花嫁(はな)に翼神(つばさ) ~地を這う蛇と冷遇されたわたしが、天翔ける星とつがいになるまで

「今度こそ愛想が尽きたぞ、蛇女め」
「濡れ衣です、旦那様……!」

 白い目で見下ろしてくる夫に、(らん)は懸命に己の無実を訴えかける。だが返されたのは更なる軽蔑と憤怒の声だった。

「言い訳をするな、見苦しい! それでも軍人の娘か!」
「仕方がないのです、治雅(はるまさ)様」

 その場をとりなすように、蘭の異母妹・なずなが治雅の腕に腕を絡ませる。膝をつき釈明しようとする妻と仁王立ちで断罪する夫、義兄にしなだれかかる義妹という、一種異様な光景が、夏の終わりの倉敷(くらしき)家の離れ座敷で繰り広げられていた。

「お姉様は、卑しい妾の娘のあたしが高価な簪を持っていることが気に入らなかったのでしょう。でもまさか、お武家様の血を引くお姉様が盗人のような真似をするなんて……」
「自分を卑下することはない。教養もそつない振る舞いも、なずな殿は立派に陸軍大佐の御令嬢だ」

 大袈裟に嘆く異母妹と、大仰に慰める夫。芝居じみた二人の遣り取りに、蘭は、いったい何を見せられているんだという心地になる。

「────こんな手癖も性根も悪い蛇女より、よほどその立場に相応しい」

 妻や恋人に向けるような甘い眼差しを義妹に注いでいた治雅は、一転して、罪人に対する冷酷な目つきで妻を見た。吐き捨てるような言い草に、蘭は抗弁しようとして諦める。何を言っても、戸籍上のつながりしかない夫に、自分の声は届かない。

 だが軍人の九条(くじょう)家から商人の倉敷家に嫁して二年。形ばかりの祝言ののち、「病身」を理由に竹垣に囲まれたこの座敷から出ることを禁じられ捨て置かれたまま十七の歳を刻んだ蘭がどうして、実家に暮らすなずなの簪を盗むことなどできるだろう。

 しかし現実に、鼈甲の簪は離れ座敷の長櫃の中から見つかった。治雅にはそれで充分だった。

「腹違いとはいえ妹に対する悪辣な仕打ち、これ以上盗人をこの家には置いておけん」

 それは離縁の宣告、結婚という名の幽閉生活の終焉かと蘭は思ったが、現実は想像以上に残酷だった。

「だがそれは九条家も同様だろうし、軍人の妻が罪人というのは体面が悪い。だから、裁きは天に委ねることとする」

 曰く、倉敷家の出身、遠方のとある地方には天狗を奉じる山があり、山中には祭祀のための小屋がある。表向きは病んだ心身の療養として、神の御許に蟄居し己が身を省みるがいい。これからの季節、山でも食うに困ることはあるまい。一年後には正式に離縁だ────

「────やはり蛇、涙のひとつも見せないとはな」

 流罪を告げられても無言無表情を貫く妻を忌々しげに一瞥し、治雅は座敷を去っていった。なずなも共に退去を促されたが、「もう少しお姉様とお話しさせてください」と言って義兄の背を見送る。

 一歳差の異母姉妹の間に、晩夏の夕風が吹き抜ける。

 くすり、となずなの顔が嘲笑に歪む。義兄には決して見せない、異母姉だけに向ける、どす黒い愉悦の表情だ。

「一年も猶予を与えてくださるなんて、お優しい旦那様だこと。ま、嫁して三年子無きは去る、と言うものねえ」

 白々しく言い放つ異母妹に、蘭は問い質さずにはいられなかった。

「……どうして、こんなことをするの」

 言うまでもなく、簪の盗難騒動はなずなの自作自演だ。だがなずなは「なんのこと?」と見え透いたしらを切り、濡縁からしみじみと室内を見遣る。僅かに四畳半、衣類をしまう長櫃以外はろくな調度もない。

