【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

次に気がつくと、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
薄紫に滲む空の端が、雪雲の下でゆっくりと群青へ沈んでいく。

どれだけ眠っていたのだろう。
恐れることなく眠った、という事実がまず信じられなくて、胸の奥がそわりと落ち着かない。

「顔色も良さそうだな。大丈夫なら湯に入るといい」

静かな声が、あまりに近いところから降ってきた。

「寝込んでいる間は、身体を拭いてやることしかできなかったからな」

ベッドの横に座っていた五条様が、本を閉じる。
ページを撫でる指の所作まで、無駄がなくて綺麗だった。

——湯……?

私なんかが、湯に……?
蔵にはもちろん、そんな贅沢はない。
湯を沸かすことはあっても、それは継母と百合のため。
朝霞の家の湯殿に、私が足を踏み入れたことなど、物心がついてから一度もない。

それに、湯に入るということは——

「あの……そんな……恐れ多いです」
「女中を呼ぼう」

やっと絞り出した声は、自分でも情けないほど細い。
私が言い足す間もなく、五条様は立ち上がり、扉の外へ出てしまった。
どうしよう。
誰かの手を煩わせるなんて……それだけで、怒号が飛んでくる気がして、肩がすくむ。

「……私、一人で……」
「まだ本調子ではございません。ご無理はいけません、すみれ様」

現れた女中さんは、驚くほど柔らかな声でそう言った。
すみれ様——呼ばれるたびに、胸の奥がむず痒くなる。
うなずくしかできず、そのまま隣の浴室へ案内された。

扉が開いた瞬間、檜の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
湯船は、朝霞の屋敷のそれの倍以上はあるだろうという広さで、湯が絶え間なく流れ、湯気が白く揺れていた。

大きな窓の向こうには、灯りに淡く縁取られた夜の庭園。
闇に溶けてほとんど見えないのに、広さだけははっきり伝わる。
——ここは、私の知っている世界ではない。

「……なんというところに、来てしまったんだろう」

畏怖で、背中がひやりと粟立つ。
湯に浸かりながら、思い切って問いかけた。

「あの……五条様が、私の看病を……?」
「はい。殿下が率先されて……それはもう甲斐甲斐しく、お世話なさっておられましたよ」

女中さんがさらりという、その一言で、頭の中が真っ白になった。

……やはり。
裸を、五条様に見られてしまったかもしれない。

仮にも伯爵家の人間が、皇族の血を引く殿方に裸を見られるなんて。
許されない粗相——そう教えられてきた。
なのに、私には叱る者も、守る者もいない。

だったら、この優しさの理由は一つしかない。

私はきっと、五条様が百合となのか、他の誰かとなのか。
その方と正式に婚約されるまでの、ほんの一時の慰み者として、ここに置かれたのだ。
『無華』の女など、ぞんざいに扱うのに、これほど都合のいい存在もない。

そう考えた途端、父と継母が私の滞在をあっさり許したことも腑に落ちる。
朝霞の家にとって私は、厄介で迷惑な荷物。
面倒な手続きなく消えるなら——むしろ好都合だと思われたに違いない。

婚約が整った後は、どうなるのだろう。
遊郭に売られる?
それとも、もっと酷い場所……。
価値のない私でも、物珍しがる人間がいるのかもしれない。

『無華』として生まれた人生なんて、きっと、こんなものだ。