学校の怪談は日常ミステリーでしかない

 オカルトなんて信じない。ましてや、学校の怪談なんて、それこそ小学生向けの娯楽だ。まぁ、僕も高校生にもなって、それを断言することすら一抹の恥ずかしさを覚えるわけだが。とにかく、だから絶対、そういう話はしない、――そう決めていたのに。

        *     *     *                 

 五月の連休が明けて、僕の高校生活が始まって一ヶ月が経った。
 ()(こん)学園は私立の中高一貫校だけれど、校舎も古く、あまりお金があるようには見えない。まぁ、だから僕の家みたいな一般家庭が入学できたとも言う。偏差値五十台後半の、県内ではまあまあな位置にはいる高校だと思う。
 クラスメイトとの関係も特段問題はない、と思う。
 穏やかに、健やかに、勉学に励む。これが僕の目標だった、はずだった。
「――()()。話、聞いてるか?」
「え? ああ、なんだっけ」
 僕は顔を上げる。前の席に座った友人・(あい)(ざわ)(こう)(すけ)が口を尖らせる。短髪で、背の高い如何にも運動部らしい男だ。
 今は昼休みに入ったばかりだ。本来の前の席のやつが空き教室なんかで弁当を食べるために移動したので、やってきた幸輔が座ったという具合だ。
「だから、テストの順位だよ。見たか? 高等部からの入学組の方が平均して高いなんて、洒落にならん」
「あー、うぅん。まぁでも、僕はいつも通りだったけど」
「やっぱり、受験勉強をした分、四月は賢いんだろうな」
「むしろ、春休みの宿題がそのまま出た分、僕らの方が有利だったと思うけどね」
 四月にいきなりテストがあって、その結果が張りだされたばかりだった。とは言え、僕の順位は幸輔と違って、別に悪くない。……彼も別に、不真面目というわけではないのだが。
 中学受験をした僕は、この学園に通うのも四年目だ。制服なんかも変化がない、学年バッジだけが違うブレザーだ。だけれども中学と高校で完全に敷地ごと校舎が別れていて、道路を挟んで両側に二校建っている形だ。つまり校舎は変わっていて、そういった意味では、高校生活は新鮮だった。
 ちなみに、幸輔も中等部からいっしょだ。中学一年の時、僕たちは出席番号がひとつ違いで、席が前後だった。よくある話だと思うが、その縁から今もつるんでいるのだから、席が近くのやつに話しかけておいて損はない。
「ほら、弁当を食べようぜ」
 そう言って幸輔が、僕の机に弁当包みを置く。それを見た僕は、「あ」と声を上げた。
「忘れてた。僕、今日弁当じゃないんだ。持ってきてない」
「はぁ? 今から買いに行くのか?」
「うん。ちょっと行ってくる」
「先、食べとくぞー」
「いいよ」
 僕が返事をするなり、幸輔はもう弁当箱の蓋を開けていた。本当にまったく待たないやつだ。まぁ、買いに焦らなくて済むから、いいんだけれど。
 僕は財布をポケットに突っ込むと、廊下に出た。スタートダッシュには遅れたけれど、まぁ、パンくらいはあるだろう。それに、幸輔を待たせるわけでもない。そう思いながら、のんびりした気持ちで廊下を進む。
 そんな僕の前に、すっと人が回り込んできた。
 僕は思わず、足を止める。
 それは、ひとりの女子生徒だった。彼女は長い髪を背まで伸ばし、ぱっと見、線の細い印象だった。学園は私立ということもあり、一定数箱入りお嬢様のような女子グループが見受けられるが、彼女も一見してそれらのように見えた。スカートが長いからそう見えるのかもしれない。しかし、彼女の大きな瞳が快活な色を灯し、小さな口からは想像よりも元気な声を発した。
「ねぇねぇっ! あなたが(えの)()()()()くん? 妖怪とか詳しいって、本当?」
「…………えーっと、人違いです」
「名札あるけど!」
「妖怪に詳しいって言うのが、人違いです」
 急に一体なんだと言うのか。
 そう思ったのが顔に出たのか、彼女は慌てて説明してきた。
「私、一組の()()(なた)()(ひる)。新聞部なの! 今、学校の怪談について聞き込み調査をしてて――ぜひ、榎木田くんの意見を聞きたいなって!」
「高等部の新聞部の取材テーマが、学校の怪談?」
 小学生じゃあるまいし、ずいぶんと子どもっぽいテーマだな――と、思ったけれど、そこまでは言わずに飲み込んだ。僕と彼女は、これが初対面だ。言わなくてもいいことは、言わない方がいいだろう。
 それに――妖怪とか、馬鹿らしい。とにかく、もうそういうのはやめたんだ。
「悪いけど、街頭インタビューは受けないことにしてるんだ。じゃあ」
 僕はそう言ってその場から去ろうとしたけれど、彼女は再び僕の前に立ちはだかったので、歩き出せなかった。彼女の自信のありそうな大きな瞳が、僕を見る。
「私、知ってるよ! 榎木田くんがそれを嫌がってるってこと! でもね、お願い!」
「…………」
「ねっねっねっ、ちょーっとだけだから!」
 廊下ですれ違う人たちが、僕らのことをちらちらと見ながら通り過ぎる。
 おそらく、彼女の容姿が少しばかり目立ちすぎるのだ。彼女と話していることが、急に恥ずかしく思えた。
「……ちょっと移動しよう」
「話を聞いてくれるんだね!」
 そう言って彼女は、長い髪ごと跳ねた。
 僕は息を吐く。
「……聞くだけだから」
 そう答えたけれど、後から考えると、これが運の尽きだった。
「あのね、実は、――」
 小日向さんはそこで言葉を切ると、僕に近付き、こう耳打ちをしたのだ。
「私、理科室の人体模型が動いてるの、見ちゃって」
「……はい?」
「だから、そういうの詳しい榎木田くんに、いっしょに見に来てほしいの」
 興味を惹かれなかったと言ったら、嘘になる。
 こうして僕は、小日向真昼の手にまんまと嵌まったというわけだ。

