花嫁(はな)に翼神(つばさ) ~地を這う蛇と冷遇されたわたしが、天翔ける星とつがいになるまで

 蘭が多くを望むことはなかったが、無聊の慰めにと、陽炎は様々なものを離れに差し入れてくれた。本に折り紙、裁縫箱と糸と布地、化粧道具などなど。三度の食膳にも、折りにつけて蘭を気遣う旨の文が添えられていた。

『蘭殿 着物の着丈に障りはないだろうか。既製品ゆえ致し方ないが、過不足があれば仕立て直そう 陽炎』
『今日は夜から雨になりそうだ。秋雨の山の夜は底冷えする、今宵は暖かくして眠るように』
『この季節の落ち鮎は若鮎とは一味違う旨みがある。栄養価も高いし、蘭殿の口に合えばいいのだが』

 そのたびに、蘭もまたまめまめしく筆を取った。

『陽炎様 立派な裁縫箱もいただきましたし、腕慣らしもかねて、まずは自分で直してみようと思います。ですがもし失敗したら、お言葉に甘えさせていただきたく存じます 蘭』
『ご助言ありがとうございます。陽炎さまも、お風邪など召されませぬようご自愛くださいませ』
『落ち鮎の甘露煮、美味しくいただきました。栗ご飯も絶品でした。つくってくださった眷族の方にもお礼申し上げます』

 屋敷の離れで、誰とも顔を合わせない生活。そこだけ切り取れば倉敷家での生活と同じだが、実態はまったく違う。温かい風呂、旬を取り入れた食膳、金平糖や黄身雲平などの甘味の差し入れ。少し目を離した隙に、褥や着物が干されていたり室内が掃き清められていたりという不思議にもすぐに慣れた。

 床の間にも、常に新しい花や枝が活けられている。野菊、竜胆、芒に鬼灯。そしてどんな花枝のときでもひっそりと、蘭……藤袴の慎ましやかな花が添えられているのだった。

 それに何より、細やかな文の遣り取り。「蛇女」「忌み嫁」などと罵られ続け、ともすれば忘れてしまいそうになっていた名前を、毎回きちんと、敬意を持って記してくれる。

 そんな今の暮らしを、放置や冷遇とは思わない。一人であっても孤独(ひとり)ではなく、何も心細くはなかった。

 ……だから、生贄として分不相応にも、物足りなさを感じてしまうのだ。

 空が澄み渡りひときわ高く感じられる頃、蘭は思い切って「希望」を文にしたためた。

『眺めがいよいよ秋めいてきました。庭に下りて散策しても構わないでしょうか。色よい返事を期待しております』

 返信は、蘭の想像以上のものだった。

『適度に身体を動かすことは、心身の健康のためにも推奨する。体力が快復して庭だけでは物足りなくなったら言ってくれ。山歩きもいいだろう、案内させる』
「わあ……っ」
 
 案内させる、の一文に、蘭は胸を躍らせる。あの雨の夜から一ヶ月以上、ようやく誰かと、文ではなく話ができるのだ。

 それでもすぐにねだることははしたなく思い、三日ほどは建物の外周を巡ったり飛び石を渡ったりして我慢したのち、蘭は『山の景色を見てみたいです』と文で伝えた。

 その翌日、朝餉の膳と入れ替わるように、案内人が離れを訪れた。

 ……否、その表現だと語弊があるかもしれない。訪問者は、人の姿をしてはいなかった。

「ようお嬢、鳥籠から連れ出しに来てやったぞ」
「……ええ?」

 軽口と共に庭に現れた「訪問者」の姿に、勝手に開閉する蔀戸にも慣れた蘭も度肝を抜かれる。

 尖った耳、地を踏みしめる四つ足、ふさふさの尻尾。それはどう見ても、狼のような巨躯を誇る白毛の狐だった。

「オレは薄氷(うすらい)、ロイの相棒だ。よろしくな」
「……ろい?」

 喋る狐という目の前の現実に呆気に取られながらも、初耳の呼称に蘭は怪訝に首を捻る。挨拶代わりに蘭の手に鼻先を押し付けた薄氷は、意外な美声で呆れたように言った。

陽炎(かぎろい)、お嬢をここに連れてきたヤツだよ。散々文通してるだろ?」
「かぎろいさま、って読むの」

 まさかの古語読み、自分は彼のことをまだ何も知らないのだと思い知らされる。そして同時に、古来より天狗に白狐はつきものだという信仰を蘭は思い出していた。

「ホラ行くぞ、丁度今が見頃の場所があるんだ」
「は、はい」

 沓脱石の草履を履き、雲取りの小紋を着た蘭は薄氷の隣に並ぶ。しかし薄氷はじれったそうに言った。

「そうじゃなくて、乗れ」
「乗れって、薄氷さんに? 馬みたいに??」
「そう。相棒の依頼だ、特別だぞ」
「で、では、失礼します」

 断りを入れて、蘭はおそるおそる薄氷の背に横座りに腰を預ける。白い四肢が庭を蹴り、天狗の相棒は身軽に宙へと駆け上がった。

「うわあ……!」

 山並みを眼下に収める視界に、蘭は感嘆の声を上げる。陽炎に運ばれたときは月のない夜であったため何も見えなかったが、この眺めだけでも充分な絶景だ。

 そうして薄氷が降り立った渓谷は、まさに紅葉がたけなわを迎えていた。晴れ渡った空の蒼と色づいた葉の紅の対比が鮮やかで、蘭は思わず圧倒される。

「すごい、綺麗……!」

 そんな月並みな言葉しか出てこない自分が歯痒いほどの、見事な紅葉の錦であった。

「ありがとうございます、薄氷さん」
「気に入ったならよかった。少し歩くか。川には魚もいるぞ」

 薄氷と連れ立って紅葉の渓谷を歩きながら、蘭はつい、余計なことを考える。

(……でも、せっかくなら、陽炎さまと一緒に来たかったな、なんて)

 いくらなんでもそれは、隣にいる薄氷に失礼だろうと、蘭は邪念を追い払う。

 けれど、美しい景色を誰かと一緒に眺めたいと想うのは、生まれて初めてのことだった。