【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

背後から落ちてきた低く、よく響く声に、ビクリと全身が固まった。
恐る恐る振り向けば——

さきほど椅子で眠っていたはずの、漆黒の制服の彼が、無表情で立っていた。
眠っていた気配は消え、瞳だけが静かに鋭い。
逃げ道を塞がれたことが、遅れて理解として刺さった。

——起こしてしまった。
——怒られる。今度は、何と言われるだろう。

反射で身体が縮こまり、握っていた取っ手から指が震えながら離れていく。
背中が冷えて、息が浅くなる。
逃げ場がない、と身体が先に理解させられる。

「あ……あの……」

喉がひきつり、言葉が絡まった。
どんな言葉を選んでも、怒号が飛んでくるのではないか。
振り上げられた手が頬を打つのではないか。
……それが当たり前の世界で生きてきたから、怖さだけが先に立つ。

嫌な想像ばかりが頭を埋め尽くす中、扉を押さえているのとは反対の、大きな手が、私の顔のあたりへゆっくり伸びてきた。

その手が何をするのか怖くて、反射的にぎゅっと目をつむる。

——殴られる。

頬に力を入れて覚悟したのに、痛みはいつまでたっても訪れなかった。
代わりに、顎を支えられ、優しく上へ向けられる感触だけが伝わってくる。
恐る恐る目を開けると、初めて正面から見上げた彼の顔は——
驚くほど落ち着いていて、そして、どこか優しかった。

真っすぐな黒い瞳。
その奥に、怯えきった私の顔が小さく映っている。
逃げることも、隠すこともできない距離で、見られているのに——
なぜか、刺される感じがしない。

「ああ。やはり、美しい瞳だ」
「……え……?」

美しい?
この、『無華』の証で。忌み嫌われ続けてきた、左右の色の違う瞳が——?

実の母にすら『忌々しい』『抉ってやりたい』とまで言われた目。
その言葉が一気に蘇り、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。
目の奥に熱いものが滲むのを感じた。

呆然としている間に、彼の腕がするりと腰の下へ回された。
身体ごと、軽い荷物のように軽々と抱き上げられ——
私は抵抗する力もなく、そのまま柔らかなベッドへ戻される。

「まだ病み上がりだ。寝ていろ」
「……あ、あの……家に、戻らないと……」

——しまった。

やっと出てきた最初の言葉が、感謝でも謝罪でもなく、ただ自分の保身だなんて。
なんて卑しいのだろう。
この人がしてくれたことを思えば思うほど、情けなさが胸を刺す。

再び伸ばされた手に、無意識に身がすくんだ。
けれど落ちてきたのは、叩くための手ではない。
それは優しく頭を撫でる、暖かな大きな手の平だった。

撫でられる。
そんなこと、いつぶりだろう。
痛みを伴わない『触れられる』という行為が、こんなにも怖くて、こんなにも——ほどける。