甘露桜灰音は、一族からは「無能」と、女学院のクラスメイトからは「呪いの子」と呼ばれていた。そのどちらもが、同じ理由からである。女学院を卒業した今でも、彼女は由緒ある甘露桜家の中で、無能と呼ばれ続けていた。
「ほぉら、お姉さまぁ? 立ち上がって見せてよ」
「……っ」
「出来ないわよねぇ? だって、お姉さまってば、なぁんの能力もないんだものねぇ? 無能で生まれて、申し訳ない気持ちはないのぉ?」
腹違いの妹である紅葉はそう言うと、愉快そうに口角を上げた。彼女は結い上げられた紅樺色の髪を整えながら、優雅に着物の袖を揺らす。
一方で灰音は、長い黒髪を広げながら地面に伏していた。冬の乾燥した空気は底冷えを引き起こし、地面から灰音の肌を刺す。妹の足元で、灰音は鈍い動きしか出来ない体を捩る。しかし、かすかに動いた手で砂利を掴んだだけで、顔すらもたげることは出来なかった。
「ほらほら、早くぅ!」
妹の草履が、姉である灰音の髪を踏みつけ、ぐりぐりと砂に埋めるように捻る。
「……痛っ……!」
「なぁにぃ? なんか喋ったぁ? 蚊が鳴いただけかしらぁ?」
「も……みじ……っ。……っ」
灰音は喉から声を絞り出した。
――こんなことに意味はない。きっといつもの――妹の憂さ晴らしだ。だけれども、いつだって灰音にはどうすることもできない。
時は万保二十年、二月。江戸幕府による大政奉還の後、次の元号は明政で、その次の年号が現在の万保だった。
帝都に構える純和風の大きなお屋敷の裏庭に、ふたりの姿はあった。派手な着物を着た妹と、地味な継ぎ接ぎだらけの着物を着た姉。その様子は、同じ家の令嬢姉妹には見えないほどだった。
この国では、古くから妖怪が出現しては、人に害をなしていた。そして、それらを退治できるのは――妖怪祓いの異能を持つ人々――祓い屋だった。この能力は基本的に遺伝で、甘露桜家は代々祓い屋としての異能を受け継ぐ家のひとつだ。
そんな家で、能力を持たずに生まれたのが灰音だった。いや、まったくないわけではない。灰音は妖怪を見ることは出来たが、祓う能力がなかったのだ。――そう、今のように。
「う……っ」
うめき声を上げた灰音は、変わらず地面に伏せており、その背には、人面の豚のような妖怪が乗っていた。腹は飛び出、手足は細長く、垢まみれのなんとも醜い姿だった。それは、紅葉の使役する妖怪――式神だった。彼女のそばに置かれた壺の口からは、一筋の平らな紐が伸びていて、それが式神を繋ぎ止めている。
式神は紅葉の命令で、灰音にのしかかり、苦痛を与えているのだった。その姿が、灰音にはよく見える。けれども、自分より小さなそれを振り落とすことさえ出来ない。
「紅葉……っ。やめて……っ」
「えぇー? どうしてぇ? お姉さまのためを思って! 私は特訓してあげてるのよぉ? お姉さまだって甘露桜家なんだから、こうしていればいつかは異能に目覚めるかも! うっふふふふ!」
「ぐ……っ」
ただ体重が重いだけではない。息が詰まるような重苦しい空気、全身が痺れるような感覚――妖怪の放つ妖気に当てられたに違いなかった。
甘露桜家は壺などの呪具を使用し、妖怪を祓う。その際、ある程度力がありつつも服従させられそうな妖怪は、式神としてそのまま使役することがあった。そしてこれも、そのうちの一体だった。
灰音の額を、汗が滑る。十九歳になったばかりの彼女は、三歳下の妹に踏まれながら、瞳を伏せた。
こんな暮らしが始まって、もう十年以上になる。
母は、灰音が一歳の時に病に臥せた。異能の名家から嫁いできたが、元々病弱であったのだ。これ以上の子どもが望めないと考えた父は、別の異能の家から第二夫人を迎え、それが紅葉の母だった。第二夫人は紅葉を産んだ後、さらに弟も産み、寝たきりの母よりも本妻らしく振る舞った。
