初対面のイケメンにいきなり「お前の唇貸して」と言われたんだが。

 ――お前さ、わかってるよな。俺がずっと誰を見ていたのか。
 鮮やかなオレンジ色の西日が差し込んでくる教室で、直人(なおと)が低い声で言う。その声に僕はなにも答えられなくなる。難しいことを求められているからじゃない。そうじゃなくて。
 ――わかっててなにも言わないのは、どうして? 俺が嫌いだから? もし、そうなら……。
 ばさばさと、直人の背後でカーテンが風にはためいている。まるで大きな翼みたいに。
 それを見ていたら、怖くなった。
 今、言わないと直人が遠くに行ってしまいそうで。だから、僕は……。

「おーい、飛世(とびせ)? 飛世ってば。おいこら、飛世灯(とびせあかり)~」
 声をかけられてはっとする。
 小説世界から一気にリアルへと感覚が戻ってくる。窓から入り込んでくるのは煌めいた西日ではなくて、冷たく憂鬱そうな十一月の雨音。
 いかん。つい夢中になって書いてしまってた。
 さりげなくノートパソコンの画面を切り替える。見られてないだろうけど、ドアが開いた音にすら気付かないほど没頭するなんてのはいただけない。
「すみません。集中していて。会長、珍しいですね」
 にこやかに笑って、戸口に顔を向けると、春田(はるた)先輩が、いつも通りの気怠い様子で伸びをしながら生徒会室に入ってくるところだった。
「生徒会室に会長が顔を出して珍しいと言われるとは。俺も行いを正さないといけないねえ」
「そうですね。書記の俺しか、最近来ませんからねえ」
 ……おかげでのびのびと執筆できるんだけど。
 なんてことはもちろん言わずに、俺は春田先輩のためにお茶を入れようと立ち上がる。
「生徒会なんて面倒ごとが多いのに。飛世くらいだよなあ、面倒がらずにやってくれんの」
 熱々のお茶を注いだマグカップを渡すと、春田先輩は「あちち」と言いながら、湯気の向こうから俺を見た。その先輩に俺は曖昧に笑う。
 うん、確かに春田先輩にこの生徒会にスカウトされて以来、俺はまあまあ良い働きをしているとは思う。だが、先輩は誤解している。
 面倒がらず、なわけがない。面倒に決まっている。
 校則の改善提案、各種委員会の取りまとめ、各クラブの活動内容確認、生徒総会開催進行、募金活動、他校との交流会参加、その他もろもろが梅雨時の雨みたいにひっきりなしに降ってくるのだ。
 生徒会の仕事なんて文化祭とか、体育祭とか、イベントごとの企画、運営くらいだろうと高をくくっていたのに、こんなに業務量が多いなんて聞いてなかった。とんだ誤算だ。
 にもかかわらず、ここの生徒会役員はそろいもそろって働かない。会長の春田先輩もそうだし、副会長の井本(いもと)先輩も、会計の霧島(きりしま)も俺が招集をかけないと生徒会室に来ない。
 ここ西邦学園は、東大進学者を毎年出すほどの進学校だから勉強が忙しいのはわかるが、内申に書ける最低ラインのエコな活動を役員みんなが目指してどうすんだ、と怒鳴りたくなる。
 そんな状態だから、内申点稼ぎで役員になったわけではない俺が、身を削って頑張る理由はない。それでも俺が生徒会に居続けるのは。
「面倒ですけど、ここ、うちより相当静かなんで、勉強めっちゃはかどるんですよ」
 そう、ここを去ると、俺はこの静かな生徒会室を自由に使えなくなる。それは困る。
「五人兄弟だっけ。飛世のとこ」
 ようやく冷めてきたのか、ずずっと音を立ててお茶をすすりながら、春田先輩が問いかけてくる。
「はい。俺が一番上で、中三、中一、小五の双子がいて。部屋ないんですよね、俺。勉強もできないし。なので、ここ、自由に使わせてもらえるのはぶっちゃけ助かるんですよ」
「仕事でこき使われても?」
「それはまあ、程度によりますけど」
 そう、程度による。あまりにも手に余る仕事だった場合は、さすがに投げ出すかも。
 とは言わずに、よそゆきの顔をしてパソコンに向き直る。開いていた投稿サイトをさりげなく閉じたとき、そうだった、と春田先輩が声のトーンを上げた。
