賢しい妖狐は春を愛する

(何だ、コイツ。屋敷に張っていた結界まで破ったのかよ)

 実巳は全身に鳥肌を立てながらも、再び、立ち上がった。
 着流しの裾を華麗に捌きながら、部屋に侵入してきたのは人ではない。
 薄暗い室内で輝く白銀の髪。
 頭部で存在を主張している獣耳。
 臀部でゆらゆら揺れているのは、尻尾に違いなかった。

「貴様」

 ――やはり、いたのだ。
 三百年前、この辺り一帯を恐怖に陥れた妖狐は、実在していた。

(よりにもよって、僕の代でご対面か)

 貧乏くじもいいところだ。
 まさか、自分が当主の時にこんなことが起こるなんて……。

(皆、殺されてしまった)

 しかし、怒りを覚えたところで、狐が放つ妖気に圧倒され、呪文一つ唱えることも出来なかった。

「久しぶり。祓戸の当主殿。こうして、当主と顔を合わせるのは三百年ぶりか。まあ、元気そう……でもないようだけど?」
「狐め……。いつ祠の封印を破った?」
「封印ねえ」
「答えろ」

 くっくっと、狐は肩を上下させて、不気味に笑った。

「俺はね、最初から封じられてなんかいなかったんだよ」
「はっ?」

 実巳の思考は停止した。

「封じられたフリ(・・)をしていただけ。……で、ときに遠くから、ときに近くから、お前たちの行動を監視していたのさ。おかげで、帝大にも通い、海外留学も果たし、益々、俺様は賢くなってしまったわけだ」
「……そん……な。じゃあ」

(何のために、僕は……)

 脱力して、その場にへたりこんでしまった。
 しかし、そんな実巳にも狐は容赦がなかった。

「ああ、可哀想にね。同情するよ。誰もいない場所に強力な結界なんぞ張って……。三百年の間、毎日それを強化するために、寿命を縮めて霊力を使って……。挙句、子供も出来にくくなってしまい、どんどん、能力が枯渇していってしまって……。しまいには、妖狐の強い妖力にすら、反応できなくなってしまった。ああ、何と惨い。この世に神などいないのだ」
「……く……そっ」

 こちらを煽るような大げさな身振りと、いかにもな嘘泣き。
 そして、その場に、ひらりとしゃがんだ狐は、実巳としっかり目線を合わせて、とどめを刺してきたのだった。 

「ねえ? 今、どんな気持ち? どんな気持ちなの? くくくっ」
「うるさい!」

 ぷつりと、脳の血管が切れんばかりに、実巳は激昂した。

「ふざけんな!!」

 懐に忍ばせていた手製の霊符を、狐めがけて投げつける。
 符は弾丸のように、飛んでいったが……。
 ……しかし。
 狐がひょいと避けると、霊符は畳の上に落ちて、黒焦げになって儚く消えてしまった。

「残念だよ。当主殿。怒り狂って、この程度とは……。小春さんに渡した防犯簪の妖力に気付いたようだから、多少は出来る奴だと思っていたんだけど……」

(……コイツ)

 現れて、たった数分で、実巳が家族の命と、ここまで培った自尊心を奪い去ってしまった。

(なんて奴だ。なんで、僕は……)

 慢心していた。
 表向きは裏山の封印を気にかけていたが、本当はここにいる全員、妖狐の存在なんて忘れていたのだ。

「そんなに、僕たちが憎かったか? お前は僕をいたぶるために、何も知らない娘まで利用したのか?」
「小春さんを? ……そんなはずないでしょう。絶対に(・・・)
「はっ?」

 「絶対に」というくだりを口にする時、めいいっぱい、力が込もっていた。

「俺は別にお前たちのことなんて、どうだって良かったんだ。放っておいたって、祓戸家は自然淘汰される。近いうち、血筋が絶えて断絶するだろうし……。それ以前に、こんな時代遅れの旧式一族、新政府の取り締まり対象になってもおかしくない。だから、俺はその日を、ただ待っているだけで良かったんだ。……それを、お前が小春さんに伽など命じるから」
「誤解だ」
「……うん。知ってる。そこで聞いてたからね。でも、俺、来ちゃったし。残念だけど、まあ、こんな事もあ……?」

 ――と、ぐだぐだ語っていた妖狐の獣耳が、突然、ぴくりと動いて、尻尾がぴんと伸びた。

 次の瞬間。

「いやあっ!」

 こだました叫声は、まさしく、先程話したばかりの小春のものだった。
 大方、雅の亡骸でも発見してしまったのだろう。

「……狐?」
「あー……あ」

 今まで、散々人を嘲笑っていた妖狐が一転して、頼りない溜息を吐き捨てた。

「何で、わざわざ自分から来るのかな」

 獣耳がしゅんと垂れている。

(何なんだ?)

 そして、憂い顔の妖狐は再びその場に腰を下ろすと、実巳を見据えて両手を合わせたのだった。

「……あのさ、悪いけど、ちょっと俺に話を合わせてもらってもいいかな?」

 狐は小首を傾げて、お願いの姿勢をみせた。
 しかし、それは決して可愛いおねだりではない。
 絶対的な「命令」なのだ。