紅葉に異能が現れたのは、五歳という早さだった。その頃七歳だった灰音は、まだ妖怪を見ることすら出来なかった。
灰音は、母が亡くなった日のことを今でも思い出す。
「ごめんなさいね、灰音。異能が使えるように産んであげられなくて、ごめんなさい……」
そう母は言って、静かに涙を流した。
夕日が障子を通り抜けて、母の顔を照らす。畳の上に敷かれた布団に、母は寝ていた。
九歳の灰音はその手を掴み、首を振る。
「ちがうの、ちがうの……。泣かないで、お母さま。わたしが悪いの……。わたしが、お父さまの言うとおりに力を扱えないから……。お母さまのせいじゃないの……」
「いいえ。これは、遺伝なのだから……。母が悪いのです……」
母はそう言って、痣だらけの灰音の腕をなでた。この頃には、灰音はもう無能だと見下されていたのだ。
そうして母は、その晩のうちに病状が悪化して死んでしまった。
母が亡くなってから、灰音の立場は一層悪くなった。かろうじての令嬢という立場から、まるで使用人のように扱われるようになってしまった。
やがて紅葉は、八歳という幼さで封印壺を自在に扱えるようになり、その頃にようやく灰音は妖怪の姿が見えるようになった。そして――それから、灰音の成長はない。ただ、見えるだけだ。父もすっかり匙を投げてしまった。成人した今、もうこれ以上の成長は見込めないだろう――一般論でもそうだし、灰音は自分でもそう思っていた。
――わたしに出来る事なんて、なんにもない。わたしに可能なことのすべては、異能持ちの家系なら未就学児にだって出来ることだ。だったら、なんにも出来ないのと同じでしょう?
* * *
翌日のことだった。
「失礼いたします」
灰音が春の間に入ると、室内には家族が勢揃いしていた。父、第二夫人、紅葉、そして紅葉の後に生まれた弟の充だった。彼らは皆、ちらりと灰音の方を見て、また上座に座る父に視線を戻した。
灰音は部屋の後ろの方に正座をする。
紅葉が振り返って、灰音を見るとにやりと笑った。
「お姉さまにも関係ある話だと良いわねぇ!」
「…………」
灰音は、答えない。
父の様子は心なしか上機嫌に見える。いい話なら、おそらく自分には関係ないだろう……。
「全員揃ったな。……では、話をする」
一拍おいて、父が口を開いた。
「このたび、紅葉の縁談が決まった。――梅小路家の三男、景光さまだ」
「まあ!」
紅葉が顔をほころばせ、正座したままぴょんと跳ねた。
「梅小路家と言えば、うちと同等だわ。それに、景光さまはお顔も良いし!」
「景光さまは婿入りの方向で話がまとまった。つまり、甘露桜家の次期当主は紅葉、お前で決まりだ」
「まああ!」
紅葉は、先ほどより大きな歓喜の声を上げた。
「それ、本当? お父さま! ありがとうございます!」
「ちぇ。姉さまが次期当主かよ」
そう充が悪態をついた。十四歳のこの弟は、父や紅葉と同様に妖怪祓いの能力を持っていたが、灰音から見ても紅葉ほどではないように見えた。
「まぁ、アイツじゃないことは確かだと思ってたけど」
そう言って充は、灰音を見た。目が合ってしまい、ドキリとした灰音は、顔を伏せる。
「…………」
(それは、わたし自身も思っていたけど……)
後継者の選択肢に、わたしの名前はない……かもしれないと、灰音は思っていた。だけれども、男女関係なく第一子が跡継ぎになることも多いこの界隈で、もしかしたら……という薄い夢を見ていたこともある。
結局、能力重視で考えれば至極当然――父が選んだのは、紅葉だった。
……紅葉が当主でも構わない。無能と呼ばれても構わない。だってどちらも事実なのだから。だけれども、やはり直接言われると胸に来るものがあった。
父は言った。
「充にもいくつか縁談の話がある。だが、なにぶんまだ子どもばかりだからな。もう少し相手の異能の成長具合を見てから決める」