「飛世に頼みがあって来たんだった」
「お茶、飲みにきたんじゃなかったんですか」
「仕事もせずお茶だけ飲みに来たりしませんよ。君はなにを言っているのかね……ってなんだろ、言えば言うほど自分の首を絞めそうな。まあいいや、あのね、実は生徒会に新メンバー入れようと思ってて。その子の面倒、飛世が見てくんないかなと」
「新メンバー?」
「いやだってさ、あまりにみんな働かないじゃん。俺も含めて。なので、執行役員としてひとりスカウトしたの。飛世知らない? 1ーBの天間(てんま)あらた」
 俺は1ーDだ。1ーBのやつとなるとちょっとわからない。が、春田先輩は気にする様子もなくお茶を飲み干し立ち上がる。
「今日ね、ここ来るよう言ってあるから。仕事のこと、教えてあげてくれる? あー、大丈夫大丈夫、コミュ力はあるやつだと思うし、飛世とならうまくやれるだろうから」
「……はあ」
 ……面倒だ。
 というか、いらない。新メンバーなんて。だってそんなのに入ってこられたら、自由に執筆できなくなっちゃうじゃないか。
 言いたい。そういうのいらないです、と言いたい!
 でも言えない。
 俺がBL小説を心置きなく書ける場所を求めて生徒会に入ったなんて、絶対、言えない。
「まあ、俺も下っ端なのでわかる範囲で……」
 せいぜいが消極的な態度を先輩に見せておくくらいしかできない。
 不満顔をしっかりお見舞いしてやったというのに、春田先輩には全然伝わらなかったらしい。じゃああと任せたよ~、と晴れやかな顔で去って行ってしまった。再び貸し切りになった生徒会室で、俺は机にうつ伏せる。
「くそめんどい……」
 天間がどんな人間かは知らないが、めちゃくちゃやる気あるやつだったらどうしよう。確実に執筆できない。
 生徒会、やめようかなあ面倒だしメリットなくなるし、と机に向かって愚痴を吐き出したとき、からり、と入り口の扉が再び滑った。視界に入ってきたのは、背の高い男。
「あー、と」
 見覚えはない。けど、もしかしてこれが。
「天間くん?」
 呼びかけると首を引くようにして頷いた。ただ声は発しない。緊張してんのかな。首を傾げつつ、とりあえず俺も立ち上がってみる。
「ごめん、会長、さっきまでいたんだけど、もう帰っちゃってて。あ、俺は書記の飛世。1年D組だから、天間くんとははじめましてだよね。よろしく」
 にこやかに挨拶してみる。でも、やっぱり返事がない。
 おかしいな。コミュ力は高めって先輩、言ってなかったっけ。
 怪訝に思いながら、突っ立ったままの相手を観察する。
 最初の印象通り、背はやはり高い。俺より二十センチ以上高いのではないだろうか。うちの学校の生徒にしては珍しく、髪色は金に近い茶色で、緩くウェーブがかかっている。その髪の間から見え隠れするのは左耳にだけつけられた、赤い石の一粒ピアス。
 顔立ちは流行りのアイドル系で、さらりと整っていて嫌味がなくて、肌もつるんと滑らかだ。もっとも表情はつんと尖っているから、近寄ったら手ひどい言葉を浴びせられてこっちが傷つきそうな気配もあるけど。
 と、まあ、見た目はどうでもいい。大事なのは、こっちの邪魔をしないタイプかどうか、それだけだ。
「あの、春田先輩からも聞いてるとは思うけど、うちの生徒会ね、みんなここぞというときしか仕事しないんだよ。だから毎日、来る必要はなくて」
「でも、飛世は毎日来てんだよね?」
 突然、目の前の彼が口を利いた。その声を聞いて少し驚く。
 派手な外見とは裏腹な、やけにしっとりとした深い声だったから。
 イケボ男子ってやつか、今度小説に使おう、と脳内にメモしつつ、俺はにっこりと笑う。
「あー、まあ。でも、それも義務ってわけじゃないから。天間くんは毎日来なくても……」
「俺がここに来ると、BL書けなくなるから困る?」
 不意打ち過ぎて、笑顔のまま固まってしまった。
 こいつ今、なんて言った?
