結界の中心部には、静寂が張りつめていた。
人が集まっているにもかかわらず、足音も衣擦れも、まるで吸い込まれるように消えている。
国王と王妃、神殿長、リエット。
前回と同じ顔ぶれが、同じ場所を見つめていた。
視線の先にあるのは、結界の核――ただ、それだけだ。
巫女が戻る。
そう信じるしかない。
だが、どちらが戻るのかは分からない。
リンか。
サクラか。
リンは、力を持っている。
圧倒的な魔力量。目覚めさえすれば、完成形の器となる存在だ。
だが、今の彼女には、まだその兆しがない。
この状態が続けば、結界の崩壊は、確実に進む。
一方で、サクラは――
巫女として語るには、あまりにも力が弱すぎる。
それでも。
十年という歳月、結界を紡ぎ続けてきた経験がある。
大きく引き上げることはできなくとも、綱渡りのような安定は保てる。
ただし、それは彼女が来れば、の話だ。
彼女が来る保証は、どこにもなかった。
結界そのものは、選ばない。
扉を開くかどうかを決めるのは、世界ではない。
向こう側に立つ、巫女自身だ。
だから、この場にいる者たちは待っている。
世界の判断ではなく――
一人の人間の決断を。
結界の表層が、わずかに揺れた。
光の糸が、張りつめるのではなく、余白をつくるように緩む。
リエットが、息を詰めたまま声を落とす。
「……反応が出ました」
転移が始まる。
光が集まり、輪郭を結ぶ。
人影が、ゆっくりと形を成していく。
短く切られた髪。
覚えのある立ち姿。
結界の縁で、必ず一拍、呼吸を置く癖。
転移が完了し、光が引く。
彼女は、しっかりと自分の足で立っていた。
「……お待たせしました」
サクラはそう言って、いつも通り、軽く頭を下げる。
リエットが一歩前に出る。
声は静かだったが、その奥には、確かな緊張があった。
「……サクラ様。
こちらに来られると、決められたのですね」
サクラは、わずかに視線を落とす。
それから、はっきりと頷いた。
「はい」
短い沈黙。
「自分で、来ると決めました」
誰も、その言葉に問い返さなかった。
それがどれほど重い決断か――
この場にいる全員が、理解していた。
サクラは結界に近づき、
光の糸に、そっと視線を走らせる。
――まだ、持っている。
この間、自分が紡いだ安定が、
かろうじて保たれていることを確かめてから、
少しだけ距離を保つ、いつもの愛想笑いを浮かべた。
「……すみません。
もし、緊急性がなければ、今日は休ませていただいてもよろしいでしょうか」
一瞬、場が静まる。
「まだ来たばかりで……
少し、結界酔いしているみたいで」
リエットは、すぐに頷いた。
「ええ。今日は急ぎません」
それだけだった。
神殿長も、国王も、言葉を足さない。
最初から、そのつもりだったかのように。
サクラは、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとうございます」
軽く頭を下げると、リエットが一歩、横にずれた。
「部屋は、前と同じです」
「助かります。変わっていたら、たぶん迷っていました」
冗談めかして言うと、
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
「それは困りますね」
リエットも、ほんの少しだけ笑った。
サクラが歩き出そうとした、そのときだった。
「副師団長」
低く、よく通る声が結界の中心に落ちる。
ヴァルター・アイゼンだった。
クロトが即座に足を止め、振り向く。
ヴァルターはサクラを一瞥し、
結界の状態と彼女の立ち姿を、短く確認する。
「転移直後だ。今日は消耗も大きい」
淡々と、だが判断は明確だった。
「部屋まで、確実に送れ。警戒は不要だが、護衛はつける」
命令だった。
配慮ではなく、現場責任者としての指示。
「承知しました」
クロトは一切の間を置かずに応じる。
それ以上の言葉は交わされない。
ヴァルターは、すでに次の配置へと意識を移していた。
クロトが一歩前に出る。
「サクラ様。移動中は、私がつきます」
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
