◇
『志遠様。私、貴方と結婚できて幸せです。龍崙に戻る機会があったら、皆に自慢して回ります。私の朗君は、とても素晴らしい方なんだって』
――八年前。
ままごとのような婚姻を喜び、無邪気に笑って、志遠の手を引く少女がいた。
名を蘇 流々。
隣国、龍崙の公主だ。
朱宇王である父が身罷り、本来であれば、志遠が後継となるはずだったが、まだ幼く、母の身分も低かったため、父の弟・飛雲が朱宇王として即位する流れとなった。
無論、幼い志遠に野心などは微塵もなく、叔父が父代わりになってくれることに安堵していたくらいなのだが、しかし、叔父の方は志遠の存在を危ぶんだようだ。
早々に、臣籍にするための準備を始めた。
その一つが、流々との婚姻だった。
国王以外は一夫一妻制の朱宇国にあって、弱小国の姫君との結婚は、政略結婚に託けた志遠の権力を削ぐための策だった。
その頃になると、志遠なりに自分が置かれている複雑な立場を理解しているつもりでいたが、嫁いできた公主は、この国の不穏な様子に気づいていただろうに、天真爛漫で、志遠のことを健気に想ってくれた。
『龍崙の王族は婚姻の時に、相手に佩玉を贈り合うんです。私の直感で拵えたものだけど、貴方に似合っているみたいで良かった』
翡翠の玉の腰飾り。
朱宇では、そういった習慣がなかったから、夫婦でそんなやりとりをするなんて、知りもしなかった。
そもそも、三カ月の結婚生活の間、志遠は流々に与えられることばかりで、何一つ、彼女に贈ったものなどなかった。
(いや、一つだけあったか)
――流々の命乞いだ。
床に頭を擦りつけて、喉が嗄れるほど、叔父に訴えた。
命懸けで、誰かに懇願したのは、後にも先にも、人生であの一度きりだと確信している。
結果、志遠は西域との国境沿いの安寧州という、最も危険な領地を賜ることになってしまったわけだが……。
それも含めて、すべてが叔父の策略だとしたら、一生、志遠は叔父に敵わないだろう。
(いや、叔父上は、流々を助けてくれた恩がある。私は、戦うつもりなんて毛頭ないのだ)
だから、嫌々でも、志遠は叔父の誘いに乗って、宮城まで出向いたのだ。
――阿南宮の貴賓の間。
国王の私的場所での宴会は、西域での志遠の武功を身内で祝おうという、今更な名目のものだったが、何度も断っているのも気が引けたので、顔だけは見せておこうと、志遠なりに時間を調整して、何とか参加に漕ぎつけたものだった。
(仕方ない。叔父上に、いらぬ疑いを持たれたくないからな)
叔父は、猜疑心が強い。
自分が政を宦官に放り投げていることで、国が傾いているという事実からは執拗に目を背けているくせに 叛乱の気配にだけは敏感なのだ。
少しでも、反発するような挙動をした臣は一人残らず、粛清されてしまった。
志遠は今のところ難を逃れてはいるが、それでも、放置できないことは進言しているので、叔父が自分のことを、疎んでいることは察していた。
(とりあえず、今夜だけでも静かにしておこう)
最近、立て続けに、異民族と戦い、手柄を立ててしまったので、いらぬ注目を集めてしまっている。
叔父に対しでの振る舞いは、より慎重になる必要があった。
「志遠様。何をぼけっとされているのです? 気を引き締めてください」
「分かっている」
相変わらず、この男はうるさかった。
志遠の隣席でお小言を連発しているのは、父親の隠居に伴い、志遠に仕えることになった柳 雨露だ。
雨露は志遠より一つ年下で、聡明な分、短気で口煩い。外見は少年のようだったが、それこそ、保護者のような性格をしていた。
「とりあえず、ここは笑顔で」
「笑顔……ね」
子供の頃から、愛想だけは大盤振る舞いしているつもりだったが、まだ足りないらしい。
とりあえず口の端を上げてみると、怪訝な表情で、叔父が志遠を眺めていた。
「志遠よ。楽しんでいるか?」
「ええ。宮城には幼少の頃、住んでいましたし、故郷に帰ってきたようで、気持ちが安らぎますよ」
中央に置かれた金色の玉座は、一段高い位置にあって、志遠は叔父から見下ろされている格好だった。
(嫌味な席の配置だ)
落ち着かずに、目線を下げると、叔父が肉を頬張る咀嚼音が生々しく耳に届いて、かえって、心理的負担が増えてしまった。
「本当にそうか? お前は欲がないから困る。此度、西域の叛乱勢力を制圧した手段は見事であった。その労に、余は報いてやりたいのだが……。欲しいものがあるのなら、何でも申してみよ」
「いえ、今のところは特に。もし、欲しいものが出来ましたら、その時は、お願いにあがるかもしれません」
志遠なりに気を利かせた回答だったが、面白味はなかったようだ。
叔父との会話は、それきり途絶えてしまった。
癒しの音楽も、いつの間にか終わってしまい、叔父と側近の数名だけの気まずい空間になってしまった。
(私はもう退席しても良いだろうか?)
