◆
佩玉は龍崙の王族が天后の子孫であることを表す大切な身分証であり、いざとなった時の御守りだった。
物心ついた頃から、婚姻する時まで、毎日祈りを注いでいく。
翡翠の玉に清心を注ぎ続ければ、一生に一度だけ、神后が護ってくれると言われていた。
――それが、今、私の前ある。
いくら私が鈍くても、その佩玉を身につけていて、以前の面影を宿している人物の正体が分からないはずがない。
「志遠様」
(一生に一度だけの御守りが機能した?)
そんなことが本当にあるのか?
そもそも、八年前に渡した佩玉を、なぜ、今も志遠は持っているのだろう?
(分からない。何も分からないわ)
頭が働かない。
身体が重怠くて、震えが止まらなかったが、最初に軽症だった小柄の男の方に癒しの手を使い、動けるようになった彼に頼んで、志遠を厩に連れて行った。
必死の治療を施したら、解毒も治癒も成功はしたけれど、私の寿命は一段と縮んだようだ。
はあ……と、私が壁に寄りかかって、深い息を吐いていたら、それに呼応するように……。
「……ん?」
志遠が身じろぎをして、薄目を開けた。
私はとっさに括っていた髪を解いて、顔を隠してしまった。
「お目覚めですか?」
「ああ」
頷きながら、志遠が干し草の上から体を起こした途端、私はハッとして目を逸らした。
(そうだったわ)
出血点を探すため、志遠を半裸にしてしまったのだ。
「申し訳ありません。治療のため、お召し物を……」
「ああ、構わぬ。治療してくれて、ありがとう」
「勿体ないお言葉です」
安堵した私は、ちらっと彼を見てしまった。
記憶の中で、私より小さかった少年は、美しい顔のまま、がっちりした立派な体格の男性に成長していた。
(良かったわ。傷痕が綺麗に回復している)
矢傷は完全に癒えていた。
けど、あれだけ深い傷が綺麗に治ったのは、私の力だけではない。志遠が日頃から、鍛錬を積んでいたからだ。
「……ここは?」
「後宮の厩です」
「うま……や?」
辺りを見渡し、ニ頭の馬を発見した彼はようやく納得したようだ。
「厩だな」
「調教されていますので、ここの馬は穏やかなのです」
「そうか。後宮の。……ということは?」
「ここは比華殿。私はそこで女官をしている者です」
「なるほど。李宝様の宮殿か。しかし、そんなところに、なぜ私は?」
昔、志遠は後宮で暮らしていた。
今、自分が何処にいるのか、位置関係を把握したのだろう。
「確か、私は阿南宮で毒を盛られて……。あれから、どのくらい経ったんだ? 雨露も一緒だったはずだが?」
矢継ぎ早に質問を投げかけられた私が、きょとんとしていると、志遠は「失礼した」と、こんな時なのに、丁寧に謝罪をしてくれた。
(変わってないのね)
お前は夫に捨てられた……と、正妃からは毎日、言われていたけれど。
(この方は、変わっていない)
私は声色を変えて、丁寧に答えた。
「従者の方は、雨露様とおっしゃるのですね」
「あ、ああ」
「貴方を後宮で発見してから、半刻も経っていないかと思われます。雨露様は、軽傷ですぐに良くなられたので、周囲を偵察に行かれると仰って、一応、止めたのですが、出て行ってしまいました」
「まったく。あいつは……」
額を押さえて、大仰に頭を抱えている。
困った時にするその癖が、子供の頃と同じで、笑いそうになってしまったら、代わりに咳が出てしまった。
「大丈夫か?」
「平気です。ご心配なく」
「変だな。阿南宮から、後宮までは徒歩で行けるような距離ではない。しかも、私は瀕死の重傷だったはずだ。貴方はどうやって私たちを助けてくれたのか?」
「いいえ。私は」
答える代わりに、更に激しく咳き込んでしまった。
「病……なのか?」
(困ったわ)
心配した志遠が私の方に来てしまった。
「そうかもしれません。だから、私には近寄らない方が……」
「そういうわけにはいかない」
せっかく、遠ざけようとしたのに、志遠はかえって、私に近寄ってきた。
(駄目よ。私のことがバレてしまったら)
私は必死に下を向いた。
(志遠様は私のことなど、忘れてしまったでしょうけど。でも、私は……)
流々だと、名乗りたくなかった。
知って欲しいと思う反面、忘れていて欲しいと願うほどに、今の私は貧相なのだ。
しかし、志遠は間合いを詰めてくる。
結局、気が付くと、目と鼻の先に座っていた。
「何も役には立たないが、背を擦るくらいならできる」
「いいのです。直に治まりますから。放っておいてください」
「なぜ、頑なに顔を隠す?」
「あまり、見目が良くないもので」
「そんなことはないだろう」
怖くなって顔を背けたら、志遠は回り込んで、私を覗き込んでいた。
「見ないでください」
「悪いが、私は貴方を知っているような気がして」
「……っ」
心臓が破裂しそうで、動けなかった。
間が悪く、頭上の小窓から、皓々と月明かりが注ぎ、容赦なく私の顔を照らしていく。
「やはり……」
志遠が息を呑む。
微妙な静けさが、緊張を煽った。
「流々……だろ?」
「……私は」
「流々なんだな」
(何で?)
これほど簡単に、志遠は私を見つけてしまうのだろう?
