【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「殿下、朝霞伯爵がご拝顔を賜りたき由」

聞き慣れた家名に、視線だけをわずかに動かす。

……朝霞。

喉の奥が冷える。
あの屋敷の空気。雪の中で震えていた身体。蔵の扉の軋み。
思い出すだけで、胸の奥に黒い棘が立つ。

「通せ」

短く、低く告げると、榊原が一歩退いた。
しばらくして、榊原に伴われ、一人の男が慎重に歩み寄る。

「五条殿下におかれましては、新年早々のご尊顔、恐悦至極に存じます」

床に額が付きそうなほど、卑屈なほど深く頭を下げる。
あくまで礼儀正しく、しかし必要以上に柔らかくもない声音で返した。

「顔をお上げください、朝霞伯爵。今年も変わらぬご健勝、何よりです」
「ははっ、身に余るお言葉……ありがとうございます」

持ち上げられた顔には脂汗が浮かんでいた。
緊張か、あるいは——己の家の期待か。

伯爵は一瞬、周囲を警戒するように見回すと、声の調子をわずかに落とした。

「恐れながら……先日お目通りいたしました拙家の娘のことで」

娘。
その単語に、指先がわずかに動いた。

娘とは、『赤薔薇』の『華』を持つ娘のことか。
それとも——蔵に押し込められていた娘のことか。

「……聞きましょう」

促すと、伯爵は安堵とも興奮ともつかない熱っぽい息を一つ吐き、続けた。

「はっ。実は、百合のことでございます。
『黒薔薇』の殿下の御側にあれば、いよいよその『赤薔薇』の真価を発揮するのではないかと、両親として期待しておりまして——」

その瞬間、周囲の空気がわずかにざわめいた。
『華族』たちの耳が、さりげなくこちらに傾くのがわかる。
『赤薔薇』は『宮家』の中では珍しくはない。だが『華族』の中では十分に格の高い『華』。
『黒薔薇』の妃候補という言葉の匂いだけで、群れは敏感に反応する。

赤と黒。
薔薇と薔薇。

『華』の相性と、家の格を盾にした——先日の会食からの本格的な縁談の打診。
伯爵は今、この公の場で『五条家との繋がり』を確立しようと必死なのだろう。
新年の宮中という舞台を使い、噂を意図的に広げる。
一度、既定路線の空気ができれば、周囲は勝手にそれを補強してくれるからだ。

「ご息女のことを、深くお考えなのですね」
「なにぶん、微力ではございますが……。
拙家もこの『乱世』において、いささかは皇族方のお役に立てればと、衷心より存じまして」

乱世。
言葉だけは大仰だが、実際には家計という名の戦場で溺れかけているのだろう。
娘の『華』を、沈みゆく家を救う最後の切り札のように掲げる姿が、ありありと想像できて、胸の内で小さく息を吐いた。

『赤薔薇』、発火の『異能』——。
なるほど、紙の上だけ見れば確かに扱いやすい『華』に見える。

従順に燃え、従順に灯る火。
『黒薔薇』の暴走を抑える役としては、理屈の上では悪くない。
……だが。

降りしきる雪の中、井戸の傍で震えていたすみれを思い出すと、どうしても同じ天秤に載せる気にはなれない。
すみれの周囲だけ、喧しいほど満ちた薔薇の気配が、すとんと落ちた。
『華』の強弱ではなく、在り方そのものが違う。
胸の奥の棘を、言葉一つで静かに沈めた、あの心地よい空白。

『赤薔薇』ごときが、俺の心のざわめきを鎮められるのか?
『黒薔薇』は、あまりにも強大すぎる。
必要なのは、燃え盛る炎ではない。
その炎を相殺する別の炎でもない。

——受け止めるものだ。
痛みを、恐れを、孤独を、なおそこにあるものとして受け止め、静かに保つもの。

「『華』の相性は、確かに重要です」

ゆっくりと言葉を選び、わざと間を置いた。
その沈黙を『肯定の前触れ』と勘違いしたのだろう、伯爵の目が期待に濡れて見開かれる。

「ですが、それ以上に——人となりを慎重に見極めねばなりません。
『華』は、その者の内側……魂を映す鏡だと、私は考えておりますので」
「も、もちろんでございますとも!
百合は素直で、健やかで、殿下の御心に叶う娘だと自負しております……!」

伯爵は食い下がるように言葉を重ねる。
自慢の娘。
同時に、自分の家の未来を賭けた唯一の札でもあるのだろう。
その必死さが、かえって浅ましく映る。

「春先に開かれる園遊会。その折に、再度ぜひお目にかかれればと存じます。
それから先のことは——その時の様子を見てから、ゆっくり考えましょう」