 校舎裏の中庭に、あまり人が来ないベンチがあって、僕たちはそこへ向かった。中庭にはいくつかのベンチがある。パンの販売車などが停車する近くのベンチは人で埋まっているが、部活棟の近くのベンチは、昼休みの時間に限って言えばおおむね空いているのだ。
 小日向さんは歩きながら、僕に話しかけてきた。
「改めまして。私、小日向真昼。一組だよ」
「……小日向さんから話しかけてきたから知ってると思うけど、榎木田理央。二組」
「うん、知ってるよ」
 ……まぁ、そうだろうけど。
「ねぇ。榎木田くんって、(けい)(しん)小学校の榎木田くんで合ってる?」
「……なんでそれを」
「合ってるんだよね? 良かった~」
 そう言って彼女は朗らかに笑った。
「誰から聞いたの? わざわざ――いや、」
 僕はそこで言葉を切った。わざわざ、――同級生が少なくなるように私立(ここ)私立(ここ)に来たのに。……なんて、そんなことは言えるわけもなかった。
「小日向さんは、高等部から鬱金学園(ここ)?」
「うん。高校受験だよ」
「まぁ、そうだよね。見たことないし」
 中等部からエスカレーター式にあがってきた同級生は、クラスが違ってもまぁまぁ見たことがある。従って、見たことがない同級生とは、おおむね高等部から入った人たちだった。
 まだ五月なのだ。高等部からの生徒の間では「お前どこ中ー?」「俺、西中ー!」というようなやり取りはある。――が、小学校?
 僕は歩きながら、ちらりと隣を見る。彼女が廊下で話しかけてきた言葉が気になっているが、どう切り出したものか。小日向真昼――彼女はなにを知っている?
 女子とふたりで並んで歩くのは初めてで、僕はそちらの方も心配だった。誰かに冷やかされやしないかとひやひやしたけれど、杞憂だったようだ。特に何事もなく中庭のベンチまでやってきた僕と小日向さんは、並んで座る。ついでに、途中の購買で買ったパンの袋も、隣に置く。僕はコスパのいい焼きそばパンだけど、彼女は小さなパンをいくつもという、リッチな選び方だ。
 小日向さんが言った。
「ねぇ榎木田くん。――学校の怪談って、高校にもあると思う?」
「…………」
今、パンを食べたら、喉に詰まるかもしれない。
 僕はパンの袋を開けないまま、答える。
「……ないんじゃないかな? ああいうのって、どこの小学校にもあるけど、中学になるにつれて七つもなくなって、高校になるとなくなると思うよ」
「えー。ないのー?」
「ない」
 僕はそう断言する。あるわけがないだろう。
「じゃあ、妖怪って子どもが好きなのかな?」
「逆だよ。子どもが妖怪を好きなんだ。だから、ありもしない怪談なんかで盛り上がれるってわけさ。ようは思い込み――想像力。若きイマジネーションだよ」
「ふぅん……」
 小日向さんはふんふんと頷いて、それから声を潜めて言った。
「じゃあ、高校で妖怪がいたら、それは本当の怪談ってこと?」
「……どうかな? そんなのあるわけが――。まさか」
「そう。最初に言ったでしょ? 理科室の人体模型が、動いてるのです!」
 小日向さんはそう言って、ニッと笑った。
 僕はなんて答えたものか少し迷って、
「……冗談で言ってるんだよね? まぁそういうのも愉快だよね。でも、自分の友達と行ったらどうかな。……僕に言われても」
 そう言い終わると、ついと目を逸らした。しかし、すぐにまた彼女の方を向くことになる。
「えー? 君だから声を掛けたんだよ!」
「……え?」
「榎木田くんって、学校の怪談とか妖怪とか、詳しいんだよね?」
「いや? 別に、詳しくないけど」
 まずいな。まずい気がする。僕の顔が引きつるのを感じた。
「私、知ってるよ!」
 小日向さんは笑顔で言った。
「榎木田くんって、小学校の時に――クラスで〝オカルト警察〟って呼ばれてたんでしょ?」
 最悪だ。思い出したくなんか、ないのに。

 単純な黒歴史の話だ。
 五年前のある日――僕が小学生だった頃のことだ。
 昼休み。教室では賑やかな声が響いていて、それらはいわゆる学校の怪談――七不思議について話していた。
「それでねっ、音楽室の肖像画の目が光るんだって!」
「えー、こわーい!」
「ベートーベンだよ、ベートーベン!」
「夜の学校に忍び込んで、見に行ってやろうぜ!」
 ――ああ、なんだ……その話か。
 僕は、席を立ち上がる。
「その七不思議のことだけど、嘘だよ」
 数人のクラスメイトが輪になっているところに、僕は涼やかな顔で割り込む。
「音楽室の怪談はいくつかあるけれど。うちの学校に限って言えば、偽物なんだ。分かるかい? あの絵は本物の絵じゃなくて、複製なんだ。まぁ、こんな一小学校に本物のベートーヴェンの絵があるわけないけどね。それで誰かが、目の部分にこっそり白い絵の具を塗り足した。だから目だけが浮き出て、特別目立って見えるんだ。蛍光灯が反射して見えるだけだよ」
 これが僕の調査の結果だ。そう一気に解説した。この手の学校の怪談は多くて、近隣の小学校の噂も入り交じって、なんとかこじつけに七つにしようと躍起になっている。おかげで七つの内容が人によって違ったりするわけだけど……でもそのどれもが、別に本物ではない。音楽室の怪談に関しては、今、述べた通りだ。
 しかし、原因が解明したというのに、クラスメイトの顔は渋かった。
「……前から思ってたけど、榎木田くんって、つまんない」
「お前って本当、知識をひけらかしてばっかだよな」
「え? いや、僕は本当のことを……」
「あのねぇ、榎木田くん! あなたっていっつも七不思議を否定してばっかり! もう嫌なの! あなたが〝オカルト警察〟なのはわかったから、もう話しかけないでよね!」