「父さまに任せるよ」
「良かったじゃない、充。あんたにも縁談があるなんて。やっぱり、お父さまと私が優秀だからじゃなぁい?」
「父さまはすごいけど、姉さまの無茶苦茶な祓い方はさぁ……」
「なによ!」
紅葉が冗談っぽく怒って見せて、充が笑っている。その様子を見て、第二夫人も微笑んでいた。
灰音はいつも蚊帳の外だ。
そんな中、紅葉が言った。
「ねぇ、お父さまぁ。――灰音お姉さまはどうなのぉ? 縁談のお話!」
「!」
心臓がドクンと脈打った。
(あるのかな……。わたしにも……。もし、あれば……この家でなければ、もしかしたら……別の人生が、あるのかも……。でも、もし変な家だったり……相手がすごく年上のお爺さんだったりしたら……)
灰音は、それを聞くのはなんだか怖いことのように思った。嫁ぐことが希望になるのか、今より悪くなるのかもわからない。
おそるおそる、灰音は父の顔を見上げる。父は渋い顔をして、髭をなでていた。
「それがな。灰音には縁談が来ていないんだ。やはり無能ではどこもいらんか」
「え……っ?」
「百合子を娶ったのは間違いだった。こんな無能しか産まないとは……。まったく、役に立たん。家の結びつきにも使えないとは」
「…………」
母の名を出され、灰音は目を見開いて硬直する。
それと同時に、紅葉の弾けるような笑い声が響いた。
「きゃっははははっ! お姉さまってば、縁談ゼロぉ~っ!? その歳でっ!? この家でっ!? ブスでもないのにっ!? 無能って本当にマイナスなのねぇっ!!」
「ははっ! 姉さま笑いすぎ! でも、わかるよ。すげーおもしれーっ! これからは姉さまとオレで、甘露桜家を盛り上げていこうな!」
「……っ」
頭が、ガンガンする。紅葉の甲高い笑い声と、充の声変わり前の高い声が、脳に響く。
どこかの異能の分家くらいは、話があるんじゃないかと思っていた。けれど、
「わ、わたしが無能で、すみません……。お父さまに、甘露桜家にご迷惑をおかけして、すみません……」
灰音は震える声でそう言って、頭を下げるほかなかった。
そんなことがあっても、変わらず次の日は昇ってくる。
翌日、灰音と紅葉の姿は街にあった。最近流行りの西洋風の建物が並び、着物だけではなくドレスなんかを売る店も並んでいる。ここへは、家から馬車で一時間ほどの距離だった。
甘露桜家は妖怪を扱うということもあり、街の中に屋敷は構えておらず、山の麓に屋敷を建てていた。道は屋敷周辺は砂利道だったが、途中からは土を踏み固めたものになっている。そこそこ整備されており、街と屋敷の間はほぼ一本道だった。
馬車を降りたふたりは、女の使用人をふたり引き連れ、四人で街を歩く。と言っても、灰音も使用人扱いの荷物持ちで呼ばれただけである。実質、紅葉の買い物に付いてきた使用人三人、という構図だった。
「ほら! しっかり運んでよね!」
「は、はい……」
既に二箱も抱えている灰音に、さらに一箱が上に積まれる。
他の使用人も荷物を持っているが、灰音に持たされている荷物が一番大きく、重たかった。
三箱抱えることになり、その重さで灰音はよろめく。
「……っ」
「落としたら承知しないわよっ! 次期当主のっ! 私の物なんだからね!」
「……! ……はい」
次期当主――わかってはいたが、灰音は紅葉から目をそらした。
箱は重く、手からずり落ちてしまいそうだ。
そんな時だった。
「きゃああああーっ!!」
突然、つんざくような悲鳴が聞こえた。
「な、何……?」
灰音は立ち止まり、声のした方を見る。
どうも、この通りの先でなにか騒ぎが起きたらしい。人々は不安そうに顔を見合わせたり声のした方を見て、落ち着きをなくしている。
「逃げろ! なんかいるらしい!」
「何がいるってんだ!」
「知らねぇよ! 見えねんだからよ!」
(見えない……?)