二人並んで歩き出す。
結界の中心から離れるにつれ、空気が少しずつ軽くなる。
「……転移、久しぶりでしたね」
「えぇ。思ったより、きました」
「気分の悪さや、立ちくらみはありませんか」
「それ、昔からの聞き方ですよね」
「慣れているだけで、問題がないとは限りませんから」
「……ありがとうございます」
歩調が、自然に合わされる。
「今日は、もう休まれてください」
「はい。そうします」
少し間を置いてから、クロトが続けた。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます」
足を止めずに言われたその声は、
改まった礼ではなかった。
サクラは、本当に少し驚いたような顔をして、
「……クロトさんに、そんなふうに言われるとは思いませんでした」
「事実ですから」
それ以上は、言わない。
短い沈黙のあと、
見慣れた扉の前で、サクラが足を止める。
「ここですね」
「はい」
クロトは一歩下がり、
いつもの警護の位置に立つ。
サクラは、何も言わずに待った。
淡い光が、静かに広がる。
空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「……結界ですか?」
「はい。何かあれば、すぐに駆け付けます」
「……助かります」
サクラは扉に手をかける。
「夜は?」
「夜勤が引き継ぎます」
「分かりました」
それで、話は終わりだった。
サクラは扉を開け、振り返る。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まり、
その音だけが、廊下に小さく残った。
クロトは一歩下がり、入念に結界の反応を確認する。
異常はない。
通信石を取り出し、短く告げた。
「巫女、休養に入った。
夜間、引き継ぎを頼む」
すぐに返事が返る。
クロトは踵を返し、歩き出した。
これで、いつも通りだ。
何かあれば、すぐに駆け付けられる。
クロトは次の任務へと、足を向けた。
――――――――――――――――――――
■幕間 任務
「南東、第三固定点。
魔力反応、規模は中」
報告を受けて、クロトは頷いた。
「特別師団、第二班を先行」
名を呼ぶ。
「ヴァルド。指揮を任せる」
「了解」
短く、即答が返る。
「リーゼ、探査を。
ノイン、浄化準備」
「了解です」
「準備できています」
三人とも、余計な確認はしない。
「副師団長、準備完了です」
「転移する」
次の瞬間、転移の衝撃が地面を叩いた――
砂と魔力が同時に舞い上がる。
夜の森は、すでに歪んでいた。
「――出る」
クロトの声とほぼ同時に、魔力反応が弾ける。
地面が割れ、黒い影が這い出した。
中型。複数。速度が速い。
「来ます!」
リーゼが一歩前に出る。
視線が走り、即座に叫んだ。
「左三、右奥一! 核、浅い!」
「ヴァルド、前!」
「了解!」
ヴァルドが剣を抜く。
踏み込みは一拍。
次の瞬間、獣の顎が空を切った。
重い一撃。
だが、剣は止まらない。
「ノイン!」
「浄化、展開!」
ノインが詠唱を切り上げ、術式を叩き込む。
光が走り、地面に焼けた線が残る。
影の一体が跳ねた。
クロトが動く。
剣が振るわれたと認識した瞬間、
すでに魔物は倒れていた。
核だけを断ち切る一閃。
血も悲鳴も、遅れて落ちる。
「数、減りました!」
リーゼが後退しながら、次の反応を拾う。
「まだ出ます。下です!」
「囲ませるな!」
クロトの声が落ちる。
地面が再び割れた瞬間、
ヴァルドが盾代わりに踏み込み、衝撃を受け止める。
「……っ!」
「まだ、持ちこたえられます!」
「無理するな、下がれ!」
クロトが間に入る。
魔力が刃に集まり、夜が裂けた。
轟音。
残った影が、一斉に霧散する。
一瞬の静寂。
「……終わりです」
ノインが息を整えながら言う。
リーゼはすぐに周囲を確認した。
「追加反応、なし。
――副師団長、巫女側は?」
クロトは剣を納める前に、
自ら構成した結界の反応を探る。
「異常なし」
それだけで、十分だった。
「現場、収束。
報告書は明日でいい。今日は各自、休め」
「了解」
転移魔法陣が、再び光る。