         *     *     *                

僕の意識が戻ってきて、再び中庭のベンチに帰ってきた。
 キィンと耳鳴りがする。頭がゆらゆらと揺れて――隣に座る彼女とぼんやり目が合った。そうだ、僕とこの目の前の小日向さんで話していたんだ。
 あれから、何度か同じようなことがあって、その度に僕はオカルト警察と揶揄されるようになった。どんなに滑稽な噂話であっても、僕がそれを説明しようとすると、そう言われてしまう。だから僕は妖怪――延いては学校の怪談について調べるのをやめた。今思えば、立派な黒歴史だ。あれは、学校の怪談(そういうもの)嘘だと思いつつも(そういうものとして)楽しんでいたんだろうに。
「ねっねっねっ! オカルト警察のこと、みんなに知られたくないんだよね? 嫌なんだよね? じゃあ、私のお願い、聞いてくれる?」
 そう小日向さんはかわいい顔で言って、クリームパンを頬張った。脅しだ。僕が黒歴史をフラッシュバックしている間に、彼女はパンを二個食べて、これは三個目だった。ていうか、廊下で言われた時点で若干もう口が滑っている気はするが。
 僕は、もそもそと焼きそばパンを口に運ぶ。まだ、三口ほどしか囓れていない。
「……話は聞くよ? でも、僕はなにもできない。本当だよ」
「榎木田くんの目線から見て、噂がホンモノかどうか教えてほしいの! 私はそれを、記事にするから。とにかく、いっしょに理科室に来てほしいの」
「…………」
「じゃあ、今日の放課後ね! クラスまで迎えに行くから」
 急に別のクラスの女子が訪ねてきたら、それは目立ちそうだ。まして、彼女は華やかな容姿の部類だ。そして彼女は、理由を聞かれたら遠慮なく答えてしまいそうだ。遠慮してほしい。
 少し考えた僕は、理科室の場所を思い出して、
「南校舎の三階の踊り場で待ち合わせはどう?」
「いいね! そこの大鏡って、別世界の入り口なんだっけ?」
「…………」
 ずいぶん子どもっぽいなぁと思ったけれど、僕はもう訂正しなかった。

 やがて、放課後になった。
 階段の踊り場には大きな鏡があって、高校男子平均身長の僕の背よりも高かった。
 小日向さんはまだ来ていない。
「……」
 なんだか手持ち無沙汰になって、僕は鏡をじぃっと見つめる。
 けれど、ただ僕が映っているだけだ。当たり前だ。本当に、当たり前だ。
「なにをやってるんだか……」
 学校の大鏡には、様々な怪談がつきものだ。
 どうせ、後ろに人が立っているのを気付かなかったとか、掃除をしていないから歪んで見えたとか、映った人以外のなにかを見間違えたとか、そんな類いだろう。
 ――いや、考えないようにと、決めたはずだ。
 僕はかぶりを振る。
 そうすると、
「おーい! 榎木田くーん!」
小日向さんの呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、階段の下に手を振る彼女がいた。
「じゃ、行こっか!」
 自称・怪談の場所に行くと言うのに、彼女の顔は明るいのが印象的だった。

