花嫁(はな)に翼神(つばさ) ~地を這う蛇と冷遇されたわたしが、天翔ける星とつがいになるまで

「兵は拙速を尊ぶ」との格言どおり、僅か十日後には、蘭は帝都の倉敷邸を遠く離れ、浄衣の白装束を纏い、見ず知らずの山中を歩かされていた。

 供人は僅かに二人、しかし彼らも、蘭を山小屋まで送り届ければ下山してしまう。冷めた食事や最後の残り湯でも与えてもらえた離れ座敷での暮らしとは異なり、ここからは本当に、一人きりで生きていかなければならないのだ。

 それでも、娘として妻として、父と夫には逆らえない。追い出すような嫁入りや情のない結婚生活と同様、蘭には耐え忍ぶしかなかった。

 そう覚悟を決めていたつもりであったが、半日かけて辿り着いた山小屋の惨状に愕然とする。

「これは……」

 祭祀のための小屋と聞かされていたが、文明開化のご時勢、その祭祀はとうに廃れたのだろう。崩れかけた屋根にひび割れた板壁、一面が苔と蔦に覆われ、井戸にはいつのものとも知れない朽葉が堆積している。

 九条家の薄暗い小部屋や倉敷家の素っ気ない座敷は、それでもまだ、人の暮らす場所としての体裁を保っていたのだと思い知らされた。この山はもう、人の領域ではない。

 陋屋を前に言葉を失った蘭に構わず、役目を終えた供人たちは挨拶もそこそこに山を下っていった。鳥葬の忌み地、神隠しの魔所に長居はしたくないのだろう。

 蘭は観念してひしゃげた扉を開ける。暗い屋内は、外観以上に荒れていた。雨漏りで腐った床、原型を留めていない祭祀道具、獣の糞。どうにか腰を休められる場所を見つけて気を落ち着かせようとしたものの、破れた筵のぶら下がる窓の外が急速に暮れつつある様子に、一人取り残される恐怖を抑えきれなくなった。陋屋を飛び出し、白装束の裾を乱して供人たちを追う。

「待って、置いていかないで……!」

 満足に風雨を凌げるとは言えず、井戸も使えない。山装う実りの秋と治雅は言ったが、その次は山眠る凍てつく冬である。

 これはもう放置ではない、廃棄だ。要らない娘、役立たずの妻を始末するための、姥捨山ならぬ妻捨山。

「ねえ、お願い……!」

 悲痛な声は虚しく霧散するばかり、聞き届けるべき背中はとうに夕闇と藪の彼方へ消えていた。追いつけはしないことを悟り、蘭は足を止める。たっぷり三度は深呼吸して観念し、しおしおと陋屋へ戻ろうとした。

 どうせ帰る場所などない。父と夫が野垂れ死ねと言うのなら、蘭はもう死ぬしかないのだ。誰にも必要とされず、誰の役にも立てないままに。

 しかし狼狽のあまりでたらめに道なき道を下ってきたため、下山の道筋はおろか、陋屋の方角さえも見失ってしまった。日は完全に没し、朔を控えた今宵は月明かりも望めない。更には弱り目に祟り目、篠突く雨まで降ってくる。

 しばらくは、操り人形の如くたどたどしい足取りで雨夜の山中を彷徨っていた蘭だったが、ついに糸が切れたようにぺたりとその場に座り込んだ。白の浄衣は、単衣も打掛も泥に塗れてしまう。

 出立に先立って用意された白装束を見たなずなは喜色満面で、「白い打掛なんて、まるで花嫁装束みたいだわ。生贄は神妻とも言うものね、神様への嫁入りなんて素敵じゃない?」と異母姉の流刑を言祝いだ。生贄としてであれば、蘭の血肉は神に必要とされ、亡骸は山に還って万象の役に立つだろうか。

 こんな状況でも涙を流せない蘭の頬を、雨の雫が止めどなく滑り落ちる。

 だが、不意にその雨が遮られた。

 雨音は間断なく続く中、蘭は頬を伝う水滴を拭わないまま顔を上げる。足音どころか気配も感じさせなかったが、目の前に現れた何者かが、びしょ濡れの蘭に番傘を差し出していた。

 その者は深緋(こきあけ)の着流し姿の男性で、蘭より五つ歳上の治雅よりも、更に幾つか年長に見えた。清潔に切られた髪は夜の色だが、怜悧な印象を与える双眸は夜闇を裂くような金色に輝いている。そして実際、彼の傍らに浮かぶ同じ色の燐火が、二人の間の闇を退けていた。

 その瞳、その焔。雨夜の山中に音もなく現れた彼は、当然、人ではない。

 力なく座り込んだままの蘭を見下ろし、人でなしの彼は強い雨足の中でもよく通る声で短く問いかける。

「────泣いていたのか?」

 どうかしたのか、何をしている、ではなく、泣いていたのか。人里離れた山の中、雨に濡れ途方に暮れていた蘭の顔を見て、彼はそう口にした。泣いているのに泣けない蘭の心を、人でなしの彼だけが一目で理解してくれた、そう蘭には思えた。