次の瞬間、特別師団の姿は、夜から消えた。
人が集まっているにもかかわらず、足音も衣擦れも、まるで吸い込まれるように消えている。
国王と王妃、神殿長、リエット。
前回と同じ顔ぶれが、同じ場所を見つめていた。
視線の先にあるのは、結界の核――ただ、それだけだ。
巫女が戻る。
そう信じるしかない。
だが、どちらが戻るのかは分からない。
リンか。
サクラか。
リンは、力を持っている。
圧倒的な魔力量。目覚めさえすれば、完成形の器となる存在だ。
だが、今の彼女には、まだその兆しがない。
この状態が続けば、結界の崩壊は、確実に進む。
一方で、サクラは――
巫女として語るには、あまりにも力が弱すぎる。
それでも。
十年という歳月、結界を紡ぎ続けてきた経験がある。
大きく引き上げることはできなくとも、綱渡りのような安定は保てる。
ただし、それは彼女が来れば、の話だ。
彼女が来る保証は、どこにもなかった。
結界そのものは、選ばない。
扉を開くかどうかを決めるのは、世界ではない。
向こう側に立つ、巫女自身だ。
だから、この場にいる者たちは待っている。
世界の判断ではなく――
一人の人間の決断を。
結界の表層が、わずかに揺れた。
光の糸が、張りつめるのではなく、余白をつくるように緩む。
リエットが、息を詰めたまま声を落とす。
「……反応が出ました」
転移が始まる。
光が集まり、輪郭を結ぶ。
人影が、ゆっくりと形を成していく。
短く切られた髪。
覚えのある立ち姿。
結界の縁で、必ず一拍、呼吸を置く癖。
転移が完了し、光が引く。
彼女は、しっかりと自分の足で立っていた。
「……お待たせしました」
サクラはそう言って、いつも通り、軽く頭を下げる。
リエットが一歩前に出る。
声は静かだったが、その奥には、確かな緊張があった。
「……サクラ様。
こちらに来られると、決められたのですね」
サクラは、わずかに視線を落とす。
それから、はっきりと頷いた。
「はい」
短い沈黙。
「自分で、来ると決めました」
誰も、その言葉に問い返さなかった。
それがどれほど重い決断か――
この場にいる全員が、理解していた。
サクラは結界に近づき、
光の糸に、そっと視線を走らせる。
――まだ、持っている。
この間、自分が紡いだ安定が、
かろうじて保たれていることを確かめてから、
少しだけ距離を保つ、いつもの愛想笑いを浮かべた。
「……すみません。
もし、緊急性がなければ、今日は休ませていただいてもよろしいでしょうか」
一瞬、場が静まる。
「まだ来たばかりで……
少し、結界酔いしているみたいで」
リエットは、すぐに頷いた。
「ええ。今日は急ぎません」
それだけだった。
神殿長も、国王も、言葉を足さない。
最初から、そのつもりだったかのように。
サクラは、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとうございます」
軽く頭を下げると、リエットが一歩、横にずれた。
「部屋は、前と同じです」
「助かります。変わっていたら、たぶん迷っていました」
冗談めかして言うと、
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
「それは困りますね」
リエットも、ほんの少しだけ笑った。
サクラが歩き出そうとした、そのときだった。
「副師団長」
低く、よく通る声が結界の中心に落ちる。
ヴァルター・アイゼンだった。
クロトが即座に足を止め、振り向く。
ヴァルターはサクラを一瞥し、
結界の状態と彼女の立ち姿を、短く確認する。
「転移直後だ。今日は消耗も大きい」
淡々と、だが判断は明確だった。
「部屋まで、確実に送れ。警戒は不要だが、護衛はつける」
命令だった。
配慮ではなく、現場責任者としての指示。
「承知しました」
クロトは一切の間を置かずに応じる。
それ以上の言葉は交わされない。
ヴァルターは、すでに次の配置へと意識を移していた。
クロトが一歩前に出る。
「サクラ様。移動中は、私がつきます」
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
二人並んで歩き出す。