「えーっと、こっちなんだけど……」
「…………」
 僕と小日向さんは、南校舎の四階にやってきた。美術室、家庭科室などの特別教室が並ぶ中、一番奥の教室が理科室だった。教室の廊下側はずらりと窓が並び、室内がよく見えた。僕は廊下を歩きながら、そんな室内に目を向ける。美術室を見ると、美術部がスケッチをしており、家庭科室を見ると、裁縫をしているようだった。みんな部活動だろう。言うならば、小日向さんの今も、部活動である。
 理科室の前まで来た僕らは、窓から教室の中を見る。――誰もいない。科学部的なものはないらしいと聞いた。電気の付いていない薄暗い教室は、ぱっと見特に変わったことはなさそうだ。
 小日向さんが言う人体模型は、教室の一番後ろにあった。骨格標本と並んで、黒板に向かってまっすぐ顔を向けている。そのふたつは透明なケースに入れられており、ケースの下には移動用のキャスターが付いていた。
 窓に貼り付きながら、小日向さんは言った。
「今は前を向いてるけど。三日前は向きが違ったんだよね」
「それは……見間違いだったんじゃない?」
 普通に考えて、人体模型が動くなんてあり得ない。じゃあ、見間違いしかないと思う。けれど……。
 僕は彼女の顔を見る。なんだかひどく悲しそうで、――あの頃を、思い出す。ああ、だから嫌だったのに。いきなり否定はまずかった。
「ごめん。えぇと、まだ、ちゃんと聞いてなかったね。どういう状況だったの?」
「あ……。うん。あのね、三日前の放課後のことなんだけど。私、理科室に忘れ物をしちゃって。あ、六時間目が理科だったんだけど。消しゴムをね、落としちゃったみたいで、探しに来たの」
 ――たかが消しゴムひとつでも、なくした場所に見当が付いているなら探した方がいいだろう。僕は相づちをうった。
「うん、うん」
「そしたら、人体模型がこっちを――廊下の窓の方を向いてたんだよね。それで慌てて消しゴムを探して……見つけて、走って教室をでて、それで……次の日の朝、友達に付いて来てもらって、もう一度理科室に行ったの」
「えっ、すごい。もう一度見に行くなんて、なかなか出来ないことだと思うよ」
「そうかな? 怖いから?」
「うん。普通だったら、避けてるんじゃないかな」
 なかなか勇気のある人だ、と思った。
 僕は理科室のドアに近付くと、取っ手に手を掛けた。ドアは開かない。鍵が掛かっているんだ。まぁ、そりゃそうか、普通は自由に入れないよな。鍵は職員室にあるのだろう。
「じゃあ、その日の授業で動かしたとか」
「うーん……。授業では、使わなかったよ」
 小日向さんの授業は六時間目、つまりその日の最後の授業だ。それより後に授業はないわけだから、授業で使った線はない。
 小日向さんは続けた。
「まぁ、驚いたよ? でも、やっぱ気になるしね! それで次の日の朝見に来たら、人体模型はまっすぐ前を向いていたんだよ、今みたいに!」
「……じゃあ、見間違えだったってことで、いいんじゃない?」 
「違うの! 見直したことで、見間違えじゃなかったことがはっきりしたんだよ! あきらかに昨日とは違う、ってね! 椅子だって、動いてたし」
「椅子?」
 僕は聞き返した。
「……隣の骨格標本じゃなくて?」
「それは動いてないよ。でも、それ……骨格標本と人体模型の前の席の椅子が、動いてたの! きっと、徘徊した人体模型が座ったんだよ」
「……周りの物が移動すると、釣られて移動しているように見えるかもね」
「そんなぁ! それに、私の他にも見たって人がいるの! それも、別の日に!」
「え? 他にも目撃者が?」
 正直、驚いた。ふたり以上が観測しているなら――なにか、起こるべきして起こっているのだろう。
「うん。あのね、そのあと部室に行ったら、投書BOXが――あ、みんなからの投書を入れてもらってるお便り箱なんだけど、それにも書いてあったんだ。『理科室の人体模型が動いていた』って。日付は、先週」
「それ、誰からの投書かは、わかるの?」
「もちろん! だから私、会いに行ったの。取材にね。――榎木田くんも今から行く?」
 小日向さんは、笑って言った。なんだか、ちっとも怖がっていないように見える。
「……小日向さんって、この事件を信じてないの?」
「まさか! 信じてるよ! この目で見たんだもん!」
 信じているのに、笑顔……? じゃあ、
「もしかして。――小日向さんって、この事件が怪談だった方が嬉しいタイプ?」
「え? もちろん!」
 彼女は最後のパンのカケラを飲み込み終わると、笑顔で言った。
「だってその方が、楽しいでしょ!」

僕たちがやってきたのは、部活棟だった。部活棟とは、運動部の部室を集めた二階建てのアパートみたいもので、ドアがずらりとならんでいる。
 空は赤くなってきて、建物の影が伸びていた。小日向さんが進む後ろを、僕はついていく。横からは、活気のある声が聞こえていた。僕は声のする方――グランドを見る。
 放課後の今、運動部が部活動をしていた。こちらは競技専用で、手前のトラックは陸上部が、奥のテニスコートではテニス部が部活をしている。野球部なんかが使うグランドは、ここよりさらに離れた位置にあった。こういう広い土地は、なるほど私立学園らしい。
 そんなことを考えていると、いつの間にか立ち止まっていたらしい。僕の背に、声が掛けられた。
「よぅ、理央。なにやってんだ?」
「やぁ、幸輔」
 それは、陸上部の友人の姿だった。幸輔は、部活棟の二階から下りてくるところだった。Tシャツ型のスポーツウェア姿で、タオルで額の汗を拭いている。
「こんなところに来るなんて、珍しいな」
「練習はいいの?」
「ああ。短距離走組は、今は休憩」
 そう言って幸輔は陸上部のトラックを見た。いっしょに僕も見る。なるほど、たしかに今はハードルが並べられているところだった。ハードル跳びの練習が始まるのだろう。
「彼女は?」
「ん? ああ――」
 僕は小日向さんの姿を探した。彼女は、とある一室の前で誰かと話しているところだった。それは、ひとりの女子だった。だるそうな雰囲気で、茶髪で、髪型をスプレーかなにかで固めていて、いうならば……少しギャルっぽい印象だった。
「うちのマネになんの用だ?」
「マネ?」
「ああ。あんなお嬢みたいな友達は、いなかったと思ったが」
 もう一度小日向さんを見る。お嬢――か。まぁ、僕もそんな第一印象を受けたな。
 そんな彼女が話しているのは、陸上部のマネージャーらしかった。
「彼女は、小日向さん。一組の」
「へぇ。理央が女子と歩いてるなんて、初めて見たぞ」
「さすがにそれはないよ。僕だって歩いたことはあるさ。委員会とかで」
「でも、あんなに可愛い子を連れているのは初めてだ」
 まぁ、それは否定しない。けれど。
「可愛いからいっしょにいるわけじゃあ、ない」
 脅されてるから、いっしょにいるのだ。
 しかし、幸輔は満足そうに頷いた。
「まぁ、お前に限って言えば、そうだろうな」
「なにを考えて頷いてくれているのかはわからないけれど。おそらくそのどれもが過大評価だと思う」
「そういうところが、信用できる」
「…………」
 やっぱり、過大評価だと思う。
 僕たちは揃って、彼女らに近付いた。
 小日向さんが僕に気がついて、こちらへくるりと向く。
「あ! 榎木田くん、こちら、陸上部のマネージャーの吉田さん」
「どーもー」
 ギャル――もとい吉田さんは、片手をあげて挨拶してくれたけれど、顔はあまり笑っておらず、真顔に近かった。かといって、怒っている風でもない。
 小日向さんは紹介を続けた。
「吉田さん、こちらは榎木田くん! 新聞部の――」
 そこで小日向さんは言葉を切って、僕を見上げ、顔をもどした。
「新聞部の名誉アドバイザー!」
「…………」
「そうなんだ。よろしくー」
「理央、お前、そうだったのか?」
 まぁ、オカルト警察と触れ回られるよりはマシだろう。そう思うことにした。
「今、訳あってちょっと手伝ってるんだ」
「へぇ」
「榎木田くんのお友達?」
 小日向さんが聞いてきて、僕は幸輔を紹介した。小日向さんは幸輔と軽く挨拶を交わし、それから吉田さんに言った。
「こないだの理科室の件なんだけど、もう一度お話を聞かせてもらえたら嬉しいなーって!」
「あー、うん。ちょうどいいタイミングだね。今、切りが良いところなんだよね。いいよ。入るー?」
 吉田さんがドアを全開にして、僕らは部室に招かれた。

