朝の王宮診療所は、いつも通りの慌ただしさだった。
外来の準備、回診の確認、机の上を行き交う書類。
特別なことは、何もない。
桜は自分の机に向かいながら、時計を一度だけ確認した。
今日は、新しい人が来る日だ。
入口の方で、人の動きが止まる。
マルタが一歩前に出て、診療所全体に声をかけた。
「皆さん、少し手を止めてください」
職員たちの視線が集まる。
その隣に、見慣れない女性が立っていた。
「今日からしばらく、こちらで文書業務を手伝ってくださる方です」
穏やかな口調で、簡潔に続ける。
「エリナ・ルーヴェンさん。
大国に近い、国境沿いの町の貴族の方で、
王宮に滞在する間、診療所の書類整理を中心に担当していただきます」
女性が一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「エリナ・ルーヴェンと申します。
書類整理を中心にお手伝いさせていただきます。
至らぬ点もあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
過不足のない挨拶だった。
職員たちは軽く会釈を返し、ほどなくそれぞれの作業へ戻っていく。
特別な反応はない。
桜は、胸の奥でそっと息を吐いた。
――本当に、ばれないのかな。
控えめな服装。
眼鏡と、色を抑えたウィッグ。
それでも、桜の目には、エリナがどこかきらきらして見えた。
気づかれてしまうのではないかという不安が、完全には消えない。
「サクラ、あとで作業場所を案内してあげて」
マルタの声に、桜は我に返った。
「はい」
立ち上がると、エリナと視線が合う。
ほんの一瞬、互いに小さく頷いた。
――今は、エリナ・ルーヴェンさん。
作業場所は、診療所の一角だった。
診察スペースから少し離れた位置に、移動式の仕切りで簡単に区切られた一画がある。
護衛の騎士が常に目を配れる場所だ。
「ここが、作業スペースです」
桜は棚と机を示した。
「今日は、過去のカルテの整理だけをお願いします」
そう前置きして、説明を続ける。
「こちらの棚にあるのは、すでに診療が完結していて、今はほとんど使わなくなった記録です」
「忙しい時期にまとめて戻しただけなので、少し雑になっていて……」
桜は棚を指した。
「まずは、男女で分けてから、患者さんの名前順に並べ直してください」
「紙のカルテには、亡くなっている患者さんの場合、その旨が記載されています。
そうしたものは、こちらの箱に分けて入れてください」
棚の脇に置かれた箱を示す。
「内容の判断は必要ありません。
迷うものがあれば、あとでこちらで確認しますので、この箱に一時的に入れておいてください」
エリナはすぐに頷いた。
「分かりました。
本日は整理のみですね」
「はい。
量がありますので、少しずつ進めていただければ大丈夫です」
「明日以降は、書類作成もお願いするかもしれません」
それだけで、説明は終わった。
診療所では、それで十分だった。
午前中が終わる頃、桜はふと、作業スペースの棚に目を向けた。
そこに並んでいるのは、すでに診療が完結し、今後参照する機会もほとんどない、過去のカルテだ。
これまではやや乱雑に並べられていたはずのそれらが、いつの間にか、少しずつ整理され始めている。
男女ごとに。
そして、患者の名前順に。
亡くなった患者のカルテは、指示どおり、別の箱にまとめられ始めていた。
帰る時間が近づいても、誰一人、エリナを気に留める様子はない。
視線を向ける者もいない。
桜は、ようやく実感する。
――クロトさんの結界、本当にすごい。
そして、それ以上に。
エリナ・ルーヴェンは、ただ、淡々と、与えられた仕事をこなしていた。
初日の業務が、静かに終わる。
――――――――――
翌日から、エリナの作業は明確になった。
午前中は、これまで通りカルテ整理を行う。
午後は、書類作成を担当することになった。
桜から渡されたのは、早期動作訓練についての走り書きのメモと、現場で使ってきた簡易マニュアルが記載された資料だった。
動作訓練そのものについては、事前に桜から簡単な説明が行われている。
「業務の合間に、皆で少しずつまとめてきたものです。
現場用としては使えているんですが、勉強会用の資料としては、まだ整っていなくて」
桜はそう前置きして続けた。
「同じ医療関係者向けの勉強会になりますので、専門用語については、そのままで構いません。
ただ、判断の流れが追える形に、整理していただけると助かります」
「分かりました」
「まずは、最初に行った症例からお願いしますね」
渡したのは、一症例分のみだった。
脊髄損傷による、軽い神経麻痺。
