真夜中のティータイム

「さて、次は笹原様の番ですね」
「え、でも、まだ戻れないんですよね」
「はい。今はまだ」

「それは、私が死にかけていることを覚えていないからですか」
「その通りです」

 店主は、冷めてしまったので、と紅茶を淹れなおしてくれた。それを待っている間、千鶴は考えてみたものの、やはりいつどこで死にかけたのか分からない。

「笹原様、『離れたい』を紐といてみませんか。思い出せるかもしれません」
「離れたい…………今ある全部から、離れたい」
「全部、ですか」
「深夜までの仕事も、会社に近すぎる家も、楽しみのない毎日も、全部」
 千鶴は自分が口にしたのが、ただの弱気な愚痴だと気が付いて、慌てて笑顔を作って話を誤魔化した。

「で、でも、私の要領が悪いだけなので。会社の人たちも、いい人たちだと思うので。色々と厳しいことは言われますけど、期待してくれているってことだと思いますし、そもそも私が仕事遅いのが悪いからなので、えっと、その」

 何が言いたいのが、自分でもよく分からなくなった。
 店主は千鶴の目を数秒間、じっと黙って見つめてきた。整った顔がこちらに向いていて何だか緊張してしまう。

「……期待や成長のための厳しさと、理不尽は違うと思いますよ」
「え?」
「大声で怒鳴り散らしたり、言っていないことを言ったとすり替えてミスを押し付けたり、そういうことで成長はしません。ただ萎縮する人間を作るだけです」

 淡々と並べられた言葉に、同情するものは含まれていない。ただただ、事実を言っているだけだ。なのに、目から鱗が落ちたような感覚になるのは、どうしてだろう。

「笹原様は、人の感情の機微によく気が付く方なのでしょう。美結さまの『離れたくない』の本当の意味を察していましたし」
「でも、それはあなたも分かっていたことで」
「僕は視えているだけです。言おうとしたことを先に言われてしまったので、驚いたくらいですから。凄いと思います」

 お世辞には聞こえなかった。だから、千鶴は戸惑った。
 店主は身を乗り出して千鶴との距離を縮めた。

「よく気が付く、だからこうした方がいいというのが分かるのだと思います。自分のことを後回しにしても、最善を取ろうとしてしまう」
「……」
「皮肉めいた、真面目だね、気にし過ぎだよ、などと言われることが多いのでは? それらの言葉に、首を絞められてしまう」
「なんっ、で……」

 知っているの、という言葉は続かなかった。口を開けば、嗚咽がもれてしまいそうだった。涙がパンツスーツにポロポロと落ちていく。視えているだけ。そうだとしても、それが苦しいのだと寄り添ってくれる人はいなかった。

 二度、三度と深呼吸を繰り返して、自分を何とか落ち着かせた。

「笹原様、自身が生死を彷徨っている、と聞いた時、何を考えましたか」
「えっと、自分が死にかけているなんて、とか、一体いつ、どこで、とか……」
「いつ、どこで、は考えても、“なぜ”は考えなかったのですね。それは、心当たりがあったからでしょう」

 店主は確信を持ってそう言った。確かに、何を見ても何をしても、それをいつも考えているから、どうしてとは思わなかった。

「そう、だとしても、私は覚えていないんです」
「覚えていないのではないです。気が付いていないのです」
「でも、本当に私は死にかけた覚えなんて――」
「死にかけているのは、体ではありません。心の方(・・・)です」

 顔に思いっきり冷水を浴びせられたような気分だった。千鶴は、店主の言葉を咀嚼するために、同じことを繰り返した。

「死にかけて、いるのは、心……?」
「はい。生死を彷徨う者が辿り着くこの店に来てしまうほど、あなたの心は危険な状態です。離れたいと思っているものから、すぐに離れてください」
「でも、仕事だってあるし。今、逃げ出したらもう戻れないかも」
「逃げじゃありません。心を死なせないための処置です」
「でも、だって、皆しんどい思いをして仕事に行ってるし、私だけそんなことで」
「“そんなこと”ではないです。風邪をひいたら、病気になったら治療をするのと同じように、心にも処置が必要です」

 その後も、でも、だって、を繰り返す千鶴に、店主は投げ出すことなく言葉を返してくれた。同情するでもなく、不安を煽るようなものでもない、客観的な正論は、徐々に千鶴の身に染みてきた。



「……離れた方が、いいですか」
「はい。ここへ来た時に、あなたはその紅茶を選びました。紅茶の力が後押ししてくれますよ」
 離れたい、という千鶴の願いを、紅茶が後押ししてくれる。一人では踏み出せそうにないことも、この不思議な屋台と紅茶の力を借りたらできるかもしれない。

「私、頑張って、みます」
「応援しています」
「あの、またここに来てもいいですか。紅茶美味しかったですし、挫けそうになった時に来たくて……」

 そこまで口にして、ここは狭間の者、千鶴で言えば心が死にかけている状態でないと、来ることは出来ないのだと、思い至った。もう、ここへは来られない。

「すみません、今のは忘れてください」
「千鶴さん、これをどうぞ」

 店主から手渡されたのは、キーホルダーだった。ミニチュアの透明な紅茶ポットで、中には紅茶色の水が揺れている。屋台の照明を反射させて、千鶴の手のひらの上でキラキラと輝いている。

「これは……」
「通行手形、チケットのようなものです。それがあれば、狭間にいない者でもここへ来ることが出来ます」
「いいんですか。私がもらって」
「はい。また来たいと言っていただけて嬉しかったです。――それから、この店の特性上、お客さんはそう多くなくて。俺の話し相手にもなってもらえると嬉しい、かな」

 答えの後半、店主の一人称が『俺』になって、口調が少しくだけたものになった。口元だけで小さく笑った東雲の表情が、やけに印象に残る。

「……! はい。私で良ければ、よろしくお願いします」

 千鶴はキーホルダーを大切に握りしめて、屋台を後にした。途中、一度振り返ってみたら東雲が気付いて会釈をしてくれた。千鶴も会釈を返して、再び歩き出した。今度ここへ来る時には、今よりもいい心で少し治療が出来た心で。