 運動部の部室なんて、実質更衣室だと思っていたけれど、中は意外にも事務所みたいだった。聞けば、更衣室は二階らしい。どうりで、幸輔が階段を下りてきたわけだ。スコアを管理したり、大会の参加を考えたり、トレーニング方法を話し合ったり――そういうことをする場も、なるほどたしかに必要だった。吉田さんは、今はそう言った事務作業をしているのだと言う。
 部室の中には、背もたれのない長椅子が三つ、コの字型にあって、僕と小日向さんが隣に、その向かいに吉田さんが、部屋の奥に幸輔が座った。
 いつの間にか手帳とペンを持った小日向さんが、吉田さんに言う。
「えぇっと、お話をお願いします!」
「はいはい。んー。先週なんだけど、家庭科室に行ったのよ。お菓子を作る日だって言うからさ。あ、あたしって家庭科部と掛け持ちなんだけど――料理しか好きじゃないからさ。お菓子作りの日とかしか参加しないの」
「へぇ。掛け持ちってしてもいいんだ」
 僕は率直な感想を述べた。幸輔が頷く。
「吉田はマネだしな。それに、うちはマネも何人かいるし」
「……みんながしたいことしよって思って部活をしてんのに、あたしだけ選手のために好きなことも出来ないなんて、おかしいっしょ」
 そう言って吉田さんは、髪を耳にかけ直した。
「陸上部のマネージャーは、彼氏が――ユートがいるから、やってるだけだから」
「ユート……ユート?」
 なんだか、聞き覚えがあるような気がして、僕は幸輔の顔を見た。幸輔は眉を寄せて、呆れたように言った。
「クラスメイトだろ。高等部から入ってきた(あい)(かわ)(ゆう)()だよ。お前の前の席のやつだろ」
「おお。そんなこともあるのか」
 ここでクラスメイトに繋がるとは。
 彼氏の部活のマネージャーをする――そういう人も、いると聞く。なるほど、彼女はそういうタイプだったのか。僕は頷いた。
 小日向さんが、話を促す。
「それでそれでっ!? 理科室のお話はっ!?」
「ああ、うん。――で、まぁ、お菓子を作ってさ。焼いてる間に廊下に出たの。理科室って、家庭科室の隣でしょ? なんとなく、窓から見たの。そしたら――内臓がなかったの」
 ――内臓がないぞう? そう言いかけて、僕は踏ん張った。…………。
 ――いや、待てよ。
「向きが変わっていたんじゃ、ないの?」
 小日向さんの話では、人体模型は向きを変えていただけのはずだ。パーツが足りないなんて話はなかった。小日向さんの方を見ると、彼女は上気した顔で僕を見ていた。
「榎木田くん、聞いた!? 内臓がなくなってたなんて、怪談らしいよね! この投書、見逃しちゃっててさ、私が遭遇した日より前なんだよ!」
 吉田さんは思い出すように、斜め上を見上げながら言った。
「向きっていうか、ケースごとちょっと前に、動いてたかな。けど、心臓っていうの? 肺っていうの? あのへんの中身よ。人体模型の中身の一部が、なかったの。そんでびっくりして――ユートを探しに行って……そんで帰ってきたら……もう、あった」
「え……? なにが……?」
 僕は、聞き返す。
 吉田さんは、今度はまっすぐ――僕らの方を向いて言った。
「だから、三十分後くらいだったかな? もう一度理科室に戻ったら――もどってたのよ。パーツが全部、元通りに」