機会を計りながら、女官が運んできた異国の赤い酒を飲むと、味わう前に咳き込んでしまった。
「ああ、そうだ。志遠」
こちらの気まずい時に、わざとらしく、叔父が話を振ってくる。
珍しく相好を崩している叔父に、嫌な予感を覚えたら、案の定だった。
『志遠様。私、貴方と結婚できて幸せです。龍崙に戻る機会があったら、皆に自慢して回ります。私の朗君は、とても素晴らしい方なんだって』
――八年前。
ままごとのような婚姻を喜び、無邪気に笑って、志遠の手を引く少女がいた。
名を蘇 流々。
隣国、龍崙の公主だ。
朱宇王である父が身罷り、本来であれば、志遠が後継となるはずだったが、まだ幼く、母の身分も低かったため、父の弟・飛雲が朱宇王として即位する流れとなった。
無論、幼い志遠に野心などは微塵もなく、叔父が父代わりになってくれることに安堵していたくらいなのだが、しかし、叔父の方は志遠の存在を危ぶんだようだ。
早々に、臣籍にするための準備を始めた。
その一つが、流々との婚姻だった。
国王以外は一夫一妻制の朱宇国にあって、弱小国の姫君との結婚は、政略結婚に託けた志遠の権力を削ぐための策だった。
その頃になると、志遠なりに自分が置かれている複雑な立場を理解しているつもりでいたが、嫁いできた公主は、この国の不穏な様子に気づいていただろうに、天真爛漫で、志遠のことを健気に想ってくれた。
『龍崙の王族は婚姻の時に、相手に佩玉を贈り合うんです。私の直感で拵えたものだけど、貴方に似合っているみたいで良かった』
翡翠の玉の腰飾り。
朱宇では、そういった習慣がなかったから、夫婦でそんなやりとりをするなんて、知りもしなかった。
そもそも、三カ月の結婚生活の間、志遠は流々に与えられることばかりで、何一つ、彼女に贈ったものなどなかった。
(いや、一つだけあったか)
――流々の命乞いだ。
床に頭を擦りつけて、喉が嗄れるほど、叔父に訴えた。
命懸けで、誰かに懇願したのは、後にも先にも、人生であの一度きりだと確信している。
結果、志遠は西域との国境沿いの安寧州という、最も危険な領地を賜ることになってしまったわけだが……。
それも含めて、すべてが叔父の策略だとしたら、一生、志遠は叔父に敵わないだろう。
(いや、叔父上は、流々を助けてくれた恩がある。私は、戦うつもりなんて毛頭ないのだ)
だから、嫌々でも、志遠は叔父の誘いに乗って、宮城まで出向いたのだ。
――阿南宮の貴賓の間。
国王の私的場所での宴会は、西域での志遠の武功を身内で祝おうという、今更な名目のものだったが、何度も断っているのも気が引けたので、顔だけは見せておこうと、志遠なりに時間を調整して、何とか参加に漕ぎつけたものだった。
(仕方ない。叔父上に、いらぬ疑いを持たれたくないからな)
叔父は、猜疑心が強い。
自分が政を宦官に放り投げていることで、国が傾いているという事実からは執拗に目を背けているくせに 叛乱の気配にだけは敏感なのだ。
少しでも、反発するような挙動をした臣は一人残らず、粛清されてしまった。
志遠は今のところ難を逃れてはいるが、それでも、放置できないことは進言しているので、叔父が自分のことを、疎んでいることは察していた。
(とりあえず、今夜だけでも静かにしておこう)
最近、立て続けに、異民族と戦い、手柄を立ててしまったので、いらぬ注目を集めてしまっている。
叔父に対しでの振る舞いは、より慎重になる必要があった。
「志遠様。何をぼけっとされているのです? 気を引き締めてください」
「分かっている」
相変わらず、この男はうるさかった。
志遠の隣席でお小言を連発しているのは、父親の隠居に伴い、志遠に仕えることになった柳 雨露だ。
雨露は志遠より一つ年下で、聡明な分、短気で口煩い。外見は少年のようだったが、それこそ、保護者のような性格をしていた。
「とりあえず、ここは笑顔で」
「笑顔……ね」
子供の頃から、愛想だけは大盤振る舞いしているつもりだったが、まだ足りないらしい。
とりあえず口の端を上げてみると、怪訝な表情で、叔父が志遠を眺めていた。
「志遠よ。楽しんでいるか?」
「ええ。宮城には幼少の頃、住んでいましたし、故郷に帰ってきたようで、気持ちが安らぎますよ」
中央に置かれた金色の玉座は、一段高い位置にあって、志遠は叔父から見下ろされている格好だった。
(嫌味な席の配置だ)
落ち着かずに、目線を下げると、叔父が肉を頬張る咀嚼音が生々しく耳に届いて、かえって、心理的負担が増えてしまった。
「本当にそうか? お前は欲がないから困る。此度、西域の叛乱勢力を制圧した手段は見事であった。その労に、余は報いてやりたいのだが……。欲しいものがあるのなら、何でも申してみよ」
「いえ、今のところは特に。もし、欲しいものが出来ましたら、その時は、お願いにあがるかもしれません」
志遠なりに気を利かせた回答だったが、面白味はなかったようだ。
叔父との会話は、それきり途絶えてしまった。
癒しの音楽も、いつの間にか終わってしまい、叔父と側近の数名だけの気まずい空間になってしまった。
(私はもう退席しても良いだろうか?)
機会を計りながら、女官が運んできた異国の赤い酒を飲むと、味わう前に咳き込んでしまった。
「ああ、そうだ。志遠」
こちらの気まずい時に、わざとらしく、叔父が話を振ってくる。
珍しく相好を崩している叔父に、嫌な予感を覚えたら、案の定だった。



