◆
朱宇国。
王の住処、阿南宮の背後に築かれた巨大な宮殿は太旭宮と呼ばれている。
通称「後宮」。
妃嬪たちの住まう、女の花園だった。
「のろのろ歩いているんじゃないわよ」
「毎日、苛々させないでちょうだい」
私を罵倒しながら、洗濯籠を抱えた私を追い越していくのは、私よりも後に正妃に仕えることになった女官たちだ。
私のことは「龍崙から逃げてきた奴隷」として、伝わっているらしい。
(あながち、間違いでもないけれど)
私の故郷、龍崙は、八年前この国に滅ぼされてしまった。
現国王の甥である私の夫は、龍崙が滅びてすぐに姿を消してしまい、すべてを失った私は奴隷のように、ここで生きるしかなかったのだ。
「流々。今頃、洗濯が終わったの。本当にお前は愚図ね」
下級女官の住処・幻季殿の前に、鮮やかな橙色の長裙姿の中年の女性がいた。
嫌々、私を待っていたのだろう。
溜息が重い。
「申し訳……」
「いいから。正妃様がお呼びよ。急いで頂戴」
私の事情を知っている女官は、昔の名残りで、少しだけあたりが弱い。
(今日も……か)
身分の高い女官が、わざわざ、こんな場所に訪れたのは正妃が急かしたからだ。
この国の正妃・李宝。
後宮には妃が大勢いるが、李宝は大国・墨の公主で、他の妃たちとは格が違っていた。
(……嫌だな)
出来ることなら、会いたくないと、拒否したい。
だけど、そんな願いが通るはずもないのだ。
私は促されるまま、正妃の住まいである比華殿の奥の房間に向かう。
やはり、正妃は機嫌が悪いようだ。
房間の手前で、案内の女官が私から離れていった。
逃げたい気持ちを押し殺して、引き戸を開けると……。
私に向かって、花瓶が飛んできた。
「遅い!」
「申し訳ありません」
ガラス製の花瓶は衝立に命中し、割れた破片は床に飛び散った。
それを踏まないよう前進して、私は恭しく拱手をする。
掛かった水で、灰色の深衣がすっかり濡れてしまったが、それに構っている暇はない。
ひたすら、頭を下げるしかなかった。
「今宵は陛下がいらっしゃる。時間をかけて、準備をしなければならないのだ。それを、お前が鈍いせいで」
「申し訳……」
「もう良い。始めよ」
「は、はい」
私は小走りになって、だらしなく長椅子に腰掛けている正妃様の肩に触れた。
――途端。
正妃のぱさついていた茶髪は、艶やかさを取り戻し、くすんでいた肌には赤味が差して、少女のように、肌が滑らかになっていった。
「ふふっ。これよ、これ。蘇るわ」
目を閉じて、恍惚となっている。
この時だけは、正妃様もおとなしかった。
私の手を介して、生命力を注入して、体を若返らせる。
それが私の故郷。龍崙の王族にだけ伝わる特殊能力だった。
本来、この能力は、怪我人や病人を癒すためのものだったのだが、正妃に脅される形で、私は間違った使い方をしていた。
(……目眩が激しい)
自らの生命力を使っているのだから、私の若さが枯れてしまうのは当然だった。
私の黒髪は色素が抜けて白くなり、身体は歩くだけで息切れするほど、衰えてしまった。
――でも、どうしたって、逃れる術がない。
後ろ盾のいない私には、この巨大な檻の中で足掻く術すらないのだ。
ごほごほっと、空咳をした私を、鬱陶しそうに正妃が見遣る。
鋭い細目に、私の姿が映ると、いよいよ、憎しみの色を濃くして、口の中に溜めていた煙を私の顔に吐きかけた。
「ふん。不憫な娘よ。国は亡び、夫にも捨てられて、帰る場所もない。わたくしは、あんなことをされても、お前を生かしてあげているのだから、精々、死ぬまで、わたくしに尽くさなければね」
「は……い」
辛うじて、返事をする。
だが、か細い声が気に入らなかったのだろう。
正妃は更に私に顔を近づけて、わざと勘に障る声で嘲笑った。
「あははっ。龍崙を統べる神后の子孫は「慈愛の手を以て人を癒す」のだろう? 理想を掲げて、結果、滅んでしまったわけだが……。因果な能力よ。のう?」
悲しいけれど、否定ができない。
私たちの始祖は、龍神の化身である女神「神后」だと言われていて、大陸中の国から崇拝されていた。
だから、今まで、どの勢力からも侵攻されることなく、中立国として体面を保ってきたのだ。
――でも、私達は神の子孫などではなかった。
龍崙の王族は、ただの人間だったのだと、あの戦で証明されてしまった。
もしも、女神から受け継いだ強大な力があったのなら、絶対に滅ぶことなどなかったのだ。
(正妃様も、早く私に死んで欲しいのよ)
この呪われた力のために、正妃は仕方なく、私を生かしているだけなのだ。