 僕と小日向さんと幸輔は、陸上部の部室を出た。
 吉田さんはまだ部室で作業があるらしい。ドアのところで見送ってくれた。
 幸輔は練習に戻るのだという。陸上部のトラックまで、いっしょに歩く。
 別れ際、幸輔は言った。
「吉田はあんな感じだけど、嘘は吐いてないと思う。マネの仕事も、来てる時はいつもちゃんとしてるんだ」
「そっか」
 幸輔が言うなら、そうなのだろう。
「でも、お前が新聞部なんてな。まぁ、合ってるんじゃないか? お前、調べ物って得意だったろう。でも――お前がオカルトを調べてるなんてな。あんまり想像がつかないな」
「あはは……」
 僕は、苦笑いで返す。幸輔は、僕の小学生時代の黒歴史を知らないのだ。
幸輔が部活に戻った後、小日向さんが聞いてきた。
「榎木田くんって、オカルト警察のことは秘密にしてるって聞いたけど、友達にも話してないんだね」
「まぁ、うん」
「あんなに仲良さそうなのに、話したらいいのに!」
 言えるわけがない。僕は肩をすくめた。
 アレを黒歴史だと思うからこそ――僕はわざわざ電車通学するような私立学園に、中学受験をしたんだ。
「…………」
 小日向さんは手に持っていた手帳に、なにやらメモを書き足し始めて、僕はそれを覗き込む。見ると、吉田さんに聞いた話に、相川の情報を書き足しているところだった。小日向さんが、ページを捲る。
「…………」
次に現れたのは、見取り図だった。南校舎四階の様子が、四角を並べて描かれている。――ちゃんと新聞部らしく、取材をしているんだな……。
 この事件を〝学校の怪談〟と願う割には……人間の仕業を、ちゃんと疑っているようだった。
「小日向さんは、この事件、どう思う?」
「え? うーん……。呼称は、『歩く人体模型』でどうかな? 『放課後にひとりで学校にいると、人体模型がこっそり抜け出して廊下を歩く』とか!」
「いや、怪談の提案じゃなくて」
「あははっ!」
 小日向さんは楽しそうに笑った。
 ――そう言えば、僕があんな風に笑ったのって、いつまでだっけ?
 彼女は手帳を抱きしめながら、言った。
「ねぇねぇ、榎木田くん! やっぱりこれって〝怪談〟だよ! だって、やっぱり臓器が消えるのはおかしいと思う! 三十分で元通りなんて、あり得ないよ!」
「でも、吉田さんは見間違えた可能性だってある。……たとえば、夕日で目がくらんだとか……」
 自分でも、少し苦しいことを言っている自覚はある。わざわざ新聞部に投書するのだ、創作や一瞬の見間違いで、そんな手間を――彼女のような人が起こすだろうか。
「でも、私も見たんだよ! この目で! 嘘じゃないよ!」
「……うん」
 返事はしたが、なんて心のこもっていない相槌なのだろう。
 オカルトを信じている人物の証言なんて、当てにならない。だから、彼女の証言は――小学校のクラスメイトと同じだ。オカルトを信じたいから、吹聴している。それだけだ。
 僕はもう、そういう人々を否定しない。信じたい人は、勝手に信じていればいい。個人ブログのよく当たると噂の占いを信じるのも自由だし、吹き出物を幸運の予兆と信じるのも自由だ。だから、オカルトを信じているのも、自由だ。
 僕はもう、オカルト警察じゃない。あの頃みたいに、()()()()()()()()()()からといって、他者を蹂躙したりしない。

 小日向さんが新聞部に戻ると言うので、僕らは再び校舎へと足を運ぶことにする。
新聞部の部室は、北校舎の一階だ。職員室、生徒会室、放送部と並んで、報道系はまとめられているらしい。今日行った南校舎の特別教室や運動部の部活棟とはまた雰囲気が異なり、廊下を歩く生徒の数は多い。もう夕方になり、ちらほら部室の鍵を職員室に返す生徒もいる。
 そうして、僕らは新聞部の前まで来た。彼女を送ったから、もう帰ろう。そして、この件とは、手を切ろう。
 僕は、口を開く。
「じゃあ、お疲れ。今回の件は、――小日向さんたちが怪談だと信じるなら、それでいいんじゃないかな?」
「え?」
 小日向さんが驚いたような顔で、僕を見る。意外だっただろうか。
 僕は、少し言葉を選んで言った。
「いや、あのね。僕が、その……オカルト警察をやっていたのは、小学生の頃なんだ。妖怪なんてあり得ないとは思うけど、僕はそれを信じている人をわざわざ否定するようなことは、もうやめたんだよ」
「じゃあ、どうして今日、着いてきてくれたの?」
「…………」
 彼女の疑問は、至極当然のものだった。僕は少し言葉に詰まり、
「……興味は、多少、惹かれたから」
 そう正直に答えた。
 だって、そうだろう? いきなり初対面で、理科室で動く人体模型の話をされたら、誰だって興味を持つはずだ。僕に否はない。
「そっか」
 小日向さんはそう言った。
「うん。だから……」
 もう終わりにしよう――そう言いかけた時だった。
「――ねぇ、本当に、榎木田くんはそれでいいの?」
「えっ……」
 静かな声に、僕は耳を疑った。
 それは、紛れもなく彼女の声だった。けれど、いつもの溌剌とした声ではなく、落ち着いた、おとなしい声だった。
 小日向真昼は、眉を下げて言った。
「榎木田くん、この怪談を、否定してみてよ」
「どうして――……」
 僕ははっきりと言った。『小日向さんたちが怪談だと信じるなら、それでいいんじゃないかな?』と。僕は彼女を否定しなかった。
 彼女は言っていた。『この事件が怪談だった方が嬉しい』と。僕の言葉は、彼女の気持ちを後押ししたはずだ。
 なのに、どうして……。
 そう思った時――。
 僕の口を、言葉が突いた。
「……ああ、そうか……分かった」
「え?」
 小日向さんが、僕を見る。きょとんとした顔は、すぐに眉を下げる。
「あは。榎木田くん、まさか、謎が解けたの?」
「うん。だいたい分かったよ、小日向さん」
 そう言って僕は、とある部屋に入り――名簿を見た。ぱたん、と閉じる。
「やっぱり……」
「榎木田くん?」
「こんな、こんな簡単なことだったんだ。驚くようなトリックでもなんでもない。じゃあ、小日向さん……もう一度、南校舎の四階に行こうか」
 僕はそう言って、再び南校舎へと足を運ぶ。
 これは、学校の怪談でもなんでもない。ただの――日常だ。

