◆
……夜。
私は案内係の女官と共に、正妃が最近造らせた北の殿舎の地下通路を使い、後宮の外に出た。
城壁の横に停めてあった馬車に乗り、辿り着いたのは市場外れに佇む寂れた宿で、紫煙が立ち込めている二階の客間に赴くと、数人の女官を背景に、正妃が私を待ち構えていた。
「やはり来たな。龍崙の死に損ない」
紅の長裙は汚れ、髻は乱れ放題になってはいたが、正妃の冷徹な目は健在だった。
榻にゆったりと腰をかけて、煙管を咥えている。
「……正妃様。私が行くことで、墨と交渉が可能だというのは、本当ですか?」
「そう思ったから、ここに来たのではないのか?」
ふうっと、煙を吐きだしてから、正妃は口の端を歪に上げた。
「八年も私の傍にいたのだ。お前も察していただろう? 我が父には持病がある。龍崙を攻めたのも、癒しの手を求めたからだ。もっとも、龍崙の王族は皆、自害してしまい、お前の存在も私が隠したから、父の病が癒えることはなかったがな」
「……やはり」
龍崙が狙われたのは、墨王の私的な欲のためだったのだ。
「お前をあの場で殺すつもりだったが、こうとなっては、お前の存在も有効だ。あの人は娘のわたくしにも冷たい時があるから。土産を用意したい」
「……私を墨に差し出して、陛下の命乞いをしようと?」
「アレはもう良いのだ。救援が来ないのだから、墨はアレを見限ったのだろう。私は墨に戻る。お前は夫を生かすため、その身を贄にすれば良い。本望だろう? 朱宇は墨を恐れているのだから」
真っ当なことを口にしているようだが、単純に、正妃は私を盾代わりに利用したいだけなのだ。
「何処に行くのも同じだ。わたくしの大切なあの子はもういないのだから」
正妃の虚ろな視線が宙をさまよっている
その一点にのみ、私もこの人に共感をしていた。
「玉明様のこと。今も、私は悔やんでいます。私の力が及ばなかったことは……」
「言うな」
ぴしゃりと言って、正妃は煙管を床に投げ捨てた。
「善人気取りをするな。 汚らわしい」
「違います。私は本当に」
「そういうところよ。お前のその……善人面が癇に障るのだ。何もかも、お前のせいだ。これから、志遠が受ける災厄も、お前のせいなんだよ」
「……そんなこと」
「分かっているはずだ。枯れ枝のようなお前の容姿を誰が気に入る? 女として見て欲しい? そんな酷なことをお前は志遠に強いるのか?」
「私は……」
正妃は的確に私の急所をついてくる。
志遠に、愛情を強請るつもりなんて微塵もない。
(でも、愛されないのは悲しい)
悲しいから、私は無意識に志遠の同情を得ようとしているのだろうか?
「志遠が憐れよの。お前なんかを得るため、わたくしを捕え、墨を敵に回し、国を戦に巻き込むのだから……」
「戦になどさせません」
「だったら、頑張らなければな。我が父を騙して、己の消えそうな能力を買ってもらうしかない」
あははっと、正妃が私の目と鼻の先で、壊れたように嗤っている。
(私が役に立てば……)
もし、墨と戦になったら、勝ち目は薄い。
私が墨に行って、王に取り入り、信用を得ることができたら、多少なりとも、時間稼ぎにはなるだろうか?
懐に忍ばせた短剣に意識を向ける。
(最悪、私が墨の王を殺してしまえば……。そうしたら?)
ごくり、生唾を呑む。
分かっている。
それが無意味なくらい。
私はただ、いつか志遠に「私のせい」と言われるのが怖くて、消えてしまいたいだけなのだ。
(……消えて)
………しかし。
次の瞬間、私の視界から消えたのは、目前にいたはずの妃の方だった。
……夜。
私は案内係の女官と共に、正妃が最近造らせた北の殿舎の地下通路を使い、後宮の外に出た。
城壁の横に停めてあった馬車に乗り、辿り着いたのは市場外れに佇む寂れた宿で、紫煙が立ち込めている二階の客間に赴くと、数人の女官を背景に、正妃が私を待ち構えていた。
「やはり来たな。龍崙の死に損ない」
紅の長裙は汚れ、髻は乱れ放題になってはいたが、正妃の冷徹な目は健在だった。
榻にゆったりと腰をかけて、煙管を咥えている。
「……正妃様。私が行くことで、墨と交渉が可能だというのは、本当ですか?」
「そう思ったから、ここに来たのではないのか?」
ふうっと、煙を吐きだしてから、正妃は口の端を歪に上げた。
「八年も私の傍にいたのだ。お前も察していただろう? 我が父には持病がある。龍崙を攻めたのも、癒しの手を求めたからだ。もっとも、龍崙の王族は皆、自害してしまい、お前の存在も私が隠したから、父の病が癒えることはなかったがな」
「……やはり」
龍崙が狙われたのは、墨王の私的な欲のためだったのだ。
「お前をあの場で殺すつもりだったが、こうとなっては、お前の存在も有効だ。あの人は娘のわたくしにも冷たい時があるから。土産を用意したい」
「……私を墨に差し出して、陛下の命乞いをしようと?」
「アレはもう良いのだ。救援が来ないのだから、墨はアレを見限ったのだろう。私は墨に戻る。お前は夫を生かすため、その身を贄にすれば良い。本望だろう? 朱宇は墨を恐れているのだから」
真っ当なことを口にしているようだが、単純に、正妃は私を盾代わりに利用したいだけなのだ。
「何処に行くのも同じだ。わたくしの大切なあの子はもういないのだから」
正妃の虚ろな視線が宙をさまよっている
その一点にのみ、私もこの人に共感をしていた。
「玉明様のこと。今も、私は悔やんでいます。私の力が及ばなかったことは……」
「言うな」
ぴしゃりと言って、正妃は煙管を床に投げ捨てた。
「善人気取りをするな。 汚らわしい」
「違います。私は本当に」
「そういうところよ。お前のその……善人面が癇に障るのだ。何もかも、お前のせいだ。これから、志遠が受ける災厄も、お前のせいなんだよ」
「……そんなこと」
「分かっているはずだ。枯れ枝のようなお前の容姿を誰が気に入る? 女として見て欲しい? そんな酷なことをお前は志遠に強いるのか?」
「私は……」
正妃は的確に私の急所をついてくる。
志遠に、愛情を強請るつもりなんて微塵もない。
(でも、愛されないのは悲しい)
悲しいから、私は無意識に志遠の同情を得ようとしているのだろうか?
「志遠が憐れよの。お前なんかを得るため、わたくしを捕え、墨を敵に回し、国を戦に巻き込むのだから……」
「戦になどさせません」
「だったら、頑張らなければな。我が父を騙して、己の消えそうな能力を買ってもらうしかない」
あははっと、正妃が私の目と鼻の先で、壊れたように嗤っている。
(私が役に立てば……)
もし、墨と戦になったら、勝ち目は薄い。
私が墨に行って、王に取り入り、信用を得ることができたら、多少なりとも、時間稼ぎにはなるだろうか?
懐に忍ばせた短剣に意識を向ける。
(最悪、私が墨の王を殺してしまえば……。そうしたら?)
ごくり、生唾を呑む。
分かっている。
それが無意味なくらい。
私はただ、いつか志遠に「私のせい」と言われるのが怖くて、消えてしまいたいだけなのだ。
(……消えて)
………しかし。
次の瞬間、私の視界から消えたのは、目前にいたはずの妃の方だった。



