騎士団の朝は、いつもと変わらず始まった。
点呼、装備確認、巡回の割り振り。魔物対応の報告が二件。どれも軽微で、特筆するほどのものではない。
この国では、それが日常だ。
ただ、記録を並べると、わずかな違いが見える。
出動回数が、ほんの少し増えていた。
誰かが口にするほどではないが、気づく者は気づく程度の差だった。
「最近、第4師団、動き多いな」
休憩の合間に、そんな声が落ちる。
「国境寄りだろ」「この時期はこんなもんだ」
会話はそれで終わる。理由を詮索しないのは、騎士団の気質だった。魔物対応に理由はいくらでもある。
表向きには、何も起きていない。
だが、第4師団の内部では、段階が一つ進んでいた。
全体像を把握しているのは、国王と重臣、そして各師団の師団長と副師団長のみだった。
この件がクーデターに関わるものであることを知っているのも、同じ範囲に限られている。
ただし、任務に就く者たちにも、それがクーデターに関わる案件であること自体は共有されていた。
周辺調査は、ほぼ終わりつつあった。
最初は距離を保ち、噂と流れを見るだけだった動きが、少しずつ変わる。
人に近づき、場所を定め、動きの癖を拾う。
危険の中心へと、足を踏み込みつつある段階に入っていた。
この時点で、判断が下る。
情報収集は続ける。ただし、露見した場合に備える必要がある。
軍務卿ローデリヒ・シュタインベルクは、文書を残さず、特別師団長ヴァルター・アイゼンを呼んだ。
指示は簡潔だった。
第4師団の情報収集班に、非常事態時の対応要員を付けること。
正体が露見した場合、確実に退路を作れる体制を整えること。
特別師団はあくまで補助に過ぎない。
求められているのは、崩れた瞬間に事態を収束させる力だった。
ヴァルターは、その足で副師団長クロトを呼んだ。
人選の相談だった。
条件は明確だった。
密偵の動きを妨げないこと。
存在を悟らせず、気配を消せること。
それでいて、拘束や追跡が入った場合には、確実に突破できること。
クロトは名簿を確認し、短く答えた。
該当者は多くない。だからこそ、選別する。
各情報収集グループに、特別師団から一名。
編成は小さい。
第4師団一、二名に、特別師団一名。
主導は第4師団。
特別師団は、抑えとして配置される。
任務に就く騎士たちが知っているのは、自分のグループのことだけだ。
他にどんな調査が行われているのか、誰がどこまで関わっているのかは知らされない。報告を上へ上げるのみだった。
彼らは、自分に与えられた対象と役目だけを把握し、それ以上を必要としない。
それで、この任務は成立していた。
結界を司るリエットに伝えられた情報は、さらに少ない。
大国で不穏な動きがあり、その影響が及ぶ可能性があること。
結界に負荷がかかるかもしれないという見通し。
だから、念のため、備えてほしい。
それだけだった。
桜は、何も知らない。
結界も、診療所も、いつも通りだ。
手応えは変わらず、違和感もない。
こうして、初動は静かに進んでいく。
騎士団は日常を保ったまま、国はまだ、表情を変えない。
水面下で何が動いているのかを、知る者は限られていた。
________________________________________
ヴァルターと人選を終え、クロトは一人、廊下を歩いていた。
配置は妥当だ。判断も、誤ってはいない。
それでも、ふと、思い出してしまう。
――ここで生活してるんだなって、実感しました。
――案外、こちらでもやっていける気がします。
その言葉は、決断ではなかった。
だが、クロトには、それを重く受け取ってしまう自分が分かった。
桜が、この世界に残る可能性を、
冗談めかしにでも、口にしたことを。
それが、嬉しかった。
自分が決して口に出すことのできない願望を、
桜が、さらりと言葉にしたことが。
だからこそ、思ってしまう。
もし、この先、事態が最悪の形で転び、
桜が危険に晒されるくらいなら。
――この世界に、二度と来るべきではない。
――元の世界へ、返すべきだ。
それで、桜の命を守れるのなら、
自分の望みを切り捨てるくらい、楽な選択だった。
誰にも言わない。
ただ、その考えが浮かんだ事実だけが、