結界の中心から離れるにつれ、空気が少しずつ軽くなる。
「……転移、久しぶりでしたね」
「えぇ。思ったより、きました」
「気分の悪さや、立ちくらみはありませんか」
「それ、昔からの聞き方ですよね」
「慣れているだけで、問題がないとは限りませんから」
「……ありがとうございます」
歩調が、自然に合わされる。
「今日は、もう休まれてください」
「はい。そうします」
少し間を置いてから、クロトが続けた。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます」
足を止めずに言われたその声は、
改まった礼ではなかった。
サクラは、本当に少し驚いたような顔をして、
「……クロトさんに、そんなふうに言われるとは思いませんでした」
「事実ですから」
それ以上は、言わない。
短い沈黙のあと、
見慣れた扉の前で、サクラが足を止める。
「ここですね」
「はい」
クロトは一歩下がり、
いつもの警護の位置に立つ。
サクラは、何も言わずに待った。
淡い光が、静かに広がる。
空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「……結界ですか?」
「はい。何かあれば、すぐに駆け付けます」
「……助かります」
サクラは扉に手をかける。
「夜は?」
「夜勤が引き継ぎます」
「分かりました」
それで、話は終わりだった。
サクラは扉を開け、振り返る。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まり、
その音だけが、廊下に小さく残った。
クロトは一歩下がり、入念に結界の反応を確認する。
異常はない。
通信石を取り出し、短く告げた。
「巫女、休養に入った。
夜間、引き継ぎを頼む」
すぐに返事が返る。
クロトは踵を返し、歩き出した。
これで、いつも通りだ。
何かあれば、すぐに駆け付けられる。
クロトは次の任務へと、足を向けた。
――――――――――――――――――――
■幕間 任務
「南東、第三固定点。
魔力反応、規模は中」
報告を受けて、クロトは頷いた。
「特別師団、第二班を先行」
名を呼ぶ。
「ヴァルド。指揮を任せる」
「了解」
短く、即答が返る。
「リーゼ、探査を。
ノイン、浄化準備」
「了解です」
「準備できています」
三人とも、余計な確認はしない。
「副師団長、準備完了です」
「転移する」
次の瞬間、転移の衝撃が地面を叩いた――
砂と魔力が同時に舞い上がる。
夜の森は、すでに歪んでいた。
「――出る」
クロトの声とほぼ同時に、魔力反応が弾ける。
地面が割れ、黒い影が這い出した。
中型。複数。速度が速い。
「来ます!」
リーゼが一歩前に出る。
視線が走り、即座に叫んだ。
「左三、右奥一! 核、浅い!」
「ヴァルド、前!」
「了解!」
ヴァルドが剣を抜く。
踏み込みは一拍。
次の瞬間、獣の顎が空を切った。
重い一撃。
だが、剣は止まらない。
「ノイン!」
「浄化、展開!」
ノインが詠唱を切り上げ、術式を叩き込む。
光が走り、地面に焼けた線が残る。
影の一体が跳ねた。
クロトが動く。
剣が振るわれたと認識した瞬間、
すでに魔物は倒れていた。
核だけを断ち切る一閃。
血も悲鳴も、遅れて落ちる。
「数、減りました!」
リーゼが後退しながら、次の反応を拾う。
「まだ出ます。下です!」
「囲ませるな!」
クロトの声が落ちる。
地面が再び割れた瞬間、
ヴァルドが盾代わりに踏み込み、衝撃を受け止める。
「……っ!」
「まだ、持ちこたえられます!」
「無理するな、下がれ!」
クロトが間に入る。
魔力が刃に集まり、夜が裂けた。
轟音。
残った影が、一斉に霧散する。
一瞬の静寂。
「……終わりです」
ノインが息を整えながら言う。
リーゼはすぐに周囲を確認した。
「追加反応、なし。
――副師団長、巫女側は?」
クロトは剣を納める前に、
自ら構成した結界の反応を探る。
「異常なし」
それだけで、十分だった。
「現場、収束。
報告書は明日でいい。今日は各自、休め」
「了解」
転移魔法陣が、再び光る。
次の瞬間、特別師団の姿は、夜から消えた。