 僕と小日向さんは、南校舎の階段を上る。目指すはもちろん、四階だ。
 三階の踊り場まで上がったところで、正面の大鏡に映る僕と目が合う。鏡の僕の顔は、少しばかり強張って見えた。だけど、これは異世界の僕ではなく、本当の僕なのだ。
 四階に上がりきると、僕たちは廊下を進んだ。
 途中、他の特別教室をちらりと覗く。美術室にはスケッチブックが、家庭科室には鍋が重ねられていた。もう、みんな下校したのか、誰も残っていない。
 一番奥の理科室は西側で、窓から夕日が差し込み、オレンジに染めていた。僕たちは薄暗い廊下を、オレンジの光に向かって歩いた。
 これから僕がすることは――正しくないかもしれない。これは、あの日封印したことだ。……だけど。
「小日向さんは、学校の怪談を信じている。そうだね?」
「……いたらいいなって、思ってるよ」
「でも、僕を呼んだ。ということは、つまり、人間の仕業と指摘される覚悟があったってことだ」
「そうだよ。榎木田くんなら、解決出来ると思ったの。だから私は、声を掛けた」
「解決、ね……」
 僕がしているのは、ただの否定だよ。
 そうこうしているうちに、理科室の前まで辿り着く。
「さて、と……」
 僕は、ドアの前に立つと、取っ手に手を掛ける。ぐんと力をいれるが、ドアは動かない。調べ始めた時と同様に、鍵が掛かっていた。
 小日向さんがそばに来て、僕の手元を見る。
「入れないね」
「うん。これが普通だ。だから――わかったよ」
「――え?」
 彼女が顔を上げて、僕と目が合った。
 僕は、その場からちらりと理科室内の人体模型を見る。それは、まっすぐ前を向いており、特に変化はない。
 取っ手から手を離すと、僕は話し出した。
「まず、小日向さんは三日前――消しゴムを探しに来たんだったね?」
「うん、そうだよ。忘れ物を取りに来たの」
「消しゴムは見つかったんだよね?」
「そう。授業で座った席に――あっ」
 彼女は、目を見開いた。
 最初の違和感は、そこだ。僕は言った。
「つまりは、理科室に入ったということだ。じゃあ、その時鍵は掛かっていなかったってことになる」
「そう……だね。そうだ。なんで分かんなかったんだろ……」
「気が動転してたんじゃないかな? 小日向さんが人体模型に驚いたのは、理科室に入るより前だった。慌てて入って、慌てて飛び出ていったんじゃないかな。授業の時は、当然鍵は開いている。だから、教室のドアが開くことに、違和感も抱かないと思うよ」
「じゃあ……えっと……?」
「普通に誰かが、理科室の中にいて……人体模型を動かした」
「人間が……」
 彼女は、そう小さな声で呟いた。しかし、すぐに大きな声を出す。
「で、でも! じゃあ、吉田さんが見たのは!? 人体模型の、内臓の一部がなくなってたって!」
「それはね、部活だよ――美術部だ」
「――え?」
「なくなっていたのは、心臓だったか肺だったか――吉田さんはそう言ってたね。メジャーな臓器だ。美術部がデッサンの練習に、それを選んでもおかしくない。僕は今日、君と最初に四階に上がってきたとき、美術室を覗いた。美術部は円になって、真ん中の被写体をデッサンしていたんだ。今日は、鍋だった。隣の家庭科室から借りたんだろう。つまりは、美術部はデッサンの被写体として、周りの教室から物を借りることがあるというわけだ。理科室から人体模型の――心臓だけを借りて、それを描く日があったって、おかしくない。これは、明日にでも美術部にスケッチブックを借りれば分かることだ」
 僕はそこまで、一息で言った。
 南校舎四階は、特別教室が並んでいる。美術室、家庭科室、理科室……これらはどれも同じ階にあり、行き来しやすい。
 小日向さんは、来た道を振り返る。
「……全然気付かなかった」
 それから、僕を再び見た。
「でも、普段は、理科室には鍵が掛かってるはずでしょ?」
「そんなもの、職員室で正式に鍵を借りてしまえば良い。だって、本当に部活で使うのだから、貸してくれるさ。そして、美術部は心臓のスケッチを書き終わると、予定通り人体模型に戻した。この借りている間が、吉田さんが見た時間帯だ。部活なんて、みんなだいたい同じ時間だ。今日だって、どっちもの部が帰宅している。部活動をしていた同じ時間帯は心臓がなくて、吉田さんはその時に人体模型を見てしまった。そして彼女がいない間の三十分間のうちに――心臓は戻された。同じ階の教室なんだから、短時間で元に戻せるってわけだ」
「…………」
「吉田さんは、恐怖現象を見て、友達じゃなくて彼氏に頼りに行った。彼氏のために自分の好きなことを多少抑えてでも、陸上部のマネージャーをやってるんだ。きっとよっぽど好きなんだろうね。だから、そんな彼女だから、怖いときは彼氏のもとへ駆け寄った。彼氏である相川くんは、彼女の話を聞いた。冗談だろうと思ったけど、数日経っても本当のことだと訴える。だから、それを見極めようとした」
「それって……」
「うん。相川くんは理科室の鍵を借りて、人体模型の前に座ったんだよ。理科室にわざわざ来るくらいだ。本当に妖怪を信じていたら、出来ないはずだ。つまり彼は信じなかった。人間の仕業だと踏んだんだ。だから、誰かが入ってくるのを待った。美術部が入ってくれば良かったんだけどね。たぶん、なかなか人は入って来なかった。科学部もないしね」