灰音は歩きながら、耳を澄ませる。
「店のガラスがひとりでに割れて、ぐちゃぐちゃになっちまったんだ!」
「なんだそりゃ!? 地震か!?」
「バカ言え! 地面なんか揺れてねぇよ!」
一般人に見えないものが、被害を出す――灰音には心当たりがあった。そしてそれは、紅葉も同様らしかった。立ち止まった紅葉に追いつくと、彼女の顔色は悪く、脂汗を掻いている。彼女は急にガリガリと頭を掻くと、顔を歪めて言った。
「なんなのよっ! 今日、封印壺なんて持ってきてないわよ……っ!」
「……っ! そんな……! 式神もいないの……?」
「持ってくるわけないでしょ! 楽しい買い物だってのに! 妖怪なんて、出来れば持ち歩きたくなんかないわよっ!!」
紅葉はそう叫ぶと、地団駄を踏んだ。
「きゃああああっ!!」
「うわぁああああっ!!」
人々の悲鳴が近付く。向こうからこちらに人が逃げてきており、彼らは揃って悲鳴を上げているのだった。様子を見に行かせた使用人も戻ってこない。騒ぎに巻き込まれたのだろうか。
「急ぐわよ!」
「は、はいっ」
幸いにも、人々が逃げる方向と馬車を繋いである方向は同じである。灰音は小走りで駆け出そうとした。しかし、荷物が邪魔で、どうにも上手く走れない。
「きゃっ……」
そうして、一箱落としてしまった。ガシャン、と中のものが割れる音がした。
(しまった――!)
思った瞬間、パシンという音と共に、頬がぶたれる感覚。
紅葉が灰音を平手打ちしたのだ。
「このっグズっ!」
「ご、ごめんなさいっ。……でも今は……っ」
「なによ!」
今は、緊急事態で――そう言おうとして、灰音は目を丸くした。
「あ、ああ……っ! 紅葉……っ」
「なんなの!? って、きゃあああっ!?」
いつの間にか、紅葉の背後には巨大な『人骨』がそびえ立っていた。五メートルを超える骸骨の妖怪――『がしゃどくろ』である。
ガチ、ガチガチ――大きな顎が動かされ、歯を打ち鳴らす。
やつが巨大な体を動かすと、パキパキと骨が折れるような乾いた音が響いた。
(……どうしてこんな大きな妖怪が……)
灰音は目を見開いたまま、硬直していた。
「フシューッ……」
生ぬるい腐臭が、がしゃどくろの歯の間から大量に吐きだされる。
骨だけで出来た腕がパキパキと音を立てながら、ゆっくりとこちらに伸ばされた。
「なんなのよこいつ……! くっ! ――呪を唱う。『かごめかごめ・捕縛』!」
紅葉の手から赤い糸が勢いよく飛び出し、がしゃどくろに巻き付いた。ピンと張られた糸にぐるぐる巻きにされ、がしゃどくろは動きを止める。
「ざまぁないわね!」
その間に紅葉が走り出し、ハッとした灰音は慌ててその後を追った。
馬車までは、もう少しだ。
馬車預かり所は、街のはずれにある。商店街の終わりから少し離れた場所に、それはあった。街の外れからはすぐに野原が広がっている。枯れた茶色い草を踏みながら、灰音は進んだ。
「早くっ! 早く早く早くっ!」
「は、はい……っ」
紅葉が灰音に向かって怒鳴る。
自分の馬車を見つけると、紅葉は預かり所の主人に出発の準備を急がせた。そうしている間に、灰音と使用人もようやく追いついた。
「はぁっ……はぁっ……」
荷物を抱えたまま、灰音は荒い息を整える。
(もう、馬車まで来た……! これで逃げられる……! 家に帰ったら、紅葉は封印壺を取ってくることが出来るし、何よりお父さまもいる……!)
希望が見え、灰音は何度もそれを頭の中で復唱した。
その時、灰音の視界が急に暗くなった。上から、影が落ちてきたのだ。
(――え?)
パキパキ。骨が割れるような音が聞こえて、背筋がゾクリとした。
(まさか……)
恐る恐る見上げるとそこには――再びがしゃどくろの姿があった。捕縛の糸は引きちぎられ、自由になった姿でそこに立っていた。
「あ……ああっ……!」
恐怖で、悲鳴とも叫びともつかない声が漏れる。
灰音に妖怪祓いの能力はない。紅葉に封印壺はない。
(怖い……! どうしよう……!)