「……あなたは、この山の神様ですか?」

 問いかけには答えず、蘭は逆に尋ねた。質問を無視された形の彼は気分を害した様子もなく、無表情に肯定する。

「まあそうだな。代々、()日宮(ひのみや)様よりこの一帯を任されている」

 国生みの男神の尊称を持ち出した彼に、蘭は心を決めた。────どうせ死ぬのなら、泣いていた自分を見つけてくれた彼に、この身を捧げたい。

「────では、煮るなり焼くなり、好きにしてくださいませ」

 ぬかるんだ地面に躊躇なく額づいた蘭に、彼のほうが驚いたようだった。長身から、幾分焦りを含んだ声が降ってくる。

「顔を上げるんだ。……まあ、好きにせよと言うのなら、ひとまずは屋敷に来てもらおう。話はそれからだ」

 この場で喰い散らかすのではなく、屋敷で調理して食膳に並べるつもりだろうか。確かに、鳥獣ではなく人の姿をした神であれば、そのほうが自然な気もした。

 彼の手を借り蘭が立ち上がると、折りよく通り雨が弱まり始めた。彼は傘を畳み、空を見上げて呟く。

「丁度いい、歩きでは時間がかかるからな」

 そう独り言つと、彼は濡れ鼠の蘭を両腕で抱き上げる。「ひゃっ」という蘭の驚愕と羞恥の声に構わず地を蹴ると、その背にばさりと巨大な翼が広がった。山の神は翼ある神……天狗だと、今更のように蘭は思い出す。

 蘭を軽々と抱いた彼は流星の如く空を翔け、夜に沈んだ山の中、唯一の灯りが揺らめく場所へと降り立つ。そこは、往時の武家屋敷のように立派な構えの御殿だった。鄙の山中には似つかわしくない、しかし天狗の住処とすればこれ以上なく相応しい迷い()だ。

 彼は母屋から少し離れた一画に蘭を通し、きびきびと説明する。

「しばらくはここで暮らしてくれ。裏に小さい出湯(いでゆ)が湧いているから、ひとまず身体を温めるといい。その間に衣食は整えさせる」
「……あの、身を清めるのは解るのですが。食事、ですか?」

 食べるのではなく食べさせてくれるつもりだと知って蘭は面食らったが、猛禽の翼を背にしまった彼は当然とばかりに頷く。

「そのように窶れ果てた姿のままでは差し障りがある。とにかく、まずは身体をいとえ」

 幽閉と粗食の末、頬は病的に()け、手足は骨と皮ばかり、肌にも髪にも歳相応の艶がない。これは確かに、神饌としては不適格だろう。今の自分は生贄にもなれないのかと蘭は落ち込む。

「あいにく屋敷には男手しかないから、私含め、世話をするにもなるべく顔を合わさず済むよう配慮する。あなたに指一本触れる気はない。だからあなたも、この離れからはみだりに出歩かないでほしい」

  ────おまえになど、指一本触れる気はない。薄気味悪い蛇女め

 初夜に夫に浴びせられたものと寸分違わない言葉。けれどそこに込められている感情は、侮蔑や拒絶とはまた違う気がした。生贄として相応しい健康体にならなければ、神に侍る資格もないということだ。

 揺れる蘭の心情には忖度せず、彼は湯殿を案内すると、母屋へと戻っていってしまった。蘭はとにかく山神の仰せに従い、何年ぶりかの温かい湯を全身で堪能する。脱衣所に上がると真新しい浴衣が用意されていて、団扇のような八手の葉を戯れに扇ぐと、一振りで髪まで乾いてしまった。

 御簾で区切られた二間のうち、開放的な一間のほうに、こちらも予告どおり食膳が届けられていた。気後れを感じつつ蘭が腰を据えると、手紙が添えられていることに気づく。匙の前にそちらを手に取り広げると、几帳面な字が書き連ねられていた。

『食べ終えたら膳は広縁に出しておけば眷属が片付けに行く。食べたいものや必要なものがあれば文で伝えてくれ。すべて叶えるとは保障できないが、できるかぎり希望に沿えるよう努める。今夜はゆっくりと(やす)むように。 陽炎』
「かげろう、さま……」

 最後にしたためられた署名を唇に乗せ、蘭は出湯で温まった頬が更にほんのり上気するのを感じた。

 実家と婚家では命令に従うだけだった。この迷い家で暮らすこともまた山神の命令ではあるのだが、自分の望みを口にしてもいいのだと、初めて言ってもらえた。すべて叶えるとは保障できない、と律儀に注釈をつけるあたりもまた、筆跡同様に書き手の誠実さを窺わせて微笑ましい。

 湯気の立つ食膳に一礼し、蘭はひと匙口に運ぶ。薬味を乗せただけの卵粥だが、程よい熱さとまろやかな味が、病み衰えた心身に染み渡るようで、涙を流せないことをこれほどもどかしく思ったことはなかった。

 一口一口を噛み締めて食べ終えると、蘭は寝間の文机に備え置かれていた料紙に、できるだけ丁寧に返信を記す。

『陽炎様 温かいお湯とお食事をありがとうございました。おかげで、今夜は心安らかに眠れそうです。不束者ですが、しばしよろしくお願いいたします 蘭』

 折り畳んだ料紙を添えて広縁に出した膳は、蘭が厠に席を立った隙に回収されていた。その上、寝間には褥と明日の着物まで抜かりなく整えられている。優しい命令に従い、やわらかい褥に仰臥すると、すぐに蘭の意識は睡魔に攫われた。雨に洗われた星空の下、何年ぶりかの穏やかな夢路を辿る。


 この夜から、翼の山神と鱗の贄嫁の、顔を合わせない奇妙な同居生活が始まったのだった。