佩玉は龍崙の王族が天后の子孫であることを表す大切な身分証であり、いざとなった時の御守りだった。
物心ついた頃から、婚姻する時まで、毎日祈りを注いでいく。
翡翠の玉に清心を注ぎ続ければ、一生に一度だけ、神后が護ってくれると言われていた。
――それが、今、私の前ある。
いくら私が鈍くても、その佩玉を身につけていて、以前の面影を宿している人物の正体が分からないはずがない。
「志遠様」
(一生に一度だけの御守りが機能した?)
そんなことが本当にあるのか?
そもそも、八年前に渡した佩玉を、なぜ、今も志遠は持っているのだろう?
(分からない。何も分からないわ)
頭が働かない。
身体が重怠くて、震えが止まらなかったが、最初に軽症だった小柄の男の方に癒しの手を使い、動けるようになった彼に頼んで、志遠を厩に連れて行った。
必死の治療を施したら、解毒も治癒も成功はしたけれど、私の寿命は一段と縮んだようだ。
はあ……と、私が壁に寄りかかって、深い息を吐いていたら、それに呼応するように……。
「……ん?」
志遠が身じろぎをして、薄目を開けた。
私はとっさに括っていた髪を解いて、顔を隠してしまった。
「お目覚めですか?」
「ああ」
頷きながら、志遠が干し草の上から体を起こした途端、私はハッとして目を逸らした。
(そうだったわ)
出血点を探すため、志遠を半裸にしてしまったのだ。
「申し訳ありません。治療のため、お召し物を……」
「ああ、構わぬ。治療してくれて、ありがとう」
「勿体ないお言葉です」
安堵した私は、ちらっと彼を見てしまった。
記憶の中で、私より小さかった少年は、美しい顔のまま、がっちりした立派な体格の男性に成長していた。
(良かったわ。傷痕が綺麗に回復している)
矢傷は完全に癒えていた。
けど、あれだけ深い傷が綺麗に治ったのは、私の力だけではない。志遠が日頃から、鍛錬を積んでいたからだ。
「……ここは?」
「後宮の厩です」
「うま……や?」
辺りを見渡し、ニ頭の馬を発見した彼はようやく納得したようだ。
「厩だな」
「調教されていますので、ここの馬は穏やかなのです」
「そうか。後宮の。……ということは?」
「ここは比華殿。私はそこで女官をしている者です」
「なるほど。李宝様の宮殿か。しかし、そんなところに、なぜ私は?」
昔、志遠は後宮で暮らしていた。
今、自分が何処にいるのか、位置関係を把握したのだろう。
「確か、私は阿南宮で毒を盛られて……。あれから、どのくらい経ったんだ? 雨露も一緒だったはずだが?」
矢継ぎ早に質問を投げかけられた私が、きょとんとしていると、志遠は「失礼した」と、こんな時なのに、丁寧に謝罪をしてくれた。
(変わってないのね)
お前は夫に捨てられた……と、正妃からは毎日、言われていたけれど。
(この方は、変わっていない)
私は声色を変えて、丁寧に答えた。
「従者の方は、雨露様とおっしゃるのですね」
「あ、ああ」
「貴方を後宮で発見してから、半刻も経っていないかと思われます。雨露様は、軽傷ですぐに良くなられたので、周囲を偵察に行かれると仰って、一応、止めたのですが、出て行ってしまいました」
「まったく。あいつは……」
額を押さえて、大仰に頭を抱えている。
困った時にするその癖が、子供の頃と同じで、笑いそうになってしまったら、代わりに咳が出てしまった。
「大丈夫か?」
「平気です。ご心配なく」
「変だな。阿南宮から、後宮までは徒歩で行けるような距離ではない。しかも、私は瀕死の重傷だったはずだ。貴方はどうやって私たちを助けてくれたのか?」
「いいえ。私は」
答える代わりに、更に激しく咳き込んでしまった。
「病……なのか?」
(困ったわ)
心配した志遠が私の方に来てしまった。
「そうかもしれません。だから、私には近寄らない方が……」
「そういうわけにはいかない」
せっかく、遠ざけようとしたのに、志遠はかえって、私に近寄ってきた。
(駄目よ。私のことがバレてしまったら)
私は必死に下を向いた。
(志遠様は私のことなど、忘れてしまったでしょうけど。でも、私は……)
流々だと、名乗りたくなかった。
知って欲しいと思う反面、忘れていて欲しいと願うほどに、今の私は貧相なのだ。
しかし、志遠は間合いを詰めてくる。
結局、気が付くと、目と鼻の先に座っていた。
「何も役には立たないが、背を擦るくらいならできる」
「いいのです。直に治まりますから。放っておいてください」
「なぜ、頑なに顔を隠す?」
「あまり、見目が良くないもので」
「そんなことはないだろう」
怖くなって顔を背けたら、志遠は回り込んで、私を覗き込んでいた。
「見ないでください」
「悪いが、私は貴方を知っているような気がして」
「……っ」
心臓が破裂しそうで、動けなかった。
間が悪く、頭上の小窓から、皓々と月明かりが注ぎ、容赦なく私の顔を照らしていく。
「やはり……」
志遠が息を呑む。
微妙な静けさが、緊張を煽った。
「流々……だろ?」
「……私は」
「流々なんだな」
(何で?)
これほど簡単に、志遠は私を見つけてしまうのだろう?