「こんな殺風景な部屋に放置されて、挙句ここからも放逐されるなんて……ふふふ、いい気味」

 そして弾んだ声で、義兄が明かさなかった詳細を嬉々として異母姉に告げる。

「倉敷の御山って、昔は罪人の鳥葬の地だったんですって。天狗って鳥の神様でしょう? それに()つ国では、猛禽は蛇を食べるって言われてるらしいわよ。うふふ、お姉様、天狗に食べられないようにね」
「…………」

 何も言い返せない蘭に気をよくしてか、なずなは更に饒舌に続けた。

「片や由緒ある武家の孫娘、片やどこの馬の骨とも知れない芸妓の娘。昔はあたしがお姉様に蔑まれていたのに、面白いくらい立場が逆転したものね」
「蔑むなんて、そんな」

 七年前、芸妓の死後に別宅から本宅に引き取られたのち、妾腹の娘のなずなは虐待というほどではないが腫れ物を扱うように遠巻きにされていた。けれど蘭は姉妹として、できるかぎり心を砕いて彼女に寄り添っていたつもりだ。

 否定の言葉を口にしかけた蘭に、母親譲りの柳眉を吊り上げたなずなは、激情に任せて異母姉の痩せた肩を突き飛ばした。

「あたしが蔑まれてると思ったんだから、蔑んでたってことなのよ!」
「!」

 客観よりも主観で生きているなずなには、蘭が示した親愛の情も、恵まれた者の傲慢としか映らなかったのだろう。衰弱した身体は突然の暴力に抗いきれず、蘭は体勢を崩し、丈の合わない着物の裾が(はぎ)まで割れる。

 ────露わとなった青白い脚、そこに散らばる鱗のような痣こそ、「蛇女」という蔑称の由来、蘭が実家でも婚家でも冷遇される由縁だった。

 生来のものではない。六年前の夏、行楽旅行に出掛けた海で風が悪しき気を運んできたのか、まずは蘭の母が病に伏せ、程なく帰らぬ人となった。更に別れを嘆く間もなく蘭も倒れ、快復はしたものの、脚一面に奇妙な痕が残ってしまったのだ。その日から、「蛇の祟り」と後ろ指を差され、蔑ろにされて生きてきた。

 それでも体裁を取り繕うためか、父は蘭に縁談を持ってきた。軍部とも取引のある商家、商いを継がない三男坊を士官学校に入学させることを条件に、嫁の貰い手のない化け物を押し付けたのである。婚約中も一度も顔を合わせず、四年後の治雅の卒業を待って嫁入りが執り行われた際、まさに蛇女房ね、と、蘭が袖を通すことのなかった女学校の制服に身を包んだなずなは嗤った。

 鱗状の痣に覆われた脚を見て気色悪そうに目を眇めたなずなは、膝をつき無造作に蘭の前髪を鷲掴む。俯いた異母姉の顔を無理やり起こすと、つまらなそうに鼻を鳴らした。

「本当、『蛇女』とはよく言ったものよね。軍人の夫に罵られても、格下だったはずの妹に嘲られても、眉ひとつ動かさないんだもの」

 涙も笑顔も、きっと、優しく美しかった母の死と共に失われてしまった。

「一応言っておくけど、今回の処断はお父様も承知の上よ。さすが治雅様、手回しが抜かりないわねえ。蛇女房なんかにはもったいない旦那様よ」

 義妹ではなく女の声で義兄の名を呼び、なずなは蘭の髪を解放する。

 治雅は商才はともかく軍才はなかなかのものであったらしく、将来有望な将校として上官の覚えもめでたいという。そのことを、蘭は夫当人からではなく、今年に入ってから「異母姉の見舞い」という名目で頻繁に倉敷家に出入りするようになった異母妹から聞かされていた。

 出戻りの化け物娘を迎え入れる気はない父、鉄面皮の蛇女房よりも溌剌とした義妹に心惹かれた夫、姉を凌駕することを望み男を奪おうと目論む妹。今回の茶番は、そんな三者の思惑が合致した結果なのだろう。

 父に見捨てられ夫に見放され、妹にも裏切られた。足取り軽く去っていくなずなの背に非情な現実を突きつけられても、やはり蘭の両目から涙は一滴も流れないのだった。