マルタとロッテが、桜の動作訓練を見学しながらマニュアルのたたき台を作成し、その後、関わった四人が、それぞれの業務の合間に目を通し、必要な点を書き足してきた症例だ。
診療所の中では、すでに運用されているマニュアルもある。
一度経験した症例については、桜が不在の時間帯であっても、医師と連携の上、動作訓練を開始できる程度には、流れが固まっていた。
ただし、それはあくまで――現場用の言葉だった。
エリナは資料を机に置き、しばらく目を通してから、白紙を一枚、横に並べた。
いきなり書き直すことはしない。
まず、どこまでが事実で、どこからが判断なのかを、一つずつ切り分けていく。
午後の診療の合間、桜が通りかかったタイミングで、エリナが声をかけた。
「サクラさん。
この症例ですが、動作訓練を開始した判断理由は、“症状が軽かったから”ではありませんよね」
桜は足を止め、すぐに答える。
「ええ。
症状は残っていました。
ただ、悪化の兆候がなく、動かさないことで筋力が低下する方が、リスクが高いと判断しました」
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
エリナは、「悪化がなかった」という表現を、そのまま使わない。
代わりに、こう整える。
――症状の増悪は認められなかった。
――そのため、安静を続けることによる筋力低下の方が、回復を妨げる可能性が高いと判断した。
専門用語は避けない。
だが、判断の順序と理由が追える形に整えていく。
エリナが整えているのは、手技の手順ではなく、判断の考え方だった。
国立病院であれば、診療所とは比べものにならないほど症例数も経験もある。
ただ、「どの時点で動かすか」という視点が、これまで整理されてこなかっただけだ。
だから、この資料は、王宮のやり方をなぞるためのものではない。
――こういう状態であれば、早期に動作訓練を検討する、という判断もある。
――その際、何を確認し、どこをリスクとして考えたのか。
それが伝わればいい。
夕方近く、一症例分として整えられた資料を見て、桜は小さく息を吐いた。
「……分かりやすいですね」
「内容は変えていません」
「はい。
でも、これなら、勉強会でそのまま使えます」
桜は、そう言って資料を戻した。
これで、すべてが分かるわけではない。
この世界で、早期の動作訓練という考え方が、当たり前になるまでには、まだ時間がかかる。
私自身、リハビリの専門家というわけでもない。
日本で得た知識や、本で読んだことを頼りに、現場で手探りを重ねてきただけだ。
それでも。
これまでの患者さんたちが、次の誰かの判断の助けになるなら。
――――――――――
■ 近くて、遠い
結界修正を終えた帰り道だった。
夕方の空気は、少し冷えている。
王宮の廊下を歩きながら、桜は珍しく足取りが軽かった。
「クロトさん」
呼びかける声が、いつもより明るい。
護衛として少し後ろを歩いていたクロトは、すぐにそれに気づいた。
「エリアナ様、本当にすごいです。
医療のことはほとんど分からないっておっしゃっていたのに、要点を外さずにまとめてくださって……」
クロトは、短く頷く。
「ええ。
能力の高い方ですね」
評価としては、正しい。
冷静で、適切で、問題はない。
――それでも。
クロトの視線は、桜の横顔から離れなかった。
桜は、楽しそうだった。
仕事の話をしているだけなのに、誰かのことを語る声が、わずかに弾んでいる。
「必要なところだけ質問されて、あとは淡々と作業されていて。
気づいたら、ちゃんと伝わる文章になっているんです」
――距離が縮むのは、当然だ。
理屈では、分かっている。
だが。
何かあったとき、桜が傷つくことだけは、どうしても想像してしまう。
過去にも、同じ思いを抱いたことがある。
桜が、望まないものに巻き込まれるたび、自分が傍にいられない状況を、何度も思い知らされてきた。
そして――今回は、違う。
あと数週間で、クロトは大国へ派遣される。
しばらく、桜の傍にはいられない。
護衛としても、個人としても。
「……」
クロトは、無意識に歩調を落とした。
桜が気づいて、振り返る。
「クロトさん?」
「いえ。
問題ありません」
そう答えながら、心の中でだけ、はっきりと自覚する。
――嫌な予感ではない。
――不信でもない。
ただ、自分がいない時間に、桜が傷つく可能性があること。
それが、今まで以上に、許容できなくなっているだけだ。
桜は、何も知らずに前を向く。
「エリアナ様、あの方がいてくださると、本当に助かっています」
その言葉に、クロトは静かに頷いた。
「……そうでしょうね」
声は変わらなかった。
表情も、いつも通りだ。
ただ一つ、胸の奥だけが、静かに、重くなっていく。
自分が傍にいられない時間が、確実に近づいていることを、否応なく突きつけられながら。
