両手を伸ばしてよ それはきっと透明の宝石


真田(さなだ)くんは、どんなことが好きなの?”

 その問いかけが、子供の頃から嫌いだった。
 俺にとってその問いかけは、内側を暴き立てるような踏み絵だ。即座にはっきりとした答えを差し出せないし、その沈黙の数秒間で「中身のない、つまらない人間」としてグループの輪郭から弾かれて、ただひとり浮いた存在になってしまう。

 周囲の奴らは、スポーツや音楽、流行のゲーム。たくさんの「好き」のピースを器用に繋ぎ合わせ、自分という名の自画像を描き上げている。キャンバスを埋める色数が多ければ多いほど、彼らの存在は確かで、誇らしげに見えた。

 けれど、俺の筆先にはいつも、載せるべき絵具が見当たらない。
 大学の講義室でも、騒がしいサークルの飲み会でも、自分を彩るための色を探しては途方に暮れる。誰かの色に染まる器用さも持たず、透明な輪郭のままで、ただそこに立ち尽くしている。

 そんな俺が、唯一、自分という存在の重さを感じられる瞬間はたった一つ。
 バイト先へ続く、街灯のまばらな急坂。古びたアパートと理容室が、狭い斜面を分け合うように寄せ合って建つ場所がある。

 その、湿った闇が溜まる建物同士の、狭い隙間の向こう側。
 足を留めると、夜の底に宝石をぶちまけたような無数の光が瞬いている。要するに、この町の夜景だ。

「どうしてここから見える夜景が好きなの?」と問われても、俺には「綺麗だから」とか「見晴らしが良いから」なんて、安っぽい言葉しか差し出せない。

 けれど、本当はそれだけじゃない。
 言葉にしようとすると、胸の奥がむず痒いような、喉元に熱い塊がせり上がってくるような、形容しがたい「説明のつかなさ」に支配される。

 ぬるい夜風に吹かれながら、Tシャツ姿で缶コーヒーを片手に、サンダルを引きずって歩く夏の夜。あるいは、凍てつく空気から逃げるように、マフラーの毛羽立った感触にそっと上唇をあてがう吹雪の夜。
 どんな季節であっても、俺はただ、ここから見える夜景を一人で見つめる時間が好きだった。

 理由は分からない。説明もできない。
 けれど、この圧倒的な光の群れだけが、空っぽだった胸に、唯一確かな温度を灯してくれる。

 「好き」に理由を求められるこの世界で、理由がないからこそ、この感情だけは誰にも奪えない。それだけが、俺という透明な人間が持つ、唯一の本物の色だった。





「ゆうきくーん、五卓お願いしまーす!」

「はーい、ただいま」

 週に四日。五限の講義を終えた俺が向かうのは、夜十時まで営業している老舗の中華料理屋だ。
 店内は、常に強火で煽られる中華鍋の音と、客の話し声、そして食欲をそそる香辛料の匂いで満ちている。
 中央に円卓。左右の壁際には四人掛けのテーブルが六つ。奥には座敷が二つ。

 決して大箱とは言えない店だけど、本場四川の料理人に師事したという店長が振るう腕は確かだ。看板メニューの黒酢が効いた酸辣湯や、甘酸っぱい餡がたっぷりとかかった天津飯は絶品で、店の外に用意された四つの待ち席が空くことは、まずない。

「すいませーーん、注文いいっすかー?」

 簾で仕切られた小上りから、大声が飛んでくる。
 俺は急いでテーブルの片づけを終えると、ここ最近の悩みの種――俺と同じ大学の軽音楽部が陣取る席へと向かった。
 こいつらはいつも、居酒屋と勘違いしているのではないかというボリュームで笑い合っている。

「お待たせしました、ご注文お伺いします」

「生五つと、レバニラ追加。あ、これ、もう下げちゃって」

 差し出されたのは、飲み干されたばかりのジョッキの群れだ。乱暴に押し付けられたガラスの重みを左手で受け止めながら、俺は手元のハンディに追加オーダーを叩き込む。
 内側から込み上げる不快感を、貼り付いた笑顔の裏に押し殺して。

(……一気に寄越すんじゃねーよ。持てる量考えろっての)

