」
「いいのです。貴方が怒ってくれただけで、私は充分」

 今生の別れなら、暗い顔をしていたくない。

 ――笑って。

 ただ一途に志遠を慕っていたあの頃のように……。
 私はにこっと、口角を上げた。

「私、戻ります」
「駄目だ。流々」

 志遠が私に向かって手を伸ばすが、猛獣を繋ぎとめるように、雨露が志遠を羽交い締めにして逃さなかった。
 だけど、私には分かっていた。
 本気で、志遠が私を連れ出そうとしているのなら、雨露から逃れて、私の手を掴むこともできるはずなのだ。
 それができないのは、彼もまた躊躇しているからだ。

「志遠様。今夜は災難でしたが、でも、私は少しでも、貴方に会えて嬉しかった。長年抱えていた誤解が解けたのですから……。佩玉。持っていて下さり、ありがとうございます。私のために動いてくれたこと、ありがとうございます。今も、妻だと言ってくれて……本当に、ありがとうございました」

 一息で言い放つと、私は振り返らずに厩の戸を開けて、暗闇の中を早足で歩き始めたのだった。