外来の準備、回診の確認、机の上を行き交う書類。
特別なことは、何もない。
桜は自分の机に向かいながら、時計を一度だけ確認した。
今日は、新しい人が来る日だ。
入口の方で、人の動きが止まる。
マルタが一歩前に出て、診療所全体に声をかけた。
「皆さん、少し手を止めてください」
職員たちの視線が集まる。
その隣に、見慣れない女性が立っていた。
「今日からしばらく、こちらで文書業務を手伝ってくださる方です」
穏やかな口調で、簡潔に続ける。
「エリナ・ルーヴェンさん。
大国に近い、国境沿いの町の貴族の方で、
王宮に滞在する間、診療所の書類整理を中心に担当していただきます」
女性が一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「エリナ・ルーヴェンと申します。
書類整理を中心にお手伝いさせていただきます。
至らぬ点もあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
過不足のない挨拶だった。
職員たちは軽く会釈を返し、ほどなくそれぞれの作業へ戻っていく。
特別な反応はない。
桜は、胸の奥でそっと息を吐いた。
――本当に、ばれないのかな。
控えめな服装。
眼鏡と、色を抑えたウィッグ。
それでも、桜の目には、エリナがどこかきらきらして見えた。
気づかれてしまうのではないかという不安が、完全には消えない。
「サクラ、あとで作業場所を案内してあげて」
マルタの声に、桜は我に返った。
「はい」
立ち上がると、エリナと視線が合う。
ほんの一瞬、互いに小さく頷いた。
――今は、エリナ・ルーヴェンさん。
作業場所は、診療所の一角だった。
診察スペースから少し離れた位置に、移動式の仕切りで簡単に区切られた一画がある。
護衛の騎士が常に目を配れる場所だ。
「ここが、作業スペースです」
桜は棚と机を示した。
「今日は、過去のカルテの整理だけをお願いします」
そう前置きして、説明を続ける。
「こちらの棚にあるのは、すでに診療が完結していて、今はほとんど使わなくなった記録です」
「忙しい時期にまとめて戻しただけなので、少し雑になっていて……」
桜は棚を指した。
「まずは、男女で分けてから、患者さんの名前順に並べ直してください」
「紙のカルテには、亡くなっている患者さんの場合、その旨が記載されています。
そうしたものは、こちらの箱に分けて入れてください」
棚の脇に置かれた箱を示す。
「内容の判断は必要ありません。
迷うものがあれば、あとでこちらで確認しますので、この箱に一時的に入れておいてください」
エリナはすぐに頷いた。
「分かりました。
本日は整理のみですね」
「はい。
量がありますので、少しずつ進めていただければ大丈夫です」
「明日以降は、書類作成もお願いするかもしれません」
それだけで、説明は終わった。
診療所では、それで十分だった。
午前中が終わる頃、桜はふと、作業スペースの棚に目を向けた。
そこに並んでいるのは、すでに診療が完結し、今後参照する機会もほとんどない、過去のカルテだ。
これまではやや乱雑に並べられていたはずのそれらが、いつの間にか、少しずつ整理され始めている。
男女ごとに。
そして、患者の名前順に。
亡くなった患者のカルテは、指示どおり、別の箱にまとめられ始めていた。
帰る時間が近づいても、誰一人、エリナを気に留める様子はない。
視線を向ける者もいない。
桜は、ようやく実感する。
――クロトさんの結界、本当にすごい。
そして、それ以上に。
エリナ・ルーヴェンは、ただ、淡々と、与えられた仕事をこなしていた。
初日の業務が、静かに終わる。
――――――――――
翌日から、エリナの作業は明確になった。
午前中は、これまで通りカルテ整理を行う。
午後は、書類作成を担当することになった。
桜から渡されたのは、早期動作訓練についての走り書きのメモと、現場で使ってきた簡易マニュアルが記載された資料だった。
動作訓練そのものについては、事前に桜から簡単な説明が行われている。
「業務の合間に、皆で少しずつまとめてきたものです。
現場用としては使えているんですが、勉強会用の資料としては、まだ整っていなくて」
桜はそう前置きして続けた。
「同じ医療関係者向けの勉強会になりますので、専門用語については、そのままで構いません。
ただ、判断の流れが追える形に、整理していただけると助かります」
「分かりました」
「まずは、最初に行った症例からお願いしますね」
渡したのは、一症例分のみだった。
脊髄損傷による、軽い神経麻痺。
マルタとロッテが、桜の動作訓練を見学しながらマニュアルのたたき台を作成し、その後、関わった四人が、それぞれの業務の合間に目を通し、必要な点を書き足してきた症例だ。