 狭い店内は、客席の間を縫うように歩くのが精一杯だ。一度に運べる洗い物の量には限界がある。
 おまけにこの集団は、見た目の派手さもさることながら、声のボリューム調整が壊れている。酒のペースは異常で、何より女子バイトへの絡みが粘着質で下品だ。
 俺の中では、間違いなく「クズの役満」というラベルが貼られる連中だった。

「で、この前のライブ終わりに出待ちの子引っかけて、3Pしたわけ」

「お前クズすぎ。即切りすんの本当エグいわ」

「いや、もはや慈善活動だろ。てかそれでいいっていうヤリマンもどうかしてるわ」

 ひたすらそんな内容で、彼らは喉を鳴らして爆笑する。
 早く二軒目にでも流れてくれないか。淡い期待を込めて壁の時計を仰いだが、閉店まではあと三十分。この様子では、ラストオーダーまで居座るコースで確定だろう。

「あ、真田くん。ビール、私が行くね」

 同じ学生バイトの女子がサーバーに向かおうとするのを、俺は低い声で遮った。

「大丈夫、俺が行く。……調味料の補充、頼める?」
「あっ……ありがとう……」

 別にカッコつけたいわけじゃない。実際、あの連中は平気で腕に触れてくるし、隙あらば連絡先を執拗に聞き出そうとする。そんなトラブルの仲裁に入る手間を考えれば、自分が盾になって、定時にバイトを上がるための「防衛策」を講じる方が合理的だ。

「お待たせしました。生、五つです」

 キンキンに冷えたジョッキを三つ、無造作にテーブルへ置く。
 残りの二つをトレイから下ろそうとした、その時だった。

「ごめん、ここまで運んでくんない?」

 小上がりの一番奥から、ひらひらと軽薄に手が振られた。
 俺が露骨に眉を寄せると、向こうは待ってましたと言わんばかりに唇を歪める。

「えー、その顔も可愛いね。はいはい、持ってきて。早く早く」

 ナカヤ。
 部の仲間からそう呼ばれているその男は、俺が最も苦手とする「陽」の毒気を全身から放っていた。
 明るいオレンジ色に近い茶髪に、だらしなく着崩した半袖シャツ。人を食ったような話し方も、その佇まいのすべてが生理的に受け付けない。

「……どうぞ」

 渋々、黒いスニーカーを脱ぎ、座敷に上がってソイツの前にビールを置く。
 その瞬間だった。差し出した俺の手首を、熱を帯びた指先が強引に、けれど正確に捕らえた。

「ゆうきくん。そろそろ連絡先、教えてくれても良くない? 十回来たら教えるって言ったけど、俺もう十五回は来てるよ。去年の冬から」

「……ナカヤ先輩、本気にするのやめてもらえます? 遠回しな拒絶だって、普通わかりますよね」

「えー。てっきり、かぐや姫みたいに無茶振りして愛を試したいタイプなのかと思ってた」

「戻ります。閉店作業で忙しいんで」

 絶対零度の視線を浴びせて、その場を辞する。
 脱ぎ捨てられた彼らのスニーカーを乱暴に揃え直し、俺は心の中で吐き捨てた。

(靴ぐらい揃えろよ。小学生かよ……。他の客の迷惑とか、一ミリも考えねーのか、こいつらは)

 彼らの笑い声が背中に突き刺さる。
 苛立ちを隠せない俺を、店長の奥さんが「まぁまぁ、ゆうき君」となだめるような目で見ている。
 アイツらのような騒がしい集団が出禁にならないのは、軽音部が代々この店を溜まり場にしているという伝統と、彼らが落とす莫大な売上のせいだ。

 けれど、俺が彼らを嫌う理由は、そのマナーの悪さだけじゃない。
 自分の「好き」にのめり込み、夢中になり、キラキラと輝いている。
 その愉しそうな姿への羨望。そして、自分には何一つないことへの、嫉妬のせいもある。

 ふと、背中に視線を感じて振り返ると――ナカヤ先輩が、ジョッキを片手にこちらを見つめていた。慌てて、正反対の方向へ目を逸らす。

 からかっているのか、馬鹿にしているのか。
 去年の冬から、やたらとしつこく絡んでくるウザい人。
 無神経で、騒がしくて、反吐が出るほど明るい。

 なのに、どうしてか。
 俺の視線は、手元で台拭きを畳み直していたのに、吸い寄せられるように、あの光の渦の中心にいる「彼」を追ってしまっていた。


 ◇


「お疲れ様です。また来週お願いします」

 店長と、まだ閉店作業に追われているバイト仲間に声をかける。
 裏口の重い扉を閉め、表の通りへと回り込むと、外灯の白い明かりに小さな羽虫が群がっていた。昼間のじっとりとした湿気はなりを潜め、夏の夜風が、火照った腕を涼しく撫でていく。

