賢しい妖狐は春を愛する


 あのまま、外に逃げようとしたけれど、他の妻たちから様子を見て来いと言われて、尻を蹴られてしまった。
 仕方なく、行けるところまでと、覚悟を決めて摺り足で前進していたら……。

「ん?」

 ふと、赤いものが目に入った。

(あれは……?)

 雅さんの着物の袖だ。
 いつも、一際目立つ真っ赤なものを身につけているから、すぐに分かる。

「どうして、あんなところに落ちて……?」

 ぼんやり眺めていた私は、ややしてから、ハッとなった。

(あれは、雅さんそのもの(・・・・)だ)

「雅さん!」

 息を切らして、駆け寄った。
 だけど、まったく反応がない。
 恐る恐る、抱き起してみたら、かくっと、首が傾いだ。

「いやあぁ!」

 ……死んでる。

(何で? 今まで生きて、私を罵っていたじゃない?)

 先程まで、私はこの人のことを恨んでいた。
 何が気に入らないのか知らないけど、どうして、私が八つ当たりされて、貶められなければならなかったのか……。
 生きて報復することは叶わないだろうけど、死んだ私に呪われてしまえと、本気で思っていた。
 けれど、今、目を見開いたまま、モノのように転がされている姿を見て、ぽたぽたと涙が溢れた。
 どんな人だって、こんなふうに死んでいいはずがない。
 泣きじゃくりながら、すぐ横の微かに開いている障子戸の中を覗くと……。

「……あ」

 ……いた。

(いてくれた)

 私がよく知っている漆黒の後ろ姿が、そこにはあった。

「由良さんっ!」

 腰を抜かして、床を這いながら、私は畳部屋に転がり込んだ。
 
「由良さん。ああ、良かった。大丈夫ですか!? お怪我はありませんか? 雅さんが……。もう何がなんだか、分からなくて。どうして、こんな?」

 言いたいことがまとまらなくて、私は指先だけ彼に伸ばした。抱きつきたいけど、力が入らない。
 由良さんは、少ししてから、ゆっくりと振り向いた。

「……ああ、小春さん。君の方こそ、大丈夫なんですか?」

 颯爽とその場に片膝をついた由良さんは、こくこく頷いた私に、手を差し伸べてくれた。
 いつもの帽子がない。
 灰色の髪に、親しみやすい垂れ目。透き通った白い肌。見惚れてしまうような完璧な容姿をしていた。
 言葉を失くしている私に、由良さんの方が頬を赤らめながら答えた。

「少々派手ですけど、やはり、盛装すると映えますね。小春さん。本当は俺が君を美しく飾り立てたかったんですが……。腹立つなあ」

 ――なぜ、今、その話題?

(私だって、由良さんの素顔が綺麗だって絶賛したいけど)

「もう! 由良さん、それどころじゃないんですって! 雅さんが死んで…」
「死んで?」

 由良さんが、目をぱちくりさせている。

「あ?」

 途端、室内で倒れていた長老、実巳様の両親が「いたたっ」と一斉に呻きながら、顔を上げた。

「ううっ?」

 廊下では、今まで死んでいたはずの雅さんが身じろぎをしている。

「あ……れ?」

 死んでいなかった?

(でも、確かに、息していなかったはず?)

 気が抜けてしまって、よろめいた私の体を、素早く由良さんが支えてくれた。

「申し訳ない。怖い思いをさせてしまいました。でも、もう終わりましたから」
「終わったって?」
「実は……」

 由良さんは、こほんと一つ咳払いをしてから、堰を切ったように語り始めた。

「祓戸家の結界が破れてしまって、裏山に封じられていたはずの妖怪が、屋敷に奇襲をかけてきたんです。君が視た恐ろしい出来事は、全部妖怪の仕業です。奴は幻術の使い手なので、この場にいた人たちを死んだように、見せかけたのですよ」
「そんな……ことが」
「……できてしまうんです。妖怪なんで」

(妖怪かあ)

 今まで一度も見たことがないけれど、この家に嫁いできた身としては、その存在を否定はできない。
 由良さんは、ばつが悪そうに、頭を下げた。

「無事に退治しましたが、今回のことは、すべて俺のせいです。本当に申し訳ありませんでした」
「何で、由良さんが謝るんです?」
「ああ、俺……国に仕える陰陽師なんですよ。怪しい気配があったこの村に派遣されたんです。今回は、そこの実巳様と力を合わせて、妖怪を滅することに成功したのです」

 へえ……としか、私は声が出なかった。
 あまりにも、現実離れしすぎていた。

「陰陽師? じゃあ、由良さんは、幸三さんの息子さんじゃなかったと?」
「はい。今回は徹底して、皆を欺く必要があったのです」
「そうだったのですか。それは……大変でしたね」
「……んなはずが!」
「わっ」

 突然、幽鬼のように、由良さんの背後で実巳様が立ち上がったので、私は再び、後ろにひっくり返りそうになった。
 それによって、一瞬、由良さんの瞳が金色に光ったような気がしたけど……。

(気のせい……かな?)

 その後、由良さんが顔だけ実巳様の方を向いて、何事か囁くと、実巳様は今までの荒々しさが嘘のように、大人しくなってしまった。

「あー……。小春さん。実巳様のことは、大目に見てあげて下さい。彼、先程の凄まじい死闘で力を使い果たしてしまって、陰陽師として再起不能になってしまったんです」
「何だと?」

 再び、実巳様が顔を真っ赤にして、こちらを睨んできたが……。

「お労しいことです。でも、事実ですから、仕方ありませんよね。ねえ、皆さん」

 由良さんが私の肩越しに、実巳様のご両親を一瞥すると、彼らは壊れた人形のように、こくこくと頷く。

「そうよ。この上なく辛いことだけど、実巳には、もう能力がないのよ」
「認めたくないが、そこの陰陽師の言う通りだ」
「……だそうですよ。実巳様」
「貴様……。よくも、そんな」

 ……が、由良さんはまったく取り合わずに、私の震える手を優しく撫でながら、きっぱり告げたのだった。

「そういうことですから、これから、実巳様は普通に働くしかないのです。陰陽師の祓戸家は解散。……君は自由なんですよ。小春さん」