堕ちた公主は救国の后になる


 朱宇国。
 王の住処、阿南(あなん)宮の背後に築かれた巨大な宮殿は太旭(たいきょく)宮と呼ばれている。
 通称「後宮」。
 妃嬪たちの住まう、女の花園だった。

「のろのろ歩いているんじゃないわよ」
「毎日、苛々させないでちょうだい」

 私を罵倒しながら、洗濯籠を抱えた私を追い越していくのは、私よりも後に正妃に仕えることになった女官たちだ。
 私のことは「龍崙から逃げてきた奴隷」として、伝わっているらしい。

(あながち、間違いでもないけれど)

 私の故郷、龍崙は、八年前この国に滅ぼされてしまった。
 現国王の甥である私の夫は、龍崙が滅びてすぐに姿を消してしまい、すべてを失った私は奴隷のように、ここで生きるしかなかったのだ。

「流々。今頃、洗濯が終わったの。本当にお前は愚図ね」

 下級女官の住処・幻季(げんき)殿の前に、鮮やかな橙色の長裙姿の中年の女性がいた。
 嫌々、私を待っていたのだろう。
 溜息が重い。

「申し訳……」
「いいから。正妃様がお呼びよ。急いで頂戴」

 私の事情を知っている女官は、昔の名残りで、少しだけあたりが弱い。

(今日も……か)

 身分の高い女官が、わざわざ、こんな場所に訪れたのは正妃が急かしたからだ。
 この国の正妃・李宝(りほう)
 後宮には妃が大勢いるが、李宝は大国・墨の公主で、他の妃たちとは格が違っていた。

(……嫌だな)

 出来ることなら、会いたくないと、拒否したい。
 だけど、そんな願いが通るはずもないのだ。
 私は促されるまま、正妃の住まいである比華(ひか)殿の奥の房間(へや)に向かう。
 やはり、正妃は機嫌が悪いようだ。
 房間の手前で、案内の女官が私から離れていった。
 逃げたい気持ちを押し殺して、引き戸を開けると……。
 私に向かって、花瓶が飛んできた。

「遅い!」
「申し訳ありません」

 ガラス製の花瓶は衝立に命中し、割れた破片は床に飛び散った。
 それを踏まないよう前進して、私は恭しく拱手をする。
 掛かった水で、灰色の深衣がすっかり濡れてしまったが、それに構っている暇はない。
 ひたすら、頭を下げるしかなかった。

「今宵は陛下がいらっしゃる。時間をかけて、準備をしなければならないのだ。それを、お前が鈍いせいで」
「申し訳……」
「もう良い。始めよ」
「は、はい」

 私は小走りになって、だらしなく長椅子に腰掛けている正妃様の肩に触れた。
 ――途端。
 正妃のぱさついていた茶髪は、艶やかさを取り戻し、くすんでいた肌には赤味が差して、少女のように、肌が滑らかになっていった。

「ふふっ。これよ、これ。蘇るわ」

 目を閉じて、恍惚となっている。
 この時だけは、正妃様もおとなしかった。
 私の手を介して、生命力を注入して、体を若返らせる。
 それが私の故郷。龍崙の王族にだけ伝わる特殊能力だった。
 本来、この能力は、怪我人や病人を癒すためのものだったのだが、正妃に脅される形で、私は間違った使い方をしていた。

(……目眩が激しい)

 自らの生命力を使っているのだから、私の若さが枯れてしまうのは当然だった。
 私の黒髪は色素が抜けて白くなり、身体は歩くだけで息切れするほど、衰えてしまった。

 ――でも、どうしたって、逃れる術がない。

 後ろ盾のいない私には、この巨大な檻の中で足掻く術すらないのだ。
 ごほごほっと、空咳をした私を、鬱陶しそうに正妃が見遣る。
 鋭い細目に、私の姿が映ると、いよいよ、憎しみの色を濃くして、口の中に溜めていた煙を私の顔に吐きかけた。

「ふん。不憫な娘よ。国は亡び、夫にも捨てられて、帰る場所もない。わたくしは、あんなことをされても、お前を生かしてあげているのだから、精々、死ぬまで、わたくしに尽くさなければね」
「は……い」

 辛うじて、返事をする。
 だが、か細い声が気に入らなかったのだろう。
 正妃は更に私に顔を近づけて、わざと勘に障る声で嘲笑った。

「あははっ。龍崙を統べる神后の子孫は「慈愛の手を以て人を癒す」のだろう? 理想を掲げて、結果、滅んでしまったわけだが……。因果な能力よ。のう?」

 悲しいけれど、否定ができない。
 私たちの始祖は、龍神の化身である女神「神后」だと言われていて、大陸中の国から崇拝されていた。
 だから、今まで、どの勢力からも侵攻されることなく、中立国として体面を保ってきたのだ。

 ――でも、私達は神の子孫などではなかった。

 龍崙の王族は、ただの人間だったのだと、あの戦で証明されてしまった。
 もしも、女神から受け継いだ強大な力があったのなら、絶対に滅ぶことなどなかったのだ。

(正妃様も、早く私に死んで欲しいのよ)
 
 この呪われた力のために、正妃は仕方なく、私を生かしているだけなのだ。