賢しい妖狐は春を愛する


 ――何かがおかしい。
 
 だけど、考えている時間もなく、物事が進んでいった。

 由良さんの解散宣言の通り、実巳様の妻は全員実家に戻ることが決まった。

 私も祖母ちゃんのところに、戻る予定ではあったのだけど……。

 ――家事をする人がいないと、困るみたいだから、少しだけ一緒に残って女中をしてくれない?

 ……と、先輩妻の多恵さんに頼まれてしまい、承諾してしまったのだ。

(だって、私が嘘言って、結納金を貰ったのは事実なわけだし)

 ずっと、祓戸家に対して、後ろめたい気持ちを抱いていたのだ。
 落ち着くまでの短期間、人助けができるのなら、それもいいだろう。

 ……けど。
 やはり、由良さんは怒っていた。

(正論、図星。分かっているけどさ……)

 ――コレ(・・)はない。

「だから、俺、言ってますよね? 結納金のことなんて、気にしなければいいって。それなのに、君は……」
「しつこいですよ。由良さん。毎日、そればかり」

 顔を合わす度に、由良さんはくどくど訴えてくる。
 今更、決まったことを、ひっくり返すわけにはいかないのだ。
 それに……。

「もう私、働いちゃっているんですから」

 私は普段通り、竹箒を使って、掃き掃除に励んでいた。
 裏庭の桜の古木は、今まさに満開を迎えていて、桜の花弁が山のように降り積もっている。
 由良さんは、しばらく祓戸家に逗留するらしく、今日も縁側の定位置でごろ寝をしながら、掃除中の私に茶々を入れてきた。
 しかも、すっかり春めいてきたため、薄手の浴衣一枚だ。
 他人の家なのに、寛ぎすぎだろう。

「俺が執念深いのは性分です。大体、お祖母様の病だって癒えたのに、君が無理して働くことはないんです」
「その件については、大変ありがたく、一生、由良さんに頭が上がらないと思っていますが……」

 由良さんは、以前から、度々祖母ちゃんの見舞いに行ってくれていたらしい。
 彼の献身的な看病のおかげで、祖母ちゃんはすっかり健康を取り戻したのだ。

(何でも、妖怪がここを襲撃した日も、由良さんは私の実家に行っていたせいで、出遅れたって話だし……)

 ……生き神様だ。
 毎日、由良さんを拝んでも良いくらいだ。

「なら、さっさと辞めて……」
「でもね、由良さん。それとこれは話が別です。先日の妖怪の襲来で、皆怖がっちゃって、女中の成り手もいないんですよ。祓戸家の方々は家事ができないし、他の人も嫌がっているので……」

 これは、雅さんのせいだ。
 由良さんを目にした瞬間、失神してしまい、それ以来、まともな会話ができなくなってしまった。
 それを目の当たりにした妻たちは一刻も早く、ここから出たいと考えるようになってしまったのだ。

「それに、由良さんだって、私のことばかり言いますけど、ここに居続けていいんですか?」
「別に、俺のことはどうでもいいんです。今まで、大変だった分、しっかり療養をとっているんですから。……監視(・・)も含めてね」
「監視?」
「あ、いや、妖怪のことです。退治をしたつもりですが、まだ、ちょっと油断できないので」
「そうなんですか」

 三百年もの間、封印されていた妖怪。
 狡猾で冷酷だとか、色々と聞かされていたけれど、私は一度もお目にかかることなく、退治されてしまった。

「その妖怪……。ちらっと遠巻きに、見てみたかったですね」
「危険な妖怪の顔を、君は見たいと?」

 揶揄うような口調で、由良さんが言うので、私は真面目に答えた。

「だって、由良さん。結局、何も被害はなかったんですよ。人が殺されたわけでも、屋敷が破壊されたわけでもない。一体、妖怪が何をしたかったのか、謎です」
「まあ、奴にも愛でたい花があったんじゃないですか」

 それはお前だと言わんばかりに、由良さんが私に向けて、熱い眼差しを向けてくる。

(何で?)

 頬が熱い。
 私は慌てて、顔を背けた。

「だったら、桜……かな? 綺麗ですものね。妖怪もお花見がしたかったのかも」

 温かな風に、薄紅色の桜の花弁が、はらはら散っていた。
 こんな有様では、掃除をしたところで、意味がないかもしれないが、キリが良いところまでと決めて、私は掃き続けた。
 ようやく、地面が明らかになると……。

「わあ」

 そこには、お日様色の花が咲いていた。

「由良さん。ここにも春の花が……。可愛いタンポポ。桜の花弁の下に隠れていたみたいです」

 その場にしゃがんで、タンポポを観察していると、由良さんがひょいと庭先に下りてきた。

「あ、本当だ」
「ふふっ。タンポポって、全部食べられるんですよ。美味しそう。あっ、でも、綺麗に咲いているのに、食べちゃうのは可哀想かな?」
「……らしいな」
「はっ?」
「刹那の桜より、大地に根付く蒲公英……か」
「何のことです?」

 私は顔だけ後ろに向けた。
 きらきらと、陽光に照らされた桜木を背後に佇む由良さんは、息をのむほど妖艶だった。

「俺、好き……ですよ。はる……が」
「……?」

 風が吹く。
 それは、まるで告白のようだった。

(今、春って?)

 しかし、問い返そうにも、障子戸の隙間から、じっと窺う実巳様の二つの眼が恐ろしくて、出来やしなかった。

「は、春!? そう、春はいいですよね。美味しいものが沢山採れますからね。私、雪辱の卵とこのタンポポを使って、何か作ります。由良さんには、ぜひ試食を……」
「くっくっくっ」

 肩を揺らし、目に涙を浮かべて、由良さんが笑っている。

「由良さん?」

 不思議だ。
 一瞬、由良さんの頭に獣の耳がついているように見えてしまった。
 彼が美形すぎて、私の目が人間として、処理できないのかもしれない。

「いいですよ。小春さん。すべて、君の望みのままに叶えましょう。そういう君を見ていることが、俺はこの上なく幸せなのだから……」

 春爛漫の庭。
 由良さんは、私の頭で煌めく簪を愛おしげに撫でると、額にそっと口づけたのだった。

【了】