 まかないの残りの餃子とエビチリ。油の匂いが染み付いたビニール袋を手に歩き出そうとした、その時だった。

「ゆうきくん、みーっけ」

 不意に、背後から手首を掴まれる。
 そこには、店で見せていたものと変わらぬ、どこか子供のような屈託のない笑みを浮かべたナカヤが立っていた。
 俺は一瞬の驚きをすぐに嫌悪感で上書きし、眉間に深く皺を寄せる。

「……タバコ臭い。近寄らないでもらえます?」

「マジでつれないね。俺、そんな嫌われるようなことしたっけ?」

「十五回も店に来て、挙句に待ち伏せ。理由なんて、それで十分ですよ」

 振り払おうとするが、手首に込められた指の力は逆に強まっていく。
 すると、先輩はヘラヘラとした表情をふっと消した。その奥にある、据わった瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。

「ゆうき君さ、絶対俺のこと好きだよ。自覚ないの?」

「は? 妄想も大概にしてください」

「毒舌なのも可愛いけどさ、態度と一致してないんだよ。店にいる間、なんだかんだオレのこと目で追ってるでしょ」

「いや、マジできしょいんですけど、あんた……」

 最後まで言い切ることはできなかった。
 不意に視界が塞がる。強引に身体を引き寄せられ、抵抗する暇もなく、唇を塞がれた。

 急坂を勢いよく下っていく車のヘッドライトが、一瞬だけ俺たちを白く照らし出した。
 その風に煽られて、手に持ったまかないの袋がカサカサと乾いた音を立てて揺れる。

 キスをされている。
 頭がその事実を認識した瞬間、先輩は首の角度を変え、深く、吸い付くように再び唇を押し当ててきた。

 さっきまで店で煽っていたせいか、はちゃめちゃにビールの苦い香りが鼻を突く。
 けれど、触れ合う唇は驚くほど冷たくて。
 夏の夜のぬるい空気との温度差に、頭の芯が痺れるような違和感を感じていた。

「……俺、左利きだからこっちの方がしやすいんだよね。覚えといて」

「……っ、な、なに…………」

 人間、本当に驚くと声が出なくなる。指先が冷たく凍りついていくのが分かった。
 先輩は何事もなかったかのように袋の中身を覗き込み、「え、美味そう」といつもの明るい声をこぼす。

「てか、一緒に帰ろう。ごめん順番ミスったわ、普通に」

「は……?」

「いや、一緒に帰ろうって誘ってから、告って、キスしたかったんだけど。なんか顔見たら普通にキスしたくなっちゃった」

 今まで、人を殴りたいと思ったことなんて一度もなかった。
 たった今、この瞬間までは。

 俺は思い切り、先輩の頬に平手打ちを食らわせた。
 爆ぜた音で、自分の動揺をかき消すように叫ぶ。

「よ、酔ってますよね!? マジで、こんなの女子にやったら通報されますよ!」

「え、ゆうきくんは男だから通報しないでくれる感じ? てか俺、ザルどころかワクだから酔ってないよ」

「いや、そうじゃなくて……! もー、本当に何なんですか、アンタ。二度と絡まないでください!」

 まともに相手をするだけ無駄だ。全部、なかったことにすればいい。
 踵を返し、逃げるようにその場を去ろうとした俺の背中に、先輩の声が突き刺さった。

「じゃあ、最後に一個だけ教えてよ。……何でいっつも、あそこで夜景見てんの?」

「……何のことですか……?」

「いや、そこのフェンス越しに見てるじゃん。泣きそうな顔してさ」

 先輩はビルケンのサンダルをアスファルトに擦り、音を立てて近づいてくる。
 ポケットから取り出した煙草に火を灯すと、手首を返して軽く覆い、ふっと紫煙を吐き出した。そのまま空を仰ぎ、夜の闇に溶けていく煙を細めた目で見送っている。