朱宇国。
王の住処、阿南宮の背後に築かれた巨大な宮殿は太旭宮と呼ばれている。
通称「後宮」。
妃嬪たちの住まう、女の花園だった。
「のろのろ歩いているんじゃないわよ」
「毎日、苛々させないでちょうだい」
私を罵倒しながら、洗濯籠を抱えた私を追い越していくのは、私よりも後に正妃に仕えることになった女官たちだ。
私のことは「龍崙から逃げてきた奴隷」として、伝わっているらしい。
(あながち、間違いでもないけれど)
私の故郷、龍崙は、八年前この国に滅ぼされてしまった。
現国王の甥である私の夫は、龍崙が滅びてすぐに姿を消してしまい、すべてを失った私は奴隷のように、ここで生きるしかなかったのだ。
「流々。今頃、洗濯が終わったの。本当にお前は愚図ね」
下級女官の住処・幻季殿の前に、鮮やかな橙色の長裙姿の中年の女性がいた。
嫌々、私を待っていたのだろう。
溜息が重い。
「申し訳……」
「いいから。正妃様がお呼びよ。急いで頂戴」
私の事情を知っている女官は、昔の名残りで、少しだけあたりが弱い。
(今日も……か)
身分の高い女官が、わざわざ、こんな場所に訪れたのは正妃が急かしたからだ。
この国の正妃・李宝。
後宮には妃が大勢いるが、李宝は大国・墨の公主で、他の妃たちとは格が違っていた。
(……嫌だな)
出来ることなら、会いたくないと、拒否したい。
だけど、そんな願いが通るはずもないのだ。
私は促されるまま、正妃の住まいである比華殿の奥の房間に向かう。
やはり、正妃は機嫌が悪いようだ。
房間の手前で、案内の女官が私から離れていった。
逃げたい気持ちを押し殺して、引き戸を開けると……。
私に向かって、花瓶が飛んできた。
「遅い!」
「申し訳ありません」
ガラス製の花瓶は衝立に命中し、割れた破片は床に飛び散った。
それを踏まないよう前進して、私は恭しく拱手をする。
掛かった水で、灰色の深衣がすっかり濡れてしまったが、それに構っている暇はない。
ひたすら、頭を下げるしかなかった。
「今宵は陛下がいらっしゃる。時間をかけて、準備をしなければならないのだ。それを、お前が鈍いせいで」
「申し訳……」
「もう良い。始めよ」
「は、はい」
私は小走りになって、だらしなく長椅子に腰掛けている正妃様の肩に触れた。
――途端。
正妃のぱさついていた茶髪は、艶やかさを取り戻し、くすんでいた肌には赤味が差して、少女のように、肌が滑らかになっていった。
「ふふっ。これよ、これ。蘇るわ」
目を閉じて、恍惚となっている。
この時だけは、正妃様もおとなしかった。
私の手を介して、生命力を注入して、体を若返らせる。
それが私の故郷。龍崙の王族にだけ伝わる特殊能力だった。
本来、この能力は、怪我人や病人を癒すためのものだったのだが、正妃に脅される形で、私は間違った使い方をしていた。
(……目眩が激しい)
自らの生命力を使っているのだから、私の若さが枯れてしまうのは当然だった。
私の黒髪は色素が抜けて白くなり、身体は歩くだけで息切れするほど、衰えてしまった。
――でも、どうしたって、逃れる術がない。
後ろ盾のいない私には、この巨大な檻の中で足掻く術すらないのだ。
ごほごほっと、空咳をした私を、鬱陶しそうに正妃が見遣る。
鋭い細目に、私の姿が映ると、いよいよ、憎しみの色を濃くして、口の中に溜めていた煙を私の顔に吐きかけた。
「ふん。不憫な娘よ。国は亡び、夫にも捨てられて、帰る場所もない。わたくしは、あんなことをされても、お前を生かしてあげているのだから、精々、死ぬまで、わたくしに尽くさなければね」
「は……い」
辛うじて、返事をする。
だが、か細い声が気に入らなかったのだろう。
正妃は更に私に顔を近づけて、わざと勘に障る声で嘲笑った。
「あははっ。龍崙を統べる神后の子孫は「慈愛の手を以て人を癒す」のだろう? 理想を掲げて、結果、滅んでしまったわけだが……。因果な能力よ。のう?」
悲しいけれど、否定ができない。
私たちの始祖は、龍神の化身である女神「神后」だと言われていて、大陸中の国から崇拝されていた。
だから、今まで、どの勢力からも侵攻されることなく、中立国として体面を保ってきたのだ。
――でも、私達は神の子孫などではなかった。
龍崙の王族は、ただの人間だったのだと、あの戦で証明されてしまった。
もしも、女神から受け継いだ強大な力があったのなら、絶対に滅ぶことなどなかったのだ。
(正妃様も、早く私に死んで欲しいのよ)
この呪われた力のために、正妃は仕方なく、私を生かしているだけなのだ。



