花嫁(はな)に翼神(つばさ) ~地を這う蛇と冷遇されたわたしが、天翔ける星とつがいになるまで

「ん……」

 小さな身じろぎと共に、蘭は目を覚ました。壺垂れ模様の長襦袢姿で褥に寝ていて、障子の外の庭は明るい。いつもの朝の出来事だと思ったが、妙な違和感がある。

「……!」

 次の瞬間、すべて思い出した蘭は上掛けを跳ね除ける勢いで身を起こした。途端にくらりと軽い目眩に襲われる。

 それでも周囲を見渡すと、ここは日々の離れではなく昨夜の母屋で、しかし集っていた烏天狗たちは勿論、薄氷も、瀕死であった陽炎の姿もない。陽炎が伏せていたはずの褥に、蘭が一人で寝かされていた。そして陽光から推し量る時刻は朝よりむしろ夕に近い。

 蘭が目覚めた気配を感じたのか、隣室とを隔てる襖が開く。控えの間から現れたのは、顔色の戻った陽炎だった。

「起きたか」
「陽炎さま、ご無事で……!」

 平伏しようとする蘭の動きを制し、陽炎は壺垂れの肩に自らの紅檜皮の羽織を掛けた。その後ろに、耳を伏せ項垂れた薄氷が続く。

 陽炎は褥の枕許に腰を下ろし、口火を切った。

「ライから話は聞いた。まずは礼を言う。本当に助かった、ありがとう。蘭殿は命の恩人だ」
「いえ、そんな……」

 山神に深々と頭を下げられ、蘭は痛み入る。まさに毒を持って毒を制すと言うように、蛇女の血が大蛇の毒を相殺したのか。理屈はよく解らないが、とにかく陽炎が助かったことが嬉しかった。

「だがそれ以上に────すまなかった」

 しかし陽炎は更に深く頭を下げる。地を這う蛇女に、天翔ける鳥神が礼を述べ、あまつさえ非を詫びたのだ。

「蘭殿には決して触れる気も、血を流させるつもりもなかったのに……」

 それこそ血を吐くような陽炎の自責の念に、慌てて蘭は言葉を並べ立てる。咬まれた指先はしっかりと手当てが施されていた。

「あの、顔をお上げください。わたしなんかが陽炎さまのお役に立てたのでしたら、それで充分ですから」
「蘭殿が血を流す必要はない。そんなことをしなくても、あなたは大切な人だ」
「……!」

 それは、遠からず喰らう生贄として、という意味に過ぎないのかもしれない。けれど今は、その甘美な響きに酔っていたかった。

 真摯な金の瞳が、ひたむきに蘭を、蘭だけを見つめる。蘭の胸の鼓動がこれ以上なく早鐘を打った。

「我が君照る日宮、照日命(てるひのみこと)の御名に懸けて、この恩は必ず返す。なんでも言ってくれ」
「あ、あの、そしたら、薄氷さんを怒らないでくださいね。相棒の危機だって、すごい必死だったんですから」

 柄にもなく萎れた様子の白狐の姿を見て、動悸を懸命に鎮めながら、蘭は山神の怒りを執り成そうとする。切羽詰まったあの状況であれば、使えるものはなんでも利用して当然だろう。陽炎は承知していると言うように頷いた。

「解っている。ライにも謝罪と感謝を伝えたし、その上で苦言も言わせてもらった」
「……悪かったな、お嬢。でも後悔はしてないからな」
「はい、わたしもです」

 呻くように謝罪を口にした薄氷に、蘭はぎこちなく笑い返す。……周囲の冷遇に六年間凍てついていた表情が、ここに来てようやくほどけ始めた。

 頑なな蕾が綻びかけたような笑顔に、陽炎がぽつりと呟く。

「……美しくなったな、蘭殿」
「え……」

 美味な食事、適度な運動、充分な睡眠。奇妙だが丁重なもてなしを受け、この一秋で、蘭は芋虫が蛹から蝶に孵化するように従来の華やぎを取り戻した。

 これまでの文の遣り取りから察するに、陽炎は歯の浮くような世辞を口にする性格ではない。だから今の一言は、心からの本音だろう。ちなみに薄氷は、「もう少し気の利いた言い回しはできんのか」と言いたげな目で相棒を見ていた。

「ほかに何か望みはないのか」

 なおも熱心に言い募る陽炎に、顔の火照りを自覚しながらも、蘭はひとつ我儘を言ってみようかと欲を出す。

「……でしたら、ひとつだけ、よろしいでしょうか」
「ああ。ひとつと言わず、いくらでもいい」

 鷹揚に促され、蘭はたったひとつの望みを口にした。

「────わたしと一緒に、ごはんを食べてはもらえませんか」
「は……?」

 あまりに想定外の願いだったのか、陽炎はしばし言葉を失い、次いで見当違いの懸念を口走った。

「どうした、やはり山の味は口に合わなかったか?」
「いいえ、いつも美味しいです。美味しいですけれど……一人で食べる食事は、やはりどこか、味気ないのです」

 親しい者と囲む食卓を、蘭は知っている。懐かしい遠い記憶、それを覚えているからこその切実な願望であった。

「大天狗様と食事を共にするなど、畏れ多いことなのでしょうが……」
「……いや、喜んで同席させてもらおう。ほかならぬ蘭殿がそう望むのであれば」

 生真面目にそう言って、大いなる鳥神は、取るに足らない蛇女のささやかだが大それた願いを聞き届けてくれたのだった。