「お前、嫁を娶らぬか? 過去のことは、この際、忘れて……。李宝が墨に繋いでくれるそうだぞ」
「李宝様が?」
叔父の正妃は、墨の公主だ。
幼い頃、志遠は後宮に出入りすることを許されていて、彼女とも面識はあった。
しかし、墨国から妻を娶らせようとするとは、厚顔無恥もいいところだろう。
朱宇は墨と共に龍崙を攻めたが、主導したのは墨だった。
妻の故郷を滅ぼした国から、後添えを娶れとは酷い話ではないか?
(まあ、この人にしてみれば、今だに私が流々を引きずっていることが、理解できないのだろうが)
叔父には、後継となる子がいない。
かつて、李宝との間に太子が一人いたが、その子が急逝して以来、子宝に恵まれていなかった。
現時点でも、王位継承権の一位は志遠だ。
(二人して、私のことが気に入らないだろう)
だから、取り込もうとしている。
頭では分かっていた。
叔父に目をつけられたくないのなら、政略結婚でも何でも受け入れるべきなのだ。
……それでも。
志遠には無理なのだ。
「申し訳ありません。今はまだ妻を娶る余裕はなさそうです」
きっぱり断ったら、隣の雨露が拳を鳴らしながら、睨んでいた。
「陛下、お待ちください。志遠様も前向きには考えておりますので」
「……雨露」
――とりあえず、一旦、承諾だけでもしておけ。
雨露の心の声が聞こえてくるようだったが、志遠が口を開く前に、叔父が小さく溜息を零していた。
「しかし……な」
長い顎鬚を擦りながら、ぽつりと言う。
「余はお前のことを微塵も疑ってはいないのだが、多数の告発が届いていてな。実はお前は西の叛乱軍と通じているのだ……と」
「……はっ?」
――今、何と言った?
「だから、婚姻でもすれば、落ち着くのではないかと、気を利かせたのだが」
「ま、待ってください。私が裏切ると?」
「お前は戦が強すぎるからな。おかしいだろう。あれだけの人数を七日も経たず、壊滅に追いやるなんて……」
そうだろうか?
(あれでも、手こずった方だと思っていたのに)
雨露がごくりと喉を鳴らして、無表情で黙り込んだ。
この男が表情を消すことは珍しい。
雨露が叔父に弁明しなかったということは、もはや、その段階ではないと、見極めたということだ。
(……まさか?)
疑念を抱いた時には、遅かった。
くらっと、視界が反転した。
激しい目眩と耳鳴りに、冷や汗がどっと全身から溢れ出す。
さすがに、志遠も確信した。
(盛られたな)
毒見はいたはずだが、指示したのが叔父ならば、いないも同然だ。
それなりに警戒はしていたつもりだが、まさか、諸侯にも知らされている酒席で、毒殺を企むとは思っていなかった。
咳が止まらず、口元を手で押さえたら、掌一杯に真っ赤な血がついた。
(致死性の毒……か。死ぬな)
雨露にも仕掛けられていたのだろう。
しきりに、えずいている。
(酒か? それとも、香か? その両方か)
こんなことになるのなら、領地に引きこもって、宮城なんかに来なければ良かった。
追放同然で、西域に送られて久しいのに、無様に殺されるために都にまでやって来るなんて、滑稽すぎるだろう。
「今まで余を支えてくれたことには礼を言おう。だが、お前に玉座はやれん。大人しく、兄上のところに行ってくれ」
叔父は冷淡にそう告げると、従者を連れて、その場から出て行ってしまった。
「なんということを……。志遠様っ」
血の気の失せた志遠を、雨露が必死に抱きかかえる。
直後に、矢の嵐が降って来た。
運良く致命傷は避けられたが、それも時間の問題だろう。
「笑えるな。雨露」
「笑えませんって!」
雨露の凄まじい怒りが伝わってきた。
(他の従者たちも、殺されてしまったのだろうか?)
……だとしたら、すまないことをした。
雨露も含めて、志遠に関わったばかりに、悲惨な目に遭わせてしまった。
(叔父の冷酷さを、私は身を持って知っていたのに)
八年前、龍崙滅亡の報告を受けた日。
叔父から何も知らされていなかった志遠は、生まれて初めて、壁を殴りつけるほど憤った。
流血した志遠の拳を、特殊な能力で治療してくれたのは流々だった。
『これで大丈夫です。多少の傷なら、私の力で治せますから』
(……流々)
意識は遠くなるのに、幼い彼女の声だけ、鮮やかに響く。
(どんな大人になったのだろうな? 貴方は)
潤んだ目で腰を見遣れば、彼女が贈ってくれた佩玉の翡翠が、微かに光ったような気がした。
(もう少しだけ、行けるか)
根拠もないのに、なぜかそんな気がして、志遠は満身創痍の身体を、気力で動かしたのだった。
「李宝様が?」
叔父の正妃は、墨の公主だ。
幼い頃、志遠は後宮に出入りすることを許されていて、彼女とも面識はあった。
しかし、墨国から妻を娶らせようとするとは、厚顔無恥もいいところだろう。
朱宇は墨と共に龍崙を攻めたが、主導したのは墨だった。
妻の故郷を滅ぼした国から、後添えを娶れとは酷い話ではないか?