「俺ね、あのアパートの角部屋に住んでんの。キッチンの小窓から、この坂がよく見えるわけ」

 先輩が指差したのは、斜面に無理やりしがみつくように建つ、古いアパートだった。錆びついた螺旋階段が、夜の影に沈んでいる。山を削って作られたこの場所からは、眼下に広がる公営住宅の屋根が一望できた。

「……俺のこと、ずっと見てたってことですか」

「いや、流石にそこまでストーカーじゃない。たまに煙草吸うとき、ゆうきくんが立ち止まってんのが見えただけ。フェンス越えて落ちるんじゃないかってくらい、悲しそうな顔してるからさ。一瞬、死にたいのかと思って焦ったよ」

 茶化すような笑い声。心臓の裏側を素手で触られたような居心地の悪さに、俺は顔を逸らした。

「……関係ないですよね。アンタとまともに話すのも、これが初めてだし。一体、何がしたいんですか」

「え、ゆうきくん意外と頭悪い? 俺、好きだって言ってるじゃん。十五回も」

「男なんですけど。……というか、恋愛そのものに興味ないんで……」

「俺は、性別より先にその人のことを好きになっちゃうタイプなんだよね」

 さらりと言ってのけるその口調には、幾多の夜を数えてきたような、隠しきれない経験の影があった。
 ますます無理だ。チャラそうなのではなく、救いようもなくチャラいのだと突きつけられただけ。

「ゆうきくーん。帰んないでさ、俺ん家で飲み直そうよ。もっと喋ろう」

「酒も飲まないし、シラフでも誰かと居るの、好きじゃないんで」

「えー、じゃあ連れ込みは無理かぁ。ざーんねん」

 ケラケラと軽薄に笑う先輩。男同士の安っぽい性欲の対象にされかけたのかと思うと、元々低い自己肯定感が、さらに底へ沈んでいく。

「……その笑い方、自覚あるのか知りませんけど。はっきし言って、キモいですよ。店で飲んでる時も、今も。嘘っぽい。本当は何一つ面白くないって思ってるのに、ヘラヘラして」

 その一言に、先輩の目がわずかに見開かれた。
 一瞬、仮面が剥がれ落ちたような真顔が覗く。けれど彼はすぐに目を細め、取り繕うような笑みを貼り付け直した。

「あは、ゆうきくんって本当に面白い子だよね。ますます好きになっちゃうから、あんまりそういうこと言わないでくれる?」

「話、通じなさすぎでしょ……。もう、これあげるんで帰ってください」

 俺は冷めきったエビチリの袋を、先輩の胸元に無理やり押し付けた。一方的な交換条件。そのまま逃げるように歩き出す。

「ゆうきくん、俺たち絶対いいカップルになれると思うよー。俺が保証してあげる!」

「ますます信用ないです。店にも来ないでください。来ても接客しませんから」

「一回騙されたと思って、うちにおいでよ」

 振り返った先、先輩はエビチリの袋を掲げたまま、またあの嘘くさい笑みを浮かべていた。
 不審者も悪い人も、きっとこうやって子供を騙すのだ。
 甘い飴をちらつかせて、いいものをあげるからこっちにおいで、と。
 ついて行ってはいけない。ついて行ったら、二度と戻ってこれなくなる。

「……なんでゆうき君が夜景を見たくなるのか、当てようか?」

 煙を吐き出しながら、先輩は無造作にフェンスへ背をもたれかける。
 その足元には、プランターに植えられた黄色と紫のパンジーが、アスファルトの隅でひっそりと首をもたげていた。

「いや、別に求めてませんし。ていうかアンタに俺のなにが――」

 少しだけ目を細め、先輩は坂の下に広がる光の海を顎でしゃくった。

「綺麗だからとか、そんな素直な理由じゃない。光じゃなくて『生活』を見てんだよね、ゆうきくんは」

「え……?」

「だって、あの光の一個一個、誰かの部屋でしょ。テレビがついてたり、風呂が沸いてたり、コンビニ弁当を温めてたり……。ゆうきくんは夜景を見ているとき、自分が入り込めない世界の『あったかさ』を想像してるんだよ」

 不意に風が吹き、先輩のミルクティー色の前髪が揺れる。
 一瞬だけ、その声から軽薄な響きが消え、ひどく低い温度が混ざった。

「『誰かと一緒にいたい』っていう、単純なやつ。でも、正面から欲しいって言うのは怖い。だから、あんな遠くから眺めてる。それなら永遠に願いを奪われないし、期待もしないで済む。……自分を傷つけずに済む」