診療所の中では、すでに運用されているマニュアルもある。
一度経験した症例については、桜が不在の時間帯であっても、医師と連携の上、動作訓練を開始できる程度には、流れが固まっていた。
ただし、それはあくまで――現場用の言葉だった。
エリナは資料を机に置き、しばらく目を通してから、白紙を一枚、横に並べた。
いきなり書き直すことはしない。
まず、どこまでが事実で、どこからが判断なのかを、一つずつ切り分けていく。
午後の診療の合間、桜が通りかかったタイミングで、エリナが声をかけた。
「サクラさん。
この症例ですが、動作訓練を開始した判断理由は、“症状が軽かったから”ではありませんよね」
桜は足を止め、すぐに答える。
「ええ。
症状は残っていました。
ただ、悪化の兆候がなく、動かさないことで筋力が低下する方が、リスクが高いと判断しました」
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
エリナは、「悪化がなかった」という表現を、そのまま使わない。
代わりに、こう整える。
――症状の増悪は認められなかった。
――そのため、安静を続けることによる筋力低下の方が、回復を妨げる可能性が高いと判断した。
専門用語は避けない。
だが、判断の順序と理由が追える形に整えていく。
エリナが整えているのは、手技の手順ではなく、判断の考え方だった。
国立病院であれば、診療所とは比べものにならないほど症例数も経験もある。
ただ、「どの時点で動かすか」という視点が、これまで整理されてこなかっただけだ。
だから、この資料は、王宮のやり方をなぞるためのものではない。
――こういう状態であれば、早期に動作訓練を検討する、という判断もある。
――その際、何を確認し、どこをリスクとして考えたのか。
それが伝わればいい。
夕方近く、一症例分として整えられた資料を見て、桜は小さく息を吐いた。
「……分かりやすいですね」
「内容は変えていません」
「はい。
でも、これなら、勉強会でそのまま使えます」
桜は、そう言って資料を戻した。
これで、すべてが分かるわけではない。
この世界で、早期の動作訓練という考え方が、当たり前になるまでには、まだ時間がかかる。
私自身、リハビリの専門家というわけでもない。
日本で得た知識や、本で読んだことを頼りに、現場で手探りを重ねてきただけだ。
それでも。
これまでの患者さんたちが、次の誰かの判断の助けになるなら。
――――――――――
■ 近くて、遠い
結界修正を終えた帰り道だった。
夕方の空気は、少し冷えている。
王宮の廊下を歩きながら、桜は珍しく足取りが軽かった。
「クロトさん」
呼びかける声が、いつもより明るい。
護衛として少し後ろを歩いていたクロトは、すぐにそれに気づいた。
「エリアナ様、本当にすごいです。
医療のことはほとんど分からないっておっしゃっていたのに、要点を外さずにまとめてくださって……」
クロトは、短く頷く。
「ええ。
能力の高い方ですね」
評価としては、正しい。
冷静で、適切で、問題はない。
――それでも。
クロトの視線は、桜の横顔から離れなかった。
桜は、楽しそうだった。
仕事の話をしているだけなのに、誰かのことを語る声が、わずかに弾んでいる。
「必要なところだけ質問されて、あとは淡々と作業されていて。
気づいたら、ちゃんと伝わる文章になっているんです」
――距離が縮むのは、当然だ。
理屈では、分かっている。
だが。
何かあったとき、桜が傷つくことだけは、どうしても想像してしまう。
過去にも、同じ思いを抱いたことがある。
桜が、望まないものに巻き込まれるたび、自分が傍にいられない状況を、何度も思い知らされてきた。
そして――今回は、違う。
あと数週間で、クロトは大国へ派遣される。
しばらく、桜の傍にはいられない。
護衛としても、個人としても。
「……」
クロトは、無意識に歩調を落とした。
桜が気づいて、振り返る。
「クロトさん?」
「いえ。
問題ありません」
そう答えながら、心の中でだけ、はっきりと自覚する。
――嫌な予感ではない。
――不信でもない。
ただ、自分がいない時間に、桜が傷つく可能性があること。
それが、今まで以上に、許容できなくなっているだけだ。
桜は、何も知らずに前を向く。
「エリアナ様、あの方がいてくださると、本当に助かっています」
その言葉に、クロトは静かに頷いた。
「……そうでしょうね」
声は変わらなかった。
表情も、いつも通りだ。
ただ一つ、胸の奥だけが、静かに、重くなっていく。
自分が傍にいられない時間が、確実に近づいていることを、否応なく突きつけられながら。

