賢しい妖狐は春を愛する

◇ 
 屋敷内の混乱に乗じて、勝手口から外に出た雅は、一人ほくそ笑んでいた。
 実巳がああでなければ、名家の正妻になるというのも悪くないと思っていた。
 この辺りで、祓戸家に逆らえる者はいない。

(子供さえできれば、無敵の存在になれるって思っていたのよ)

 だが、嫁入りしても、一向にお呼びがかからないばかりか、催促してようやく会えたかと思ったら、夫の実巳は雅を嫌って遠ざけた。

 ――だから、彼に乗り換えることにしたのだ。

「帝都ってどんなところかしら? 早く行きたいわ」

 堅苦しい田舎なんて、出てしまえばいい。
 由良という男は、帝都の大学に籍を置いているという。
 
(念のため、実家の者に調べさせたけれど、事実だっていうし、そんな良い男、放っておいたら損でしょう)

 既成事実を作ってしまえば、由良の養父も雅との仲を認めざるを得ないはずだ。

(あの子には、勿体ないのよ)

 とにかく、ひょろっこが邪魔だったので、雅は排除する方法を考えた。

(我ながら、素晴らしい策だと思ったのに)

 なぜか、途中で実巳が割って入ってきた。
 今まで、屋敷内のことなんて、我関せず、知らんふりだったくせに……。

(きっと、旦那様は、日頃の鬱憤をぶつける相手が欲しかったのね)

 殺しても文句も言えない家の娘だと知って、ひょろっこを指名したのだ。

「あんな男、くれてやるわ」

(私には、由良がいる)

 ひょろっこ如きに、鼻の下を伸ばして、デレデレしているような男だ。
 雅が本気で迫れば、簡単に落とせるはずだ。

「こんにちは!」

 ――来た。
 幸三の住所に宛てた手紙は、無事届いたらしい。

「由良さん。はじめまして。雅と申します」

 口角を上げて、笑顔の仮面を装着してから、くるりと振り返る。

「ああ、雅さん……ですか。夕方に食材を届けて欲しいと手紙をくれたようで」

 外套(インバネス)に、深く帽子をかぶった青年が、竹籠を背負ったまま、雅の目の前にいた。

(あら……)

 帽子の隙間から、綺麗な瞳が垣間見える。
 普段、表情のほとんどは見えないのだと、ひょろっこが話していたが、相当な美男子ではないか……。

「あの、私、ひょろ……いえ、小春さんには、いつもお世話になっていて」
「そうですか。……で、その小春さんは、今どちらに? 食材の確認をして頂きたいのですが……」
「それが……」

 雅は、しおらしく俯きながら、由良を手招きした。

「実は、そのことについて、お話したいので、こちらにいらしてくれませんか」
「えっ? でも、荷物もありますし、人目のある、こちらで話した方がお互いのためでは?」
「人目があると話せないことなんです。貴方は小春さんがどうなってもいいの?」
「……分かりました」

 渋々、頬をかきながら、由良が雅についてきた。

(チョロいわね)

 いっそのこと、既成事実の一つでも作ってしまえばいい。
 人気のない、裏山の方に、雅は由良をうながす。
 そして、雅は自分に都合の良いように、今日の出来事を、掻い摘んで由良に説明した。

 ――小春の出奔未遂。盗み。金目当ての結婚であったことが露見したこと。

「小春さんも、お祖母様のことがあって、仕方なかったんだと思うの。最近、疲れているようだったし……。逃げ出したくもなるわ」
「……それで、その旦那様は、小春さんを咎めるために、伽を命じたのですか?」
「旦那様のお気持ちは、私には分からないけど、たまには、珍しいモノをと思ったのかも……」
「珍しいモノ?」

 由良の顔色が一変した。
 静謐に支配されていた竹林の中を、一陣の風が吹き抜ける。
 黄昏時の冷気が吹き飛ぶほど、ぴりっと張りつめた緊張感が、なぜかその場に広がっていった。

(あれ?)

 おかしい。
 雅はその時になって、自分の行いが間違っていたことに気付いた。

(怒ってる? 穏やかで、優しい人……ではなかったの?)

 突然、帽子を脱いで、その場に放り投げた由良が、にやりと笑った。
 猛烈な違和感があった。
 雅に霊感はないが、この男から禍々しい何かを感じる。

(駄目だ)

 本能的な危機感が雅を襲った。

「あ……。えっと、だから、そういうことですので……。私はこれで」

 いけない。
 逃げなければ。

(早く……)

 殺人鬼の持つような、狂気的な視線を感じる。
 コレは、絶対関わってはいけないものだ。

(どうして? だって、由良さんは、帝都の大学に在籍中の秀才だって、みんな、そう言って……)

「ひどいなあ。何で、逃げるんです?」 

 袖を引っ張られて、雅は転びそうになった。

「わざと、人気のない場所に誘導したのは、お前じゃないか?」
「ひいっ!?」
「わざわざ、小春さんと話す時は邪魔が入らないように、術を使って、人を遠ざけていたっていうのに。小春さん自身を、お前らに遠ざけられてしまったのなら……。さて、どうしたものか?」

(……術?)

 それが何のことだって、雅にはどうでも良かった。

「助け……」

 悲鳴をあげたくても、声が出ない。
 しかし、叫んだところで、誰も気づきもしないだろう。

「ははっ。人妻が聞いてあきれる。小春さんが話していた「私なんかに気さくに話しかけてくれるお嬢様」って、お前のことだろう。あの人、こんな性悪とは知らずに、体の心配までして……」

 由良の髪が、みるみる伸びて、腰の辺りまでになった。
 金色の瞳が暗がりの中、猫の目のように、きらりと光る。

「旦那様が脈無しだから、こっちに乗り換えか? あんな子供騙しの説明で、幻術を得意とする俺様を出し抜けるとでも? どうせ、お前が小春さんを嵌めたんだろう?」
「だって、あの子、いつも、へらへらしてて、私を嘲笑っているような気がして……」
「ほう。被害妄想に取り憑かれたお嬢様は、害悪でしかないな。いっそ、死んでみるか……」

 いつの間にか、由良の爪まで伸びて、凶器と化している。
 それを、顔に押し当てられて、雅は失神寸前の恐怖を味わっていた。
 実巳に脅された時も、いい気はしなかったが、それでも、命の危険までは感じなかった。
 しかし、この男は違う。
 本気で、殺るつもりだ。

「ごめんなさい! 許して!」

 どうすれば、いい?
 逃げ場もない。
 泣いても許してくれない。
 こわい、こわい、こわい。

「うるさいな。お前のせいで、俺の三百年の計画が狂ったんだからな」
「私の……?」
「そうだ。だから、教えてくれよ。旦那様の居場所を」