馬たちが怯えて、嘶いている。それが一層、灰音の思考を不安にさせた。
「出発の準備が出来ました!」
御者が叫びながら、馬車の鍵を持って走ってきた。
馬車の扉が開くと、紅葉はすぐに乗り込んで叫んだ。
「荷物を乗せて! 早くっ!」
「はい……っ」
灰音と使用人は、車内に荷物をおろす。
その時、ガシャン――ぐらり――馬車が大きく揺れた。がしゃどくろが馬車を上から掴んで、振ったのだ。
「きゃあっ!」
開いたままの扉から、灰音と紅葉が転がり出てしまう。
灰音はよろりと立ち上がると、紅葉のそばに向かった。
「この……っ! 呪を唱うっ! 『かごめかごめ・捕縛』っ!」
もう一度紅葉が赤い糸でがしゃどくろを縛るが、今度はすぐに引きちぎられてしまう。
「こいつ……っ!」
「紅葉……っ」
灰音には、紅葉だけが頼りだった。
封印壺がなくても、妖怪祓いの能力はあるはずだ。捕縛以外の術も使えたはずだ。優秀な妹なら、この局面をひっくり返す力があるかもしれないと、そう思っていた。
――だから、とても驚いたのだ。
次の瞬間、灰音は、ドン――と突き飛ばされた。
「え……?」
「悪いわね、お姉さま! 捨て駒になってちょうだいっ!」
そう言って紅葉は、いつものように口角を上げてにやりと笑った。
「な……っ!? きゃあああっ!?」
がしゃどくろの骨の手が、灰音の体を掴む。それはとても冷たく、氷に掴まれたかのようだった。がしゃどくろが腕を上げると、灰音の体も高く上げられた。
「い、嫌……っ。紅葉、助けて……」
「今よ! 馬車を出して! 早くっ!」
紅葉が叫ぶ。
馬車は、すぐに発車した。馬たちはいつもの倍の速度で走り出し、すぐに遠くなる。
後には、捕らえられた灰音だけが残された。
「そん、な……」
宙に浮かんだまま、灰音は馬車の去った方向を見ていた。
空はどんよりと曇り、冷たい風が強く吹いた。枯れ枝が揺れ、それさえも骨のように見えた。
周囲に人はいないようだ。馬車預かり所の主人も含め、皆逃げたのだ。
「フシューッ……」
生ぬるい腐臭が、すぐそばで発せられる。がしゃどくろが、手を動かす。パキパキと骨が鳴ったかと思うと、体への締め付けがきつくなった。
「ぐ……っ! ぁ……っ」
(どうしてこんなことに……)
灰音はうめき声を上げながら、目を瞑った。
自分には、どうすることもできない。このまま取り殺されてしまうだろうか。
(でも、わたしが死んだところで……誰も困らない……)
――家族には無能と虐げられ、わたしが無能なせいで母は自分を責めながら死んだ。縁談もなく、このまま惨めに暮らすだけならば……生きる意味なんてない……。
締め付けが一旦緩み、灰音は片目を開けてハアハアと大きな息をした。
馬車預かり所にはまだ他の馬車があり、残っている繋がれたままの馬たちが不安そうに嘶いている。
がしゃどくろは、左手で灰音を持ったまま、右手でそれらをつまむ。そして――ポイと口に放り込んだのだ。食われた馬はバリボリという大きな咀嚼音とともに、飲まれていく。
「あっ……ぁ……っ」
喉が詰まって、悲鳴が声にならない。
灰音は眉間に皺を寄せ、ぽろぽろと涙をこぼした。
わたしに、生きる意味なんてない。だけど、こんな終わりは怖くて、とても怖くて。なりたかった祓い屋にもなれず、妹にも見捨てられ、わたしがいなくなっても誰も困らない。わかっているのに、それでもやっぱり死ぬのは怖いなんて……。
がしゃどくろは、灰音を頭上につまみ上げる。
(ああ、次はわたしなんだ――)
その時だった。
「謹んで奉る。天つ焔よ、我が刃に宿りて穢れを焼き祓い給え! ――『紅蓮鳳凰斬』!!」
力強い青年の声が響いた。それとともに、灰音の視界は炎に包まれる。ゴウゴウと燃える紅蓮の炎は、灰音の周囲を取り巻く。
(なに!? 熱い……っ!)