(まあ、この人にしてみれば、今だに私が流々を引きずっていることが、理解できないのだろうが)
叔父には、後継となる子がいない。
かつて、李宝との間に太子が一人いたが、その子が急逝して以来、子宝に恵まれていなかった。
現時点でも、王位継承権の一位は志遠だ。
(二人して、私のことが気に入らないだろう)
だから、取り込もうとしている。
頭では分かっていた。
叔父に目をつけられたくないのなら、政略結婚でも何でも受け入れるべきなのだ。
……それでも。
志遠には無理なのだ。
「申し訳ありません。今はまだ妻を娶る余裕はなさそうです」
きっぱり断ったら、隣の雨露が拳を鳴らしながら、睨んでいた。
「陛下、お待ちください。志遠様も前向きには考えておりますので」
「……雨露」
――とりあえず、一旦、承諾だけでもしておけ。
雨露の心の声が聞こえてくるようだったが、志遠が口を開く前に、叔父が小さく溜息を零していた。
「しかし……な」
長い顎鬚を擦りながら、ぽつりと言う。
「余はお前のことを微塵も疑ってはいないのだが、多数の告発が届いていてな。実はお前は西の叛乱軍と通じているのだ……と」
「……はっ?」
――今、何と言った?
「だから、婚姻でもすれば、落ち着くのではないかと、気を利かせたのだが」
「ま、待ってください。私が裏切ると?」
「お前は戦が強すぎるからな。おかしいだろう。あれだけの人数を七日も経たず、壊滅に追いやるなんて……」
そうだろうか?
(あれでも、手こずった方だと思っていたのに)
雨露がごくりと喉を鳴らして、無表情で黙り込んだ。
この男が表情を消すことは珍しい。
雨露が叔父に弁明しなかったということは、もはや、その段階ではないと、見極めたということだ。
(……まさか?)
疑念を抱いた時には、遅かった。
くらっと、視界が反転した。
激しい目眩と耳鳴りに、冷や汗がどっと全身から溢れ出す。
さすがに、志遠も確信した。
(盛られたな)
毒見はいたはずだが、指示したのが叔父ならば、いないも同然だ。
それなりに警戒はしていたつもりだが、まさか、諸侯にも知らされている酒席で、毒殺を企むとは思っていなかった。
咳が止まらず、口元を手で押さえたら、掌一杯に真っ赤な血がついた。
(致死性の毒……か。死ぬな)
雨露にも仕掛けられていたのだろう。
しきりに、えずいている。
(酒か? それとも、香か? その両方か)
こんなことになるのなら、領地に引きこもって、宮城なんかに来なければ良かった。
追放同然で、西域に送られて久しいのに、無様に殺されるために都にまでやって来るなんて、滑稽すぎるだろう。
「今まで余を支えてくれたことには礼を言おう。だが、お前に玉座はやれん。大人しく、兄上のところに行ってくれ」
叔父は冷淡にそう告げると、従者を連れて、その場から出て行ってしまった。
「なんということを……。志遠様っ」
血の気の失せた志遠を、雨露が必死に抱きかかえる。
直後に、矢の嵐が降って来た。
運良く致命傷は避けられたが、それも時間の問題だろう。
「笑えるな。雨露」
「笑えませんって!」
雨露の凄まじい怒りが伝わってきた。
(他の従者たちも、殺されてしまったのだろうか?)
……だとしたら、すまないことをした。
雨露も含めて、志遠に関わったばかりに、悲惨な目に遭わせてしまった。
(叔父の冷酷さを、私は身を持って知っていたのに)
八年前、龍崙滅亡の報告を受けた日。
叔父から何も知らされていなかった志遠は、生まれて初めて、壁を殴りつけるほど憤った。
流血した志遠の拳を、特殊な能力で治療してくれたのは流々だった。
『これで大丈夫です。多少の傷なら、私の力で治せますから』
(……流々)
意識は遠くなるのに、幼い彼女の声だけ、鮮やかに響く。
(どんな大人になったのだろうな? 貴方は)
潤んだ目で腰を見遣れば、彼女が贈ってくれた佩玉の翡翠が、微かに光ったような気がした。
(もう少しだけ、行けるか)
根拠もないのに、なぜかそんな気がして、志遠は満身創痍の身体を、気力で動かしたのだった。