 先輩は吸い殻を地面に落とすと、ビルケンの裏でゆっくりと踏み消した。
 冷え切った夜の空気に、消え損ねた煙の匂いが混じり、鼻の奥を突く。

「……違う?」

 図星を指されたなんて、認めたくなかった。
 自分の心臓が、情けないほど激しく肋骨を叩いているのが分かる。
 坂の下にある無数の窓。その灯りの一つ一つに、俺の知らない誰かの温度が宿っている。自分だけが、その熱から疎外されているという惨めさ。
 それを「綺麗」なんて言葉で、自分の気持ちすら誤魔化していたのに。

「俺のこと、嫌いでしょ。でも君は今から、手を繋いで、俺の家に来て、このエビチリと餃子を食べながら呑んで、キスして、セックスする。で、俺がゆうきくんの空っぽを満たせるものを、ここ(・・)に詰めてあげる」

 とん、と人差し指で、左胸のあたりを軽く突かれる。
 心臓の鼓動が、指先を通して向こう側にまで伝わってしまいそうで怖かった。

 一番、関わってはいけない人だ。
 こういう男が一番危なくて、一度ハマれば二度と抜け出せなくなる。一瞬の火遊びのつもりで、日常そのものを焼き尽くされてしまう。分かっているのに、警告を鳴らす脳の片隅で、別の自分がその熱を求めていた。

「……そういう始まりも、いーんじゃない? 大丈夫、セフレでもないし……ヤリ捨てもしないって約束するよ。ちゃんと朝になっても、ベッドの中で後ろからハグしててあげる」

 それは、俺が心の奥底で、誰にも言えずに欲していた情景だった。
 目が覚めた時、隣に誰かがいること。冷え切った背中に、そっと腕を回してくれる他者の温度。独りではない朝。

 望んではいけない。期待してはいけない。
 引き返せなくなる前に、今すぐこの場を立ち去るべきなのに。
「拒絶」を叫ぼうとする意思に反して、地面に根を張ったような足は、一歩も動いてはくれなかった。

「おいで?」

 そう言って促すように名前を呼ぶ先輩の声は、先ほどまでの攻撃的な低さではなく、どこか子供をあやすような柔らかさを帯びていた。熱も棘も抜け落ちて、夜の底に沈めたガラスみたいに、ひやりと澄んでいる。

 差し出された大きな手がゆっくりと、夏なのに冷え切った俺の手を包み込む。
 あっけないほど自然に指を絡め取られて、逃げる理由を探すより先に、体温が伝わってきた。

 ふわりと風が揺れた瞬間、鼻先をかすめたのは、澄んだ柑橘の気配だった。
 レモンを指先でそっと潰したときみたいな、きりっとした明るさ。けれど酸味の棘はなく、角の取れた透明な光のようにやわらかい。
 胸の中で名前をつけられない「透明なきらきら」が静かに瞬くのを感じながら、少しだけ苦みのある香りに、俺はそっと肩を抱かれた。

 いつもの夜景が見えるフェンスの前。
 古びたアパートの螺旋階段が、ぎし、と小さく鳴る。
 振り返ればきっとまだ、夜景の光は見えたはずなのに。俺は振り返らなかった。
 螺旋階段を登りきった、目の前にある角部屋のドアが閉まる。

 脱ぎ捨てられたビルケンのサンダルが、片方だけ腹を見せて、不自然に転がっている。
 そのすぐ隣、逃げ場をなくしたように三和土の隅へ追いやられた、黒いジャックパーセル。ほどけたままの靴紐が、足首の細さをなぞるように垂れっぱなしだ。

 月の光も届かない狭い玄関の三和土で、互いのつま先を食い込ませるようにして重なった不揃いな角度。
 まだ消えない夏の夜の微熱。廊下の奥で、鈍い衣擦れの音が重なる。

「ゆうきくん、    」

 壁際に追いやられて、先輩が俺の耳元でそっと囁くように言った。俺はその目を見つめて、ただ頷く事しかできない。

 投げ出された二つの靴までもが、暗がりのなかで、お互いの体温を求め合っているように見えた。






 end.