思ったのも束の間、灰音の体を掴んでいたがしゃどくろの手が、パァンと弾け散る。この炎で骨が砕けたのだ。
ふわりとした浮遊感の後、
「――え? きゃああっ!?」
すぐに灰音の体は落下し始めた。
炎の輪から抜け出たことで、視界が晴れる。がしゃどくろはまだ燃えており、火の粉と骨の欠片が共に落下していく。
地面まではすぐだ。硬い地面に叩きつけられることを覚悟して、灰音は目を閉じた。(もうダメ……!)
しかし、いつまで経ってもその衝撃は来なかった。代わりに、温かな体温と逞しい腕の感触。――灰音は、がっしりとした腕に受け止められたのだ。
「もう大丈夫だ」
「え……?」
耳元で青年の声が聞こえて、灰音は恐る恐る目を開ける。
そこにいたのは、端整な顔立ちの青年だった。歳は二十代前半だろうか。黒い髪は艶やかで、烏の濡れ羽色をしている。形の良い眉やスッと通った鼻筋は、総じて凜々しい。そして何より灰音の心を奪ったのは、その双眸だった。黒髪の間から覗く瞳は、まるで磨き上げられた黄金のように光っていた。
(こんなに綺麗な男の人、今まで見たことない――)
灰音は恐怖も忘れて、ほぅ……と見惚れてしまう。
青年は灰音をお姫様抱っこしたまま数歩歩き、ゆっくりと地面に下ろした。
「……どこか特別痛むところはないか?」
「い、いえ……。ありがとうございます……」
「そうか。危ないところだったな。間に合って良かった」
「え……。あ……!」
はっとした灰音は、がしゃどくろのことを思い出すと、慌てて振り返った。
そこには、ゴウゴウと燃え盛る骨の骸の姿があった。はじめ腕だけが燃えていたはずだが、今は全身が紅蓮の炎に包まれている。
馬車預かり所もいっしょに燃えており、それらの瓦礫や破片が降ってこない位置に運ばれたのだと、灰音は気が付いた。
「オオオ……オオ……」
風の音のようなうなり声がしている。
崩れ落ちた骨の欠片が、火花や塵と共に舞っていた。
その姿が消え去るまで、三分とかからなかった。徐々に小さくなっていった炎が、やがて消えた時、妖怪の姿はきれいさっぱり消えていた。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。
あの巨大な妖怪を、彼は一撃で祓ってしまったのだ。
灰音は、隣に立つ彼の顔を見上げた。眩しい黄金の瞳は、まだまっすぐがしゃどくろのいた辺りを睨んでいた。やがて、
「…………。ふぅ……」
彼はようやく安堵の息をつき、腰の刀にかけていた手を下ろす。
「無事に祓えたようだな」
「あの、本当に……ありがとうございました」
そう言って灰音は深くお辞儀をする。危うく、命を落とすところだったのだ。彼には、感謝してもしきれない。
灰音が顔を上げると、彼の金色の瞳と目が合った。
「礼には及ばない。――それより、お前……」
「はい……? なんでしょう……?」
彼は黄金の瞳をわずかに細め、じっと灰音を見た後、口を開いた。
「……そのままでは、帰れないだろう。俺の屋敷へ来い」
「え……? あの……?」
(今、なんて……?)
灰音と彼は初対面……のはずだ。まだ、名前も知らない。だけど。
彼は自分の上着を脱いで、灰音の体に掛けた。その時ようやく、灰音は自分の着物がボロボロであることに気がついた。
「あ……」
破れた着物が恥ずかしいやら、彼の上着から良い香りがするやらで、灰音の頬は一気に紅潮した。
それに加えて、
「行くぞ」
「えっ、あのっ、きゃあっ!?」
彼は灰音を再び抱き上げ、歩き始める。
「あのっ、わたし……っ」
「事情は屋敷で聞く。お前の手当が先だ」
「……っ」
彼の顔を見上げると、再び目が合った。
「なんだ? 寒いのか?」
「……いえ……。…………」
――わたしを心配するような金の瞳が、まるで陽だまりのように思えて。
なんだかそのまま、身を委ねてもいいように思えてしまったのだった。