 BLがどうとか、言わなかったか……?
 なんで? 俺は周りに覚られるようなドジは断じて踏んでいない。なのに、なんで……。
 完全にフリーズしている俺を見つめたまま、彼は戸口を離れてこちらに歩み寄ってくる。大股で迷いなく、まっすぐに。
 そうされて、一歩下がってしまったのはなんでなのか。
 どういう事情でかは知らないが、秘密を知られていることに危機感を覚えたからか。
 それとも、なんとはなしに本能的に、こいつはヤバいやつだと感じ取ったからか。
 わからないけど、とにもかくにも、黙っているままの今の状態は、絶対にまずい。
「ちょっと、なに言ってんのか、わかんないんだけど」
飛魚焔(とびうおほむら)
 逃げ道を塞ぐみたいにさらっと言われて、今度こそ飛び上がりそうになる。
 飛魚焔。それは。
「飛世のペンネームじゃねえの?」
 なんで、こいつ……。
 くすっと天間が笑う。顔立ちは天使のようなのに、悪魔みたいな笑顔だった。
「知ったときはびっくりした。意外すぎたから」
 まずい。本気でまずい。
 でもこういうときこそ、落ち着かないと。
 大丈夫。まだ表情には出ていない。絶対、大丈夫。
 俺はすうっと息を吸ってから、そろそろと吐いた。そして、笑ってみた。
「ごめん。本気でなに言ってんだかわからないんだけど。BLどころか、小説自体、俺は書かないし、読まないけど。なにか勘違いしてないかな」
 我ながら完璧なはてな顔ができたはずだ。声も揺れていなかった、はず……。
 にもかかわらず、こちらに返されたのはおかしくて仕方ないと言いたげな笑い声だった。
 端正な顔がくしゃっと崩れ、一気に表情が変わる。こういう表情変化を小説だとどう書くんだっけ。万華鏡を回したみたい? それとも秋の空みたい?
 いやいや、そんなこと考えている場合か、俺!
「あ、あの、天間、くん?」
「怯えすぎっしょ。飛世でもそんな顔するんだ」
「怯えてなんて。俺は本当に……」
 なんとか言い繕おうとしたけど、天間はお構いなしに笑い続けた。腰を折ってさんざん笑って笑って……まさに笑い転げるというのがぴったりなくらい笑ってから、ようやく気が済んだのか、おもむろに背筋を伸ばし、すうっと目を眇める。
「ってかさ、そもそも飛世がどう言おうがあんまり関係ないんだよね」
 さっきまでの全開の笑顔を九割くらい捨てた、ごくごく薄い笑みを浮かべて天間はこちらを見下ろす。顎を上げないと見上げられないくらい背が高い。それが地味にむかつく。
「俺は飛世がBL書いてること、知ってるし」
「……なんか誤解あるみたいだけど、俺は絶対、そんなの書いてないから」
「声、震えてるけど?」
 面白そうに顔を覗き込まれ、俺はとっさに顔を背ける。そこで、しまった、と慌てた。
 目を逸らすなんて、やましいことがありますといわんばかりの態度じゃないだろうか。
 ああ、もう、なにがどうなってこんなやつにばれたのだろう。そもそもこいつはなに目的でこんなことを言ってくる? 初対面なのに妙にえらそうだし。なんていうか……。
 だんだんむかついてきた。
「……さっきから気になってたんだけど、なんか態度おかしくない? そもそも俺は春田先輩に言われて、お前の面倒みるように言われてるだけなんだけど。その俺がなんでお前に爆笑されないといけないんだよ」
 普段ならこんな敵意剥き出しの言い方なんてまずしない。けど、異常事態のせいもあっておさえられなかった。ぎっと目の前の男を睨むと、長い首がすうっと傾げられた。
「お前、か」
「なに」
「君呼びじゃないほうがいいな。なんか親近感湧く」
 はあああ?