「…………」
「暇になると、スマホでも見ながら、時間を潰すだろうね。――そうすると、人体模型の視線が、気になってきたんじゃないかな。なにせ、人と同じサイズで、骨格標本にはない、目玉まであるときた。人体模型のケースには、移動させられるようにキャスターが付いている。向きを変えるのは容易いことだ。だから彼は、人体模型の向きを変えた。――これが、君が見た――廊下を向く人体模型の謎だよ」
「私が見たのは、人が動かしただけ……」
「全部妄言かもしれないけどね。明日、相川くんに聞けばすぐに分かることだ。でも、ここに来る前――職員室で鍵の貸し出し名簿を見ただろう? そこにはちゃんと、貸し出しの日付、貸し出された鍵の名前、それに申請者――『美術部』『高等部一年二組相川』の名前が書かれていた。だからおそらく、これが真相だ」
「そっ、か……」
 あんなに元気だった小日向さんは、今やすっかりおとなしくなってしまっていた。
 彼女は、これが〝学校の怪談〟であることを望んでいた。それが否定されたのだから、こうもなるか……。
「……ごめん。僕は、もう怪談を否定しないって、言ったのに。やっぱり止められなかった。……饒舌に語ってしまって、悪かったよ」
 小日向さんは、嘘を吐いていなかった。彼女が見た物は、実際の光景で、学校の怪談を作り上げたいから嘯いているわけじゃあ、なかった。
 それなのに、僕は……。
 数秒の沈黙の後――明るい声が響いた。
「すごいっ!」
「――え?」
「わーっ! すごいすごいっ! ホンモノだ! これが榎木田くんっ! これが否定のオカルト警察っ!」
「ちょ、ちょっと……」
「教えてくれて、ありがとねっ!」
 そう言って小日向さんは、僕の手を取った。
 ……いったい、なんだと言うのか?
「ねっねっねっ! じゃあ、これは怪談じゃなかったってこと?」
「……まぁ、そうなるね」
「そっか! ざーんねん!」
 そう言って彼女は、にかっと笑った。
 ――笑み? どうして……。
そんなことを考える間もなく、小日向さんは言った。
「やっぱり、榎木田くんはすごいなーっ! ねっ、これからも頼めないかな?」
「……なにを言ってるのか、僕にはさっぱり分からないんだけど」
「あのね? 新聞部に投書はたくさんあって! 学校の怪談の噂も、まだまだあるんだよ!」
「はい?」
 なんだか、嫌な予感がする……。
 小日向さんが、僕の手を握る力を強めた。
「ねぇっ、榎木田くん、新聞部に入ってよ! そして、今回みたいに否定して見せて!」
「なにを、言って……」
 彼女が、小日向真昼がおかしなことを言っている。――僕に、怪談を否定しろって?
 小日向さんは、いたずらな笑みを浮かべて、僕を見上げる。
「今回は違ったけど、次は本当かもしれないよ?」
「……勘弁してくれ……」
 こんなこと、もう懲り懲りだ。
 そう、たしかに思ったのに。
「どうして? 楽しくなかった?」
 小日向さんが、眉を下げた。
 その聞き方は、ずるい。
 僕はここで嘘を吐くべきだ。そう思っているのに。
「…………。楽し、かった」
 ああ、答えてしまう。
 彼女の笑みが満面になって、まんまと嵌められたことに気がついたが――もう遅い。
「楽しかったよ。久しぶりだ。本当に、小学生ぶりだ。僕は、オカルトをもうこの年では信じない。でも、否定してしまうことになっても、オカルトを――妖怪の影に触れていることは……楽しいんだよ……」
「うんうん、知ってたよ!」
 小日向さんは、僕の手を離すと、跳ねながら二、三歩離れた。
「これから、私と一緒に調べようよ! 怪談の噂はまだあるよ。榎木田くんは、それが本物かどうか見てよ!」
「……新聞部で?」
「新聞部で!」
「まいったなぁ……」
 せっかく僕は、中学三年間帰宅部で過ごしてきたのに。いや、帰宅部なんて、なんの言い訳にもならないか。
「ていうか、――どうして僕のこと、知ってるの? オカルト警察のこととか……」
「まだ、秘密!」
「えぇ……。いや、困るんだけど……。僕、どっかに晒されてる?」
「んーん! そういうわけじゃ、ないよ」
 彼女はそれ以上、答えてくれなかった。……小学校の同級生に、彼女の知り合いでもいるのだろうか。とりあえず、晒されていないなら、いいか……。
「…………」
 オレンジの夕日が、彼女の姿を照らす。
 彼女は、自分の思った怪談が否定されたというのに、すがすがしいほどの笑顔で立っている。
 僕には、その理由が分からない。
「小日向さんは、どうしてオカルトを信じているの……?」
「え? いたら――いいかなって! ロマンがあって、楽しいでしょ!」
「……そっか」
 変な子だな。と、思った。けれど、それは僕も言えた義理ではない。
 
 こうして、僕は新聞部に入った。
 小日向真昼は、高校生にもなって学校の怪談を信じている。
 だけど、僕は信じない。学校に妖怪など存在しない。高等部で起こることなら、なおさらそうだと思う。
 どうせ、人間の仕業なのだ。しかも、トリックでもなんでもない、日常のちょっとした些細な掛け違いや、情報伝達のミスに決まっている。
 これは、オカルトでもなんでもない。僕と小日向さんの、日常ミステリーなのだ。