堕ちた公主は救国の后になる


「さあ? それは、どなたのことですか?」
「とぼけないでくれ。流々」
「……」

 しばらく黙っていたが、答えない限り、志遠は延々待ってそうだったので、仕方なく、私は頷いた。
 果てしなく感じた静寂は、地面を叩いた志遠の拳の音で破られた。

「くそっ! やられた! 叔父上め。よもや、ここまで私を愚弄するとは!」
「志遠……様」
「まったく、何を騒いでいるんですか?」

 外で怒声を聞きつけたのだろう。
 慌てて、小柄な青年が厩に戻って来た。
 従者の雨露だ。

「志遠様。お静かに。今は阿南宮を中心に探索されているようですが、程なく、こちらにやってきますよ。ひとまず、ここから脱出を……」
「雨露。これを見て大人しくしていられるか? 流々が叔父上の後宮なんかにいたんだぞ。しかも、これは下級女官の格好だ」
「……はっ?」

 きょとんとしながら、雨露が私を見た。

「もしかして、この方が志遠様の?」
「妻の流々だ。お前にも、話したことがあっただろう?」
「あれ? 志遠様の奥方は故郷の近くの離宮に移られて、健やかに暮らしていらっしゃるのでは?」
「私が……ですか?」

 そんな話、私は初耳だ。
 一体、どういうことになっているのか?

「ご存知ないようですね」
「叔父上、李宝。二人の企みだろう」

 志遠は語気荒く、告げた。

「そういう、叔父上との約束だったのだ。流々の命を助ける代わりに、私が西域に行く……と。実際、貴方付きの侍女が一斉に後宮を出るところまでは見届けたんだ」
「なるほど。つまり、侍女だけ解放して、流々様を手元に残したと?」
「ふざけた真似を……」
「そう……だったの……ですか。私は自分が交渉したつもりでいました。何でもするので、龍崙から連れてきた侍女たちの命だけは助けて欲しい……と」
「騙されたんだよ」
「では……?」

 平常心でいたつもりだったのに、いつのまにか、私の声は震えだしていた。

「……私は、捨てられたわけではないのですね?」
「当然だ!」

 顔色を変えて、志遠が叫んだ。

「貴方を捨てる? そんなはずがない。あの時は、叔父上の言いなりになることしか、貴方の命を救う術がなかったから、だから、私は……」
「……そうだったのですか」

 どうしてだろう。
 涙と共に、笑みが零れた。

「まるで、夢のような話です。私がもし死んでいたら、誤解をしたままだでした」
「やめてくれ。私は悪夢を見ているようだ。私が貴方を捨てた? 李宝が貴方に吹き込んだのか?」
「正妃様は私を恨んでいるのです。元々、嫌われてはいましたが、私が玉明様をお救いできなかったから、益々……」
「玉明……様」

 それは、五年前に亡くなった太子の名だ。
 志遠にとって従弟にあたる、正妃様と陛下の御子。
 私は太子様を救うことができなかった。
 正妃の私に対する暴力は、その一件以来、一層、過激になったのだ。

「人を癒す力……。それが貴方にあることを、李宝が知ってしまったわけか」
「私の力は、万能ではありません」

 後に続く言葉を口にすることは出来ず、私は一つ咳をした。

「……あ」

 掌が真っ赤だ。
 力の使いすぎで、喀血したのだ。

「流々?」

 私よりも青い顔で、志遠が尋ねてきた。