静かに胸の奥に残った。
点呼、装備確認、巡回の割り振り。魔物対応の報告が二件。どれも軽微で、特筆するほどのものではない。
この国では、それが日常だ。
ただ、記録を並べると、わずかな違いが見える。
出動回数が、ほんの少し増えていた。
誰かが口にするほどではないが、気づく者は気づく程度の差だった。
「最近、第4師団、動き多いな」
休憩の合間に、そんな声が落ちる。
「国境寄りだろ」「この時期はこんなもんだ」
会話はそれで終わる。理由を詮索しないのは、騎士団の気質だった。魔物対応に理由はいくらでもある。
表向きには、何も起きていない。
だが、第4師団の内部では、段階が一つ進んでいた。
全体像を把握しているのは、国王と重臣、そして各師団の師団長と副師団長のみだった。
この件がクーデターに関わるものであることを知っているのも、同じ範囲に限られている。
ただし、任務に就く者たちにも、それがクーデターに関わる案件であること自体は共有されていた。
周辺調査は、ほぼ終わりつつあった。
最初は距離を保ち、噂と流れを見るだけだった動きが、少しずつ変わる。
人に近づき、場所を定め、動きの癖を拾う。
危険の中心へと、足を踏み込みつつある段階に入っていた。
この時点で、判断が下る。
情報収集は続ける。ただし、露見した場合に備える必要がある。
軍務卿ローデリヒ・シュタインベルクは、文書を残さず、特別師団長ヴァルター・アイゼンを呼んだ。
指示は簡潔だった。
第4師団の情報収集班に、非常事態時の対応要員を付けること。
正体が露見した場合、確実に退路を作れる体制を整えること。
特別師団はあくまで補助に過ぎない。
求められているのは、崩れた瞬間に事態を収束させる力だった。
ヴァルターは、その足で副師団長クロトを呼んだ。
人選の相談だった。
条件は明確だった。
密偵の動きを妨げないこと。
存在を悟らせず、気配を消せること。
それでいて、拘束や追跡が入った場合には、確実に突破できること。
クロトは名簿を確認し、短く答えた。
該当者は多くない。だからこそ、選別する。
各情報収集グループに、特別師団から一名。
編成は小さい。
第4師団一、二名に、特別師団一名。
主導は第4師団。
特別師団は、抑えとして配置される。
任務に就く騎士たちが知っているのは、自分のグループのことだけだ。
他にどんな調査が行われているのか、誰がどこまで関わっているのかは知らされない。報告を上へ上げるのみだった。
彼らは、自分に与えられた対象と役目だけを把握し、それ以上を必要としない。
それで、この任務は成立していた。
結界を司るリエットに伝えられた情報は、さらに少ない。
大国で不穏な動きがあり、その影響が及ぶ可能性があること。
結界に負荷がかかるかもしれないという見通し。
だから、念のため、備えてほしい。
それだけだった。
桜は、何も知らない。
結界も、診療所も、いつも通りだ。
手応えは変わらず、違和感もない。
こうして、初動は静かに進んでいく。
騎士団は日常を保ったまま、国はまだ、表情を変えない。
水面下で何が動いているのかを、知る者は限られていた。
________________________________________
ヴァルターと人選を終え、クロトは一人、廊下を歩いていた。
配置は妥当だ。判断も、誤ってはいない。
それでも、ふと、思い出してしまう。
――ここで生活してるんだなって、実感しました。
――案外、こちらでもやっていける気がします。
その言葉は、決断ではなかった。
だが、クロトには、それを重く受け取ってしまう自分が分かった。
桜が、この世界に残る可能性を、
冗談めかしにでも、口にしたことを。
それが、嬉しかった。
自分が決して口に出すことのできない願望を、
桜が、さらりと言葉にしたことが。
だからこそ、思ってしまう。
もし、この先、事態が最悪の形で転び、
桜が危険に晒されるくらいなら。
――この世界に、二度と来るべきではない。
――元の世界へ、返すべきだ。
それで、桜の命を守れるのなら、
自分の望みを切り捨てるくらい、楽な選択だった。
誰にも言わない。
ただ、その考えが浮かんだ事実だけが、
静かに胸の奥に残った。