 なに、こいつ、ヤバい。キモい。
 気味悪さを覚え、俺が一歩あとずさると、天間はまた軽く肩を震わせて笑ってからなにを思ったのか、机の上に置いていた俺のノートパソコンに手を触れた。長い指がさらっとパソコンの背面を撫でる。
「話が進まないからはっきり言うことにする。飛世がいくら知らないって言っても、俺は持ってんだよ。お前が飛魚焔だっていう証拠」
「……は? いい加減なこと言うな。証拠あるなら今ここで……」
「うーん。出したら出したでまたごちゃごちゃ言うんだろ。だから言いたくない。ちっとも本題に入れねえし」
 本題ってなんだ! というか、証拠があるとまで言い出したということは、こいつ、それで俺を脅すつもりなのだろうか。冗談じゃない。脅迫に屈してたまるか、と憤ったけど、頭の片隅でひっそりと思ってもいた。
 実際のところ……俺がBLを書いていることを知っている人類はひとりもいない。親や弟達はもちろん、保育園のときからの付き合いの幼馴染、司にも、クラスメイトにも、誰にも知られないように細心の注意を払ってここまでやってきたのだ。小説を書いている人間なんて珍しくないかもしれないけど、男で、高校生で、BLをごりごり書いている、それどころかプロになろうとさえ考えているやつというのは珍しいのではないか。そんな珍しい部類に自分が属することを俺は、恥ずかしいと思っていた。
 書いているジャンルが、ホラーだとか、ヒューマンドラマだとか、現代ファンタジーだとかなら問題ないかもしれない。でもBLは……やっぱり人に言いにくい。というか、リアルの知り合いに知られたら、どんな顔をしていいんだかわからない。だってそうだろう。表では完璧な優等生、優しいお兄ちゃん、にこやかなクラスメイト、みたいな顔をしているのにだ。裏では男子同士の恋愛小説をひたすら書き綴っているなんて……。だめだ、想像しただけで爆発しそうだ。
 その俺の生活を終了に導くかもしれない爆弾をこいつは所持していると言う。
 ああ、どうしよう。どうしたらその爆弾、手放してもらえるんだろう。BL展開で考えるなら下僕になるとかそういう感じか? いやいやまさか。ないって、そんなこと普通は。そう、ふつう、は……。
「誤解がないように言っておきたいけど、俺はその証拠、ばらまきたいとは思ってないんだよ」
 打ちひしがれていたところに突然蜘蛛の糸が垂らされる。ばっと顔を上げると、面白そうな顔をしてこちらを見つめる天間の顔がすぐそばにあった。
「もともと頼みたいことがあって飛世を見てただけだから、正直、飛世がなに書いていようがどうでもいい。ただ今は、知っちゃったからには利用したほうが話が早いのかな、とも思い始めてる」
「……やっぱり脅迫とかするってこと?」
「まあ頼みたいことが頼みたいことだから。そのほうが早いかも?」
「頼みたい、ことって……」
「聞きたい?」
 くつくつと天間が笑う。笑顔自体は人懐っこく見える。でも次に続けられた言葉に俺は心底驚いて、窓際まで大きく後退してしまった。
 だって、だって……。
「ちょこっとね、お前の唇、借りたいって思ってるだけ」
「く、唇って、あの、え、ど……」
「いや、だから。ここ」
 言いつつ、天間が歩を詰めてくる。窓際まで追い詰められてしまっているので、それ以上距離を取れない。あわああわしている間に、手が伸びてくる。
 長い指が検分するようにすうっと俺の上唇と下唇をなぞった。
「お前のここ、貸してって言ってんの」
 冷たい指先の感触に俺は凍り付く。
 唇? え、唇? 貸すってなに? 貸すってまさか。いやいやいや、でも!
 ぐるぐるしている間も天間の指は俺の唇に触れている。
 こ、こいつ、いつまで触ってんだ……!
 頬を染めながら頭を振り、天間の手を乱暴に払ったときだった。
「やっぱりいいな、飛世の唇」
 ふわりと声が落ちた。
 ぎょっとして顔を上げると、間近くこちらを見つめてくる、琥珀色の目と目が合った。
「この距離で見るの二度目だけど、いい。理想的」
 二度目?
 こいつとは初対面じゃなかったっけ?
 必死に記憶をひっくり返している俺のすぐそばで、なあ、飛世、と天間の唇が動く。
 すうっと口角が上がった。
 そして、俺だけに聞こえる柔らかな声で、天間は軽やかに俺を脅した。
「悪いようにはしねえから、俺にお前の唇、貸してくんない?」
 この日、俺の静かな執筆生活は、終わりを迎えた